泡沫Deadstock

ぐらたんのすけ

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 ――お互いに30までパートナーが出来なかったら、結婚しようね。


 健二にそう言ったのはいつの話だろうか。

 貴方は覚えているだろうか。

 私は覚えているよ。もう私、明日で30になっちゃうよ。

 口に出してしまえたら、どれほど私の心は安泰でいられるだろうか。

 くだらない映画を見ながら、ガハハと豪快に笑う彼の横顔は、テレビの青い光に照らされていた。

 そこは薄暗い部屋の中、男女が二人きりだというのに色気も何も無い空間で。


 画面の中では、コミカルな演技をする俳優たちが楽しそうに笑っていた。


「ねぇ、健二」

「んー?」


 そう声をかけると、彼は私の方を振り向くこともせず返事をした。

 映画に夢中なのだろう。


「……なんでもないよ」


 私はそう呟いて、テレビの方に視線を向ける。

 健二は「そうか」と短く返事して、またテレビに目を向けた。


 時計の針は12時をもうすぐ迎えようとしている。それはなんだか私達のタイムリミットのように思えた。

 あの時計の針がもう一度重なってしまえば、魔法が解けてしまうのだろうか。

 私と健二を結ぶ友情の糸は、時計の針がぷつりと切り取る。そんな妄想が頭を占めていた。

 

 シンデレラも鼻で笑うような焦れったさを自嘲する。

 どうってこと無いのだ、何も変わりはしない。

 彼と私が永遠の友達であることも、彼が私の気持ちに依然気づかないことだって変わらない。

 そんな事を考えてしまえば、鼻の奥がツンとして涙が出そうになった。

 映画を見ながらたまに笑う健二の顔を横目でチラチラと見ていると、なんだか胸が苦しくなって涙が溢れそうになる。


「私、そろそろ寝るから。片付けはしといてね」


 そっけなく彼に呟いた。

 彼もまた「うん」と言うだけだった。

 まだコップに残る焼酎を流し台へと捨て、リビングの扉を締めた。

 そうして自分のベッドに潜り込む。

 でも、なかなか寝付けなかった。頭がチカチカとして、なかなか思考を辞めなかった。

 たまに響く彼の抑えた笑い声と、先程よりも小さくて何を喋っているかわからないテレビの音に耳を澄ませる。

 優しい声だ。決して柔らかい訳では無いけど、その小さな声からは優しさが溢れ出している。

 そのまま暫く天井を見ていた。

 

 ガラガラとベランダの扉を開ける音が聞こえてようやく、もうテレビの音が聞こえないことに気が付いた。

 私もベランダへと出ようと布団から這い出た。

 部屋の明かりはついたままで、外の冷たい空気が床に滲んでいる。

 何も言わずに隣へ立っても、健二は私が来ることを最初から知っていたかのように黙っていた。

 私はベランダの端に置いてあるシャボン液の入った容器を手に取った。

 手のひらにすっぽりと隠れてしまうくらい小さなその容器の蓋を、親指でカチッと外す。

 健二はその様子を横目で見ながらタバコに火をつけた。

 緑の吹き口に唇で優しく触れる。

 私はタバコを吸わない。昔一度挑戦してみた事があるが、もう二度と吸おうという気にはならなかった。でもタバコは嫌いな訳じゃない。

 理由は健二がいつも吸っているのを見ていたから、なんて少しメンヘラチック過ぎるか。

 健二はかなりの、いや、重度の愛煙家だ。なにか事ある度、煙草を吸うために席を立つ。

 そういう時はやはり私は一人で待つしか無かった。

 健二の居ない部屋に何度寂しさを覚えたか。

 だから私は、彼の隣に立つ理由を探してシャボンを吹くのだ。

 煙と同じように儚いそれは、確かに私を安心させた。

 

「身体に悪いよ」


 ベランダから見える夜空を眺めながら呟いた。

 健二はそんな私を横目に、煙を吐いた。

 私がこう言うと、彼は毎度「何を今更」と言って笑うのだ。戻ってきた言葉に、私もいつだって「今更だよ」と返す。

 それは何だか二人の合言葉のようでもあった。白い煙はふわふわと空に浮かんですぐに消える。

 私は健二の顔も見ず、ベランダの柵に凭れながら彼の言葉を待っていた。

 それが正解だった。彼にとっては何気ない戯れの掛け合いは、私のことを一方的に安心させる。

 タバコの煙がふわっと鼻に掛かって、じんわりと染みた。私達二人はベランダから見える月を見ていた。

 彼はまだ私の顔を見ない。その横顔はいつもと違う、何処か思慮深い横顔だった。

 何だかいつもよりも顔に翳りが掛かっていて、私がハッキリと認識出来たのは淡い煙草の光だけだ。

 健二はフゥーッ、と煙を吐いた。

 そして何を思ったか、煙草をベランダの柵に押し付けて火を消した。

 まだ長い煙草は、健二の指でグシャッと潰される。


「……言わないといけない事があって」


 健二の口からは、緊張した様子でそんな言葉が飛び出た。

 真剣な眼差しで、何処かを見つめている。

 暫くそのまま動かないでいた彼は、そうして何かを決心したかのように私に顔を向けた。

 嬉しそうで、寂しそうな、苦しい表情。

 そんな顔をしないでくれと思いながら言葉を待った。

 ただ、私の嫌な予感が外れることは無かった。


「俺……結婚したい奴が出来たんだ」


 私は何も言わずに吹き口をもう一度濡らした。


「……そう」

 

 小さく呟いて、私はゆっくりと、息を吐いた。シャボンが壊れないように優しく。

 大きくなったそれはぷつんと吹き口から離れて宙に浮いた。

 

 「言っとかないといけないと思って……。でも、ずっと言えなかった。ごめん」


 寒さで少し霞む彼の吐息が、そのしゃぼんの表面をじんわり凍らせていってしまうのではないかと怖かった。 

 そしてシャボンは静かに弾ける。


「そっか」


 私は笑った。彼の目を見ないように、顔を伏せて笑った。

 結婚したい奴、それが私のことだなんてこれっぽっちも期待しなかった。

 よかったね、おめでとう。そんな気の利いた言葉なんて吐けるわけもなく、何度もそっかと反復する。

 私は笑い続けた。震える肩を誤魔化すためにはそうするしか無かった。

 健二は私の笑顔に釣られるように笑った。そしてすぐに切なそうな顔をする。


「俺は向こうのことが本気で好きだし、向こうも多分、好いてくれてる。だから」

「それなら、私達もう会わないほうがいいね! 相手もこんな変な女と会ってるなんて知ったら嫌がるでしょ?」


 彼の言葉に被せるように、できる限り明るい声で叫んだ。


「もう私達、子供じゃないんだから。お互いに好きな人が出来たら、ちゃんと応援しなくちゃね」


 彼は多分その言葉が強がりだと分かっていたはず。

 でも、セリフを取られた彼は何も言わなかった。

 それが優しさだと言うことは彼を見なくても分かった。

 私も何も言って欲しくなかった。


「……うん」


 健二は小さく返事をした。

「結婚式は、呼んでね」と呟いた私の言葉は震えていた。

 シャボンの割れる音が響いている。至る所で弾けては消えるシャボンの声が耳の中で反響している。


「......おう」と答えた健二の声は震えていただろうか。

 彼の言葉をシャボンの声で掻き消した私は卑怯だ。

 彼はタバコを胸ポケットにしまったようだった。背後でガラガラとベランダの扉が閉まる音を感じる。 

 私は一人になったベランダで、シャボンの容器を握り締めた。それは私の体温が移り生暖かくなっていた。

 

 売れ残ったのは私だけかと、再びシャボンを吹こうと顔を上げる。

 優しく、ゆっくりと吹いたつもりだった。でも何故か上手くいかなかった。

 私の吐く息に押され、小さな泡の結晶があたりに舞い散る。

 その瞬間に世界が滲んだ。きらめく泡が部屋から差す明かりを乱反射して、それを受け止めた私の瞳が光を歪めた。

 そして私の目から溢れた涙は、ベランダの柵に落ちてパチンと音を立てて弾けた。

 

 リビングに戻ると、もう彼の荷物はなかった。机の上も、彼が食べたお菓子のゴミも何もかも綺麗になっていた。

 彼の残骸が消えた私の部屋には、箱が一つだけ残されていた。

 ――Happy Birthday

 馴染み深いがさつな文字と、小さなショートケーキが一つ。

 その文字を見ているだけで動悸が収まらなくて。

 冷たい空気が嫌に恋しかった。もう一度あの場所に立ちたいという、叶わぬ思いが膨らんでいた。

 

 慰めのためか、私はもう一度ベランダへと出た。

 そしてまだ自分がシャボン液を持っていることに気が付く。

 最後に一度だけ。そう思い私は吹き口をその液にチャプチャプと浸した。

 もう用はないからと、持っていたシャボン液のを全て捨てる。


 落ち着いて息を吹くと、今度はゆっくりとシャボンを大きくすることが出来た。

 誰にも言えぬ胸の内を吐露するようにゆっくり。

 ゆらゆらと頼りなくも、その泡は宙へと跳ねた。

 

 暗黒へとしゃぼんは飛んでゆく。

 ゆらゆらと揺らいで飛んでいく。

 その表面は虹の文様を見せながら世界を歪めていた。


 このしゃぼんは私の恋だ。不安定で頼りなくて、コロコロと形を変えて。

 割れてしまえと、心の底から願っていた。

 私の恋なんて割れてしまえ、この世界から姿を消してしまえ。

 死んで、無となれ臆病者め。

 

 ただ、いくら願ってもシャボンが割れることは無かった。

 未だ揺れ続ける泡は何だか私を馬鹿にしている気がした。

 無性に腹が立つ。頭の中が弾けてしまって。

 私は自分が泣きたいのか、怒っているのか、悔しいのか、寂しいのか見当がつかなかった。

 

 煙草の匂いは、彼が居なくなった後も辺りに滞留している。

 多分この匂いは何時までもここに残り続ける。そして私がベランダに出るたび、今日のことを思い起こすのだろう。

 そんな事気付かなければよかったと、暗闇に吸い込まれて見えなくなったしゃぼんのせいで思うのだ。

 

 沈む私と裏腹に、しゃぼんは何処までも飛んでゆく。

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