知らない男が迫ってくる

@didi3

知らない男が迫ってくる


夕焼けの残光が薄れ始め、駐車場に冷たい風が吹き抜けた。彩香はスーパーで買い物を終え、夕飯の材料を詰めた袋を片手に、自分の車へ向かって歩いていた。仕事帰りで疲れてはいたが、家に帰って料理を始めることを思えば、ほんの少し気が引き締まる。


車が見えてきたその時だった。背中にじわりと違和感が広がる。


「……誰かに見られてる?」


彩香は思わず足を止めた。ゆっくりと振り返ると、駐車場の奥から一人の男がこちらに向かってくるのが見えた。


地味なジャンパーにキャップをかぶった中年の男性。顔立ちはよく見えないが、どこか慌てた様子で小走りに近づいてくる。


「……誰?」


彩香の胸に緊張が走る。


気にしないようにしようと、彩香は視線を前に戻し、鍵を取り出して車のドアを開けた。しかし、ミラー越しに視界の端を捉えると、男がこちらに向かって走り出しているのが見えた。


「え、なに……?」


心臓がひとつ大きく跳ねた。明らかにこちらに向かってきている。


彩香は一瞬で不安が膨れ上がり、急いで車に乗り込むと、内側から鍵をかけた。ドアロックの音がやけに大きく感じられる。エンジンをかけると、男の歩みはさらに速くなり、近づいてくる。


「無理無理無理!」


彩香はパニックに陥り、車を急発進させた。タイヤが小さな悲鳴を上げ、車体が震える。バックミラーに映る男の姿はみるみる遠ざかったが、手に残る汗でハンドルが滑るような感覚があった。


スーパーから少し離れた街路を走り出しても、胸の鼓動は収まらない。なんとか落ち着こうと深呼吸を繰り返すが、再びバックミラーを確認した瞬間、血の気が引いた。


「……あの車!」


先ほど駐車場で見た男が運転すると思われる車が、確かに後ろを走っている。


「たまたま……同じ方向なだけかも。」


そう自分に言い聞かせながらも、ミラー越しに男の車の動きを注視する。信号で停車すると、男の車も同じように停まり、こちらを見ているような気がしてならない。


「曲がってみよう……。」


不安に駆られながら、彩香は突然左にハンドルを切った。しかし、数秒後、バックミラーに同じ車が現れる。


「嘘でしょ……。」


再び信号に止まると、男の車はぴたりと後ろにつけた。もう偶然ではありえない。確信が恐怖に変わり、彩香の背中に冷たい汗が流れる。


「逃げなきゃ……!」


彩香はアクセルを強く踏み込んだ。夕暮れに沈む街を猛スピードで駆け抜ける。商店街の明かりが流れるように視界を通り過ぎ、車内には緊張した呼吸音が響く。


ミラー越しの男の車は一定の距離を保ちながらも執拗に追い続けてくる。角を曲がり、車線を変え、速度を上げてもその距離は縮まりもせず、離れもしない。


「なんで……なんで追いかけてくるの!?」


胸の中で叫びながら、彩香は必死に逃げた。


その時、視界の隅に赤と白の看板が飛び込んでくる。


「交番……!」


決断は一瞬だった。彩香はハンドルを切り、交番の前に車を停めると、エンジンも切らずにドアを開け、買い物袋を抱えて駆け込んだ。


交番の中で、彩香は必死に警察官に訴えた。


「助けてください!追いかけられてるんです!」


警察官が驚きつつ対応しようとしたその瞬間、外からタイヤの音が響き、例の男が交番に到着した。


男はドアを勢いよく開けると、ゼエゼエと息を切らしながら彩香を指差した。


「ちょっと待ってください!」


彩香は警察官の背後に隠れ、怯えた声で言う。


「この人です!ずっと追いかけてきたのは!」


男は両手を挙げて呼吸を整えながら、一歩前に出た。


「す、すみません!あの、それ……僕のハムなんです!」


「……は?」


彩香も警察官も一瞬固まり、顔を見合わせる。


男は必死な様子で彩香の持つ買い物袋を指差し、続けた。


「さっきレジで間違えて持って行っちゃったみたいで!それ、僕の高級ハムなんです!」


言われて袋を開けると、確かに見覚えのない高級ハムが入っている。


「……これ、私のじゃない……?」


男は切実な表情で言葉を継いだ。


「これ、今日の夕飯のメインなんです!妻が楽しみにしてて、これがないと帰れなくて……!」


その言葉に、彩香はようやく緊張を緩め、顔を赤らめながら苦笑した。


「そ、そうだったんですね。全然気づきませんでした……すみません!」


「いえ、僕もいきなり追いかけて怖がらせてしまって……でも、これがないと僕が妻に殺されるかもしれなくて。」


交番内に静寂が訪れた後、警察官が肩をすくめて笑った。


「いやあ、これで一件落着ですね。奥さん、怖いんですねえ。」


彩香も安堵の笑みを浮かべながら袋を渡した。


「次からは追いかけるんじゃなくて、声をかけてくださいよ!」


男は頭を下げ、ようやく笑顔を見せた。


交番を出る頃には、彩香もすっかり落ち着いていた。夕闇に溶ける男の車を見送りながら、ふと呟く。


「こんな騒ぎになるなんて……疲れた。今晩は鮭のムニエルにして、ワインでも楽しもうかな。」

静かな夜が、ようやく始まる。

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