哀の歌

ゆき

第1話

 現代では、音楽が最も高尚な存在であるとされている。

 自らの感情、思い、人生観。音楽で表現できないものはないだろう。音楽はそういう人間のあれこれを表現できる、最も素晴らしい存在なのだ。

 名を馳せる作曲家は上流階級の人間。その殆どが贅沢な暮らしをしている。

 そんな具合だから、作曲ができるというだけで世の親は飛び跳ねて喜ぶのだ。


 そんな世界で今を生きる俺は、今日も今日とて少ない金を財布に入れて買い物に出かけていた。

 夜ご飯はどうしようとか、なんでもない事を考えながら歩いていると、突然肩に衝撃が。


「うおっ」


 よろける俺を襲ったのは、黒く濁った熱い液体。鼻を刺す香り高い匂いから、それがコーヒーだとわかった。


「すいません!」


 後ろから聞こえてきた声。振り向くと、女性が走り去っていくのが見えた。ぶつかって俺にコーヒをぶちまけた犯人だ。

 落ち着いてTシャツに目を向けると、見事に茶色い模様ができていた。

 謝ってくれたのはいいんだけれども、そのまま走り去られると中々心に来るものがある。


「最っ悪だ…」


 ぐしゃぐしゃと頭を掻き回す。

 この状態でスーパーに行くのは…正直羞恥心が邪魔をする。

 まだ午後5時というのもあって人通りは多い。だが幸いここから家は近いし、今日の晩御飯分の食材はまだある。俺は歩みを変えて帰路に着いた。


 この世界で音楽が神格化されたのはつい最近、2022年からだ。

 かつて娯楽を追い求めた人類たちは、様々なものを創り、吟味してきた。

 アニメ、ゲーム、読書――有象無象に触れていったが、中々満足するものを生み出せなかった。

 そこで現れたのが、始祖の音楽『Knullヌル』。作詞者、作曲者不明。突如ネットの海に流された全ての始まり。

 まだネットは今ほど発達してなかったが、世界を、いや、宇宙さえ虜にするほどだった。

 そこから爆発的に音楽が広がったのは言うまでもない。

 スポーツなどの文化は滅んではいないが、じきに失くなるとさえ言われ始めてきた。

 音で満ちた世界だ。食事するように音楽を聴き、摂取する。「好きな食べ物は?」否。「好きな音楽は?」だ。そういう世界なのだ。


 鍵を挿し、ドアを開ける。いつもの狭い玄関で靴を脱いで、すぐさま洗濯機にTシャツを投げ込み、洗濯カゴに入っていたその他諸々もぶち込んだ。スイッチを入れ、洗濯機はぐおんぐおんと音をたて始める。


「やるかぁ…」


 一息ついて、自室に入る。

 こんな俺だが、一応シンガーソングライターとして生きている。

 曲を作ってはSNSの海に流して、バイト代の足しにする生活だ。

 だが今から作る曲は、あまりいいものにはならないだろう。が小さいからだ。

 俺は曲を作ることは確かに好きだ。楽しいし、ある程度世の中に貢献出来ている気がするから。

 だが、俺は少し困った特性を持っている。

 俺は


 初めて曲を作った高校1年生のころ、あまりに聴くに耐えない曲が出来上がった。

 だがその後財布を落とした日に気まぐれで再チャレンジしてみると、そこそこのクオリティのものになった。

 それ以来、不幸を糧にして作曲を続けている。今日の場合、SNSにあげても仕方がないだろう。

100回再生されて800円ほど。今から作る曲ではお菓子を買えるかも怪しい。



 部屋を彩るのはマウスの無機質なクリック音と椅子が軋む音。彩るなんてきれいな言葉で飾るのは適さないようにも思えるが、この時間は嫌いじゃない。

 何度も言うがこの程度の不幸ではいい曲にならないだろう。

 だが俺にとって作曲とは唯一の至楽であり、生きる理由。どれだけ小さな不幸でも摘み取って肥料にし、曲として開花させることが使命。

 自己否定を繰り返す日があったとしても、曲にすればそれは愉しみになり、金にも成る。


「…よし」


 マウスから手を離し、短く息を吐く。ひとまず一段落。晩飯の時間だ。

 しばし虚脱の時間を味わった後、引き出しから目薬を取り出し両目に一滴ずつ雫を落とす。瞬きを繰り返す内に疲れた目は癒やされていった。


「夕飯は野菜炒めでいいかな…」


 ポツリと独り言ちて椅子から立ち上がり、固まっていた腰をぐっと伸ばす。長いこと固定されていたからか、俺を避難するように痛みを発した。

 キッチンに向かおうとドアノブに手をかけたその時、ピンポーンと軽快な音色が廊下に響く。来客だ。

 相手はなんとなくわかっていたが、若干ビビりながら玄関に向かいドアスコープに目を近づける。

 レンズの向こうにある見慣れた顔。同級生のシンヤだ。


「こんな時間に珍しいな」


 首を傾げながら扉を開け、真っ先に見えたのは夕日をバックに佇むシンヤの明るい笑顔だった。


「よっ」

「どうしたこんな時間に」

「いや~夕飯一緒に食べようかな~と思って」


 俺の問いにシンヤはあっけらかんと答える。

 シンヤには、出かけることが好きだと昔から言っている。

 結局外に出ないと不幸な目に合うことはほとんどない。決して不幸を望んでいるわけではないが、何事にも動機は必要だ。


「連絡したけど反応ないから凸りに来たけど…またゲーム?」

「あぁ、そうそう。ヘッドホンするから気付けないんだよ。ごめんごめん」


 もちろん嘘だ。作曲をしていると言ってしまうと、きっと猛烈な質問攻めに遭う。

 どんな曲を作っているのかとか答えるのはあまり気が進まない。別に目立ちたいわけではないからだ。


「とりあえず着替えてくる。ちょっと待ってて」

「はいはい~」


 玄関の扉を閉め、自室に向かった。





















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