季節外れの七夕
製本業者
七夕が終わってから出会った二人の物語
(1)
「……ねえ、知ってる。
七夕に知り合った恋人って、絶対にうまく行くんだって。」
後ろから聞こえた高校生ぐらいの女の子の声に、飲みかけていたアイスコーヒーをふと下ろした。
コギャル、とか言われていて、自分には全く理解できない存在だと思っていた女子高生。
それだけに、昔ながらの言葉が以外だった。
そして、案外変わっていないことに気がつく。
そして、フッと鼻から息を吐き、苦笑した。
恋人、と呼べる存在のいない彼には、全く関係のない一言。
そのはずだった……。
その日も、残暑の厳しい日だった。
八月も、もう終わりに近い。
学生たちは、残り少なくなった夏休みと溜まった宿題の量を見比べて、顔を青ざめさせている。中には、すでに諦めている者もいるだろう。
もっとも、そんなことは社会人にとってあまり関係ない。
ほとんどの会社では、お盆を過ぎるとすぐに平日が戻ってくる。
陽一は、机の端に置かれたレシートを取り上げ、財布を出した。
店に入ってから三十分近くが経っている。
そろそろ会社に戻らなければならない。
レジで、少々評判の悪い医師が印刷されたお札を出し、お釣りをもらった。
ジーッと、どこからともなくアブラゼミの鳴き声が聞こえてくる。
アスファルトからむっとするほどの熱を感じながら、陽一は思った。
まだ、しばらく暑い日が続きそうだ。
終業時間を知らせる鐘の音が聞こえた。
陽一は席で軽く伸びをした。すると、突然背後から声がかかった。
「岸田先輩、忘れてませんよね。」
声の主は後輩の坂元だった。今年の新入社員で、まだ学生気分が抜けきっていない様子だ。陽一は、彼の教育係を任されている。
「……何だっけ。」
「今日の飲み会ですよ。ほら、今度合コンするって言ったじゃないですか!」坂元は、待ちきれない様子で身を乗り出す。
「ああ、あれか。もちろん、完璧に……忘れてた。」
「……やっぱり。先輩、少しは楽しみにしてもらわないと。」
「また今度に……。」
陽一は片手を合わせて軽く頭を下げながら言った。まだまだ残務が大量にある。できれば月曜には持ち越したくない。
「ダメです。今度という今度は絶対に参加してもらいますからね。せっかく先輩にピッタリな感じの女性を揃えてるんですから。」
妙に迫力のある言葉に、陽一は思わず苦笑しながら首を縦に振った。確かに、興味がないわけではない。だが、どうせ緊張してうまく話せないだろう、と気が進まないのも事実だった。
場所は会社から比較的近い、チェーン店の居酒屋だった。
学生時代から、こういった雰囲気は苦手だった。店自体は平気だが、合コンという場がどうも合わない。中学から男子校で、大学も工学部。サークルはワンゲルで、その頃は女性が一人もいなかった。兄弟は弟が一人で、女性の気配は皆無。
そのためか、陽一は女性に対して苦手意識を持っていた。もっとも、それが自分の欠点だとは分かっているし、興味が全くないわけでもない。むしろ、女性と少しでも話ができると気まずいながらも内心は嬉しかった。だが、どう話していいか分からないのだ。
「何ですか先輩、その緊張っぷり。女の子と手も繋いだことない中坊じゃあるまいし。」坂元は、ぎこちない陽一をからかうように笑った。
「そ、そんなことないだろ……別に普通だ。」
「その“普通”がヤバいんですよ、先輩。見てくださいよ、この合コンの場に一番奥手そうな先輩がいるなんて、どういうことですか。」
陽一は少し困惑しながらも、内心少しだけドキドキしている自分を感じていた。
予約がしてあったのか、何も注文しなくてもすぐに料理とアルコールが運ばれてきた。
席は男女が向かい合うようにセッティングされており、陽一はひとまず端のほうに腰を下ろした。
新入社員の坂元がセッティングしただけあって、相手も大学や短大を卒業したばかりといった感じの若い女性たちが多い。その中に、一人だけ20代後半と思われる女性が混じっていた。普段なら目立たないタイプだが、この場では少し浮いた感じがするのは仕方ない。積極的に参加している様子もなく、おそらく陽一と同じく気が進まず出席しているのだろう。
陽一と目が合った瞬間、彼女は小さく苦笑して見せた。おそらく、彼も「同類」と察したのだろう。
必然か偶然か、彼女は陽一の正面の席になった。年が近いこともあってか、自然と二人での会話が多くなる。
「白河華子です」と、彼女は軽く会釈しながら名乗った。
「岸田陽一です」と陽一も返し、ぎこちなく名刺を取り出して交換した。これに隣の坂元が小さく吹き出すのが見えて、陽一は少し気恥ずかしくなる。
「どうも……会社の飲み会も、久しぶりなんですよ」と陽一が言うと、華子も少し微笑んだ。
「わかります。私も最近、こういう場はほとんどなくて……会社の人と飲むと、どうしても仕事の話ばかりになっちゃって。」
「そうですよね。学生時代はこういう場所ももっと気楽だった気がするんですけど。」陽一が少し照れながら言うと、華子も小さくうなずく。
「でも、学生の頃って、あんまり合コンとか行かなかったタイプなんじゃないですか?」華子は少し意地悪そうに陽一を見つめた。
「え、いや、まあ……」陽一は顔を赤くして苦笑する。「ま、まあ、ほとんど男子校だったんで、合コンの機会もなくて……」
「やっぱり! なんだか、そんな感じだなって思いました」と華子はクスクスと笑う。その笑顔に少し和み、陽一も自然に笑みがこぼれた。
気づけば、少しずつ会話が弾むようになっていた。
そして、あっという間に飲み会が終わる時間が近づいてきた。
「それじゃあ、ここまでで、次は二次会行きまーす!」坂元が立ち上がり、少し酔っているのか語尾が怪しくなっている。
「次はカラオケですよー!」と声を張り上げると、思わず拍手が起こった。
「白河さん、どうされますか?」と、華子の後輩らしい少し幼い顔立ちの女性が尋ねた。
「ごめんなさい。私は遠慮するわ」と華子は申し訳なさそうに笑顔で断った。
すると、華子の後輩が陽一に向かって言う。
「じゃあ、岸田さん、白河さんを送ってあげてくださいよ。」
「えっ、別に一人で……」アルコールのせいか、顔を少し赤くした華子がうつむきながら言った。
「いいじゃないですか。駅まで送ってもらうだけなんですから。」
「そうそう。タクシーがいるほどの距離でもないですし。」
「いくら岸田先輩でも、まさか何もできないでしょう。」
「えっ、岸田さんって送り狼だったんだ。」
周りが口々に色々と言い始め、陽一は内心で少し焦った。
「でも、岸田さんにご迷惑じゃ……」華子はちらりと陽一を見上げて言った。
「あっ、僕は……」と陽一が何か言おうとする前に、坂元がニヤリと笑って肩をたたいた。
「大丈夫ですよ。岸田先輩、明日会社に出なきゃいけないって言ってましたから、早めに帰るって!」
陽一は、何も言えず、ただ照れくさそうに頷くしかなかった。
結局、陽一が駅まで送ることになった。
少しでも長く話していたい。
そう思いながら歩いていると、あっという間に駅が見えてきた。
喫茶店にでも誘おうかと思ったが、言葉が出てこない。
「よろしければ、コーヒーでもご一緒しませんか。」
その言葉は、陽一の口からではなく華子の口から出た。
「喜んで。」
かすれ気味に、上ずった声で陽一はなんとか返事をした。
(2)
「アイスコーヒーで良いですか。」
「ええ、お願いします。」
陽一がメニューを閉じると、深夜営業の喫茶店が予想以上に健全で、意外に人も多いことに気づいた。ウエートレスが水とおしぼりを置いていき、陽一は「冷コー二つ」と頼んだ。関東ではあまり使わない言葉だが、ウエートレスはすぐに理解してくれたようで、軽く頭を下げてカウンターへ向かった。
少し沈黙が流れた。陽一は水に口をつけながら、何を話せばいいかと考える。なんとなく、話さなきゃという気持ちと、気まずさも感じていた。
「……そういえば、こないだとんでもないことを頼まれましたよ。」
陽一が切り出すと、華子が興味を示して顔を少し近づけた。
「どんなことですか?」
「いやぁ、お盆休みの時なんですけどね。学生時代の友人が突然やってきて、女の子の写真をポンと置いていくんですよ。それで、“お見合い写真”って言うんです。」
「お見合い……って、まさか陽一さんに?」華子が驚いたように身を乗り出した。
「いやいや、僕じゃなくて弟に、ですけどね。」
ちょうどそのとき、ウエートレスが冷えたアイスコーヒーを持ってきた。二人は無意識に同時にグラスを口に運ぶ。一口飲むと、よく冷えた苦味が酔いを少し冷ましてくれるようで、陽一は少しホッとした。
「でも、なんだか分かります。親御さんにとっては心配なんでしょうね。」華子が遠い目をして言う。
「田舎はまだ、結婚が女性の幸せだって考えが根強いみたいですね。」陽一は、盆休みに来た友人の話を思い出しながら話した。
「そうですね。都会でも、そういう考えの人は意外と多いですけど。」
「……そうかもしれませんね。幸い僕は今のところ、お見合い話を押し付けてくるお節介な知り合いはいませんけど。」
「私にはいますよ。特に叔母が、すごく心配しているみたいで。」
「えっ、そんなことないでしょう?華子さん、まだまだ若いじゃないですか。」陽一が少し驚いて言うと、華子は照れたように笑った。
「ありがとうございます。でも、会社ではもう“お局”扱いなんですよ。何度かお見合いもしたんですけど……どうも、しっくりこなくて。」
「やっぱり、いきなり会うのは難しいですよね。」陽一が共感するようにうなずく。
「ええ、そうなんです。真面目な人ならいいんですが、ちょっと変わった人もいて……」
「変わってるくらいならいいですけどね。あ、僕も実は一度だけ知り合いから“お見合いしてみない?”って勧められたことがあるんです。でも、想像しただけで逃げたくなって……」
華子は思わず吹き出して、軽く微笑んだ。「そうですよね。お見合いって、何を話せばいいか困りますし……」
気づけば二人の会話は自然と弾み、笑顔もこぼれている。しかし、ふとした沈黙が訪れると、陽一は少し焦ったように水を一口飲む。気まずさを埋めるように話し出したい気持ちと、でも何を話そうか迷う気持ちがせめぎ合う。
「……でも、今日は楽しかったです。」陽一がぽつりと言うと、華子もそっと微笑んだ。
「私もです。陽一さん、気を遣わずに話せるので……なんだか、安心しました。」
照れくさそうにお互いを見つめていると、華子がふと腕時計を見て驚いた表情を見せた。
「もう、こんな時間……。ごめんなさい、そろそろ電車が……」
「本当ですね、もう遅いですし。すっかり引き留めてしまいましたね。」陽一は伝票を持って立ち上がった。
「あっ、私が誘ったんですから、払いますよ。」華子が慌てて言うが、陽一は軽く首を振る。
「いえ、遠慮しないでください。コーヒー代くらいなら大丈夫です。」
レジに向かいながら、ふと華子を気にかけるように振り返る。
「それより、電車は大丈夫ですか?」
「ええ、間に合うと思います。」華子は少し焦った様子で、お辞儀をした。
「今日はありがとうございました。」
「こちらこそ……あの、駅までお送りしますよ。」陽一は釣り銭をもらいながら言った。
「ありがとうございます。でも、もうすぐそこなので……」華子は控えめに断り、もう一度お辞儀をして微笑んだ。
陽一も慌てて頭を下げ、名残惜しそうに彼女を見送る。華子が駅の中へと消えていくまで、陽一はその後ろ姿を見送っていた。
何を話していたのか思い出そうとして、陽一は驚いた。ほとんど覚えていない。くだらない話をただ適当に並べていただけの気がする。普段ならもっとしっかり意識しているのに、この時の記憶はぼんやりとしていた。
ただ、普段よりずっと、飲む量が少なかったことだけは覚えている。
(3)
月曜日。
陽一は、名刺を指でくるくると回しながら、なんだか落ち着かない様子だった。時折ふとした瞬間にため息をつき、目の前の書類にもほとんど手がついていない。
「岸田先輩?」
突然、後ろから坂元が声をかけてきた。
「わっ、わぁお! な、なんだい、いきなり。」
「いきなりじゃないですよ。さっきから何度も呼んでるのに、まったく無視して。何をそんなにぼんやりしてるんですか?」
「べ、別に……なんでもないよ。」
慌てて名刺を名刺入れにしまう陽一を見て、坂元はニヤリと笑った。
「なるほど。昨日会った女性に、連絡をするかどうか、悩んでるんですね。」
「そ、そんなこと……。」
「……あるんでしょう、完全に。」
「……うん。」陽一は力なくうなずいた。
「だったら、かければいいじゃないですか。」
「でも、いきなり会社にかけるのも失礼だろう? 彼女だって迷惑するかもしれないし。」
「じゃあ、携帯にかければいいじゃないですか。」
「……番号、聞くのを忘れた。」
坂元は呆れ顔でため息をつく。「まったく何やってんですか、先輩。いい歳して……」
「でも、教えてくれなかったってことは、脈がないってことかな……?」
「いい歳してそんなこと言わないでくださいよ。脈がなかったら、わざわざ一緒に喫茶店でお茶なんてしませんって!」
照れくさそうに苦笑する陽一を見て、坂元は微笑をこらえながら言った。
「何なら、それとなく番号を聞いてきてあげましょうか。」
「できるのか?」陽一の目が輝く。
「そんなに食いつかないでくださいよ。あそこには知り合いがいるんです。ちょっと頼めば簡単に聞けますよ。」
「おお、頼もしいな……。」
坂元が「任せてください」と胸をどんと叩くのを、陽一は心強そうに見つめていた。なぜ坂元が喫茶店に寄ったことを知っているのか、という疑問も湧かないくらい浮ついていた。
同じ頃。
「白川さん、何ぼんやりしてるんですか?」
華子の後輩、後河がディスプレイをぼんやりと眺めている華子に声をかけた。
「昨日はどうでした?」
「えっと……途中でお茶して、それから帰った、だけよ。」
「それだけ?」
「何期待してんのよ。まだ、何もないに決まってるでしょ。」
後河は「ふぅん」と軽く相づちを打ちながら、思った。*“まだ、何もない”*って言い方するってことは……少しは気になってるってわけか。
「でも、携帯番号くらい聞かれたんじゃないんですか?」
「……それが、聞かれなかったの。」
「もう、いい歳して何やってるんですか?」
「いい歳は余計よ。」少しムッとした声で華子は答え、しばらくためらってから、ぽつりとつぶやいた。
「……もう、焦らないことにしたから。」
後河は思わず小さく笑いながら、「大丈夫ですよ。そのうち向こうから来ますって」と励ました。華子は照れくさそうに微笑み、視線を落とした。
その日の午後。
「教えてもらいましたよ。携帯はちょっと……だって、なんか古風な感じで、いいとこのお嬢さんみたいですね。」
坂元が、そわそわしている陽一に声をかけると、陽一は急いで古い電子手帳を取り出した。
「ちょっと待ってくれ。」
坂元が告げる番号を、陽一は何度も念を押すように確認しながら慎重に入力していく。
「それで、今夜にでも電話を?」
「いや、ちょっと急すぎるよな……うん、でも、今夜か明日くらいには……」陽一は、ためらいがちに独り言のように言いながら手帳をしまった。
坂元は、そんな初々しい陽一を見て、笑いをこらえきれずにいたが、どこか応援したい気持ちもあった。
(4)
その日、会社の帰り道。
信号が変わると同時に飛び出し、階段を一足飛びに駆け上がる陽一の姿がそこにあった。まるで大好きなテレビアニメを見るために急いで帰る子供のようで、完全に周囲のことが目に入っていない。電車に飛び乗ったところでふと我に返り、自分が今どんな顔をしているのかに気づく。まるで初デートに舞い上がってる中学生じゃないか……と、思わず苦笑してしまう。近くの乗客が、不思議そうにこちらをちらりと見ているのが分かり、陽一は少し顔を赤らめた。
「何て言って切り出そう……」
陽一は家に戻ると、携帯を握りしめたまま悩んでいた。どうやって声をかければいいのか、自分でもまったく分からない。経験の少なさがもどかしいと感じたのは久しぶりだ。頭の中で色々とシミュレーションをしてみるが、経験不足のためにまともな会話の展開が浮かばない。時間も夜の8時を回り、そろそろかけるには良い頃合いだ。陽一は意を決して番号を押した。
一方その頃、華子も同じく電話をするべきか悩んでいた。母親や叔母たちにせかされると反発したくなるが、自分が“適齢期”に差しかかっているのも事実で、焦りがないと言えば嘘になる。しかし、ふとした迷いや不安が頭をよぎる。*どうせ脈なんてないんじゃ……*と、少し諦めかけたそのとき、突然電話が鳴った。
「ひゃっ!」
思わず驚いて手を引っ込める。悪いことをしていたわけではないのに、突然の呼び出し音に心臓が跳ね上がった。受話器を取ると、それは父親からの連絡で、「今夜も遅くなる」というものだった。最近、父親は地方会社の東京営業所長として、仕事を確保するために遅くまで働いている。複雑な気持ちで受話器を置いた後、華子はゆっくりとため息をついた。
一方、陽一は電話をかけ直すべきかどうか悩みつつ、再度番号を押した。しかし――。
「……ツー、ツー、ツー。」
今度は話し中だった。せっかく思い切って電話したのに、またもかからなかった。少し残念だが、どこかホッとしている自分がいるのも事実。よし、あと30分したらかけ直そう……。受話器を置いてから、さらに数分が経ったところで、思い直してもう一度だけ電話をかけてみた。
「プルルル、プルルル……」
今回はつながった。やがて、受話器の向こうで女性の声が応答した。
「はい、岸田ですけど……」
陽一は一瞬ドキリとしたが、華子の声ではなかった。なんと自分の自宅に間違い電話をかけていたのだ。慌てて「す、すみません、間違えました!」と切ると、陽一は思わず頭を抱えてしまった。
もう一度、今度こそ彼女の番号を……*意を決して再度番号を押し、今度は無事につながった。受話器の向こうから、華子の母親らしい女性の声が聞こえてきた。
「華ちゃん、岸田さんって方からよ。」
華子は少し緊張しつつ、急いで自分の部屋のコードレスフォンを取った。
「もしもし、お電話代わりました。」
「あ、あの、突然すいません。ぼ、ボク、岸田ですけど……」
「金曜日はどうもすみませんでした。」華子が少し照れた様子で答える。
「い、いえ。こちらこそ。」陽一はなぜか言葉が詰まり、喉が異様に乾いてくる。
「……え、えっと、それで、ですね。今度の土曜日、お暇ですか?」
「えっ、はい。会社も休みですし、ちょうど空いてます。」
少し沈黙が流れ、陽一は内心でドキドキしながら続けた。
「よかったら、映画に行きませんか。ちょうどチケットをもらったんですよ。」
「ええ、喜んで! 映画、久しぶりなので楽しみです。」華子が嬉しそうに答えると、陽一も少しホッとした。
「じゃあ、待ち合わせ場所は映画館の前でもいいですか?」
「もちろん、大丈夫です。じゃあ、11時くらいでどうですか?」
「いいですね、じゃあ土曜日、楽しみにしてます。」
「どうも……失礼します。」
陽一は電話を切ると、近くのタオルで額の汗を拭った。10分にも満たない短い会話だったのに、全身から汗が吹き出していた。彼の心はすでに週末へと飛んでおり、映画館での初デートを想像して、再び浮ついた気分に浸るのだった。
(5)
初デート、と言っても大したことは何もない。
映画館の前で合うと、時間調整もかねて近くの小洒落た店で昼食。
まだやっていたハリウッド製怪獣映画を見終わると、喫茶店で他愛のないお
喋りを珈琲を飲みながら交わし、別れた。
いきなり、大人の関係になるわけで無し、まあ、こんなモノだろうと双方と
も納得している。
ただ、今度の金曜日に夕食を一緒にすることが、大いなる進展。
そんな、普通の交際が始まって、次第に親密になり、大人の関係、へと移行
していく。
ほぼ毎週、食事をしたり、どこかに遊びに行ったりする。
既に華子は陽一の部屋の鍵を持っていた。
気がつくと、そんな恋人同士に二人はなっていた。
ある日、些細な違和感がふと生じた。
忙しさから、二人の会う頻度が減り始め、約束がずれることも増えた。
「今度は絶対に行こう」と言い合うものの、予定が合わず、微妙なすれ違いが積もっていった。
きっかけは、何だったんだろう。
多分、些細なことだった。
例えば、日曜に一緒に過ごすと約束していたのに、急に陽一の仕事が入ってしまったこと。
また、華子が陽一の好きだった髪型を変えたことに、陽一が気づかないまま話題に出さなかったこと。
二人とも、言いたいことが少しずつ心の中に溜まっていく。
そしてある日、二人の間でそれが言葉として表面化した。
「最近、なんか距離を感じるんだよね」と華子がぽつりと口にした。
陽一は一瞬、驚いた表情を浮かべたが、すぐに表情を引き締めた。
「距離って、どういうこと? 忙しいだけだろう?」と少し棘のある口調で返した。
そこから、些細な違和感が積もっていたことに気づかぬまま、互いに言葉が止まらなくなった。
だから……途中から理由などどうでもよくなって、意地と感情が交差し、後には気まずい沈黙だけが残ってしまった。
今となっては、気まずい思いだけが残っていた。
ただ、もう言葉が止まらない。
互いに、退くに退けなくなっていた。
陽一は、今日になって何度目かの大きなため息をついた。
「岸田先輩。」
坂元が、後ろから呼びかけてきた。
「わぁお、な、なんだい。突然。」
「突然、じゃないでしょうに。さっきから何回も呼んでるのに全くしらん振り
で。一体どうしたんです。」
「べ、別に……。」
「何が、別に、ですか。全く。どうせ、彼女と喧嘩でもしたんでしょう。」
「そっ、そんなことは……。」
「あるんでしょ。相変わらず、嘘が下手ですね。」
顔を真っ赤にして否定する陽一に、何でもお見通しだぞ、と言った風な笑みを浮かべて、坂元は言った。
「……。」
「たかだか、喧嘩したぐらいで、地球の終わりでも来たような顔をしないで下さいよ。」
「……俺に取っちゃあ、世界の終わりみたいなもんだ。
完全に嫌われたよなぁ。はぁ。」
陽一は、肩をすくめた。
「謝ればいいじゃないですか。」
「そんなこと言ったってな……。」
「向こうだって、誠心誠意謝ればきっと少しはわかってくれますよ。」
「そうかな。」
「そうです。そんなもんです。」
「そんなもんかな。でも、それでダメなら……。」
「その時は、諦めなさいよ。女なんて、いくらでもいるんだから。」
「いや。華子さんは特別だ。そんな、そこらの女と一緒にしないでくれ。」
「だったら、なおさらじゃないですか。善は急げと言いますから、今日にでも謝ってしまいなさいな。
何なら、僕が白河さんの会社に電話してあげましょうか。」
「いや。今晩自分でする。」
坂元は、陽一から離れると、小さくため息をついた。
「全く……。」
「白河さん、どうしたんですか。」
後河は、妙にピリピリしている華子に勇気を出して声をかけた。
「何よ。」
「いえ、ただ今日はやけに機嫌が悪そうだったんで……。」
「私はいつも、不愛想で怒ってる顔をしてますよ。」
「……全く、いい歳して何いじけてんですか。」
「どうせ私は、いい歳した行き遅れのお局様ですよ。」
「……ふられたんですか。」
「そうよ。ふられたみたいなもんよ。いえ、こっちからふってやる。」
「喧嘩したんですね。」
後河は、納得して一人で肯いた。
「……。」
華子は、軽く肯き、小さく言った。
「わかってるわよ。」
「えっ。」
「わかってる、て言ったの。でも、でもダメなのよ。……。」
「……。」
「……ごめん。」
そういって、その場から離れていく華子を見ながら呟いた。
「全く……。」
(6)
そういえば、携帯をスマホに変えたのは「長電話しても大丈夫なように、キャリアを合わせよう」という話からだったな。
そんなことを思い出しながら、ためらいがちに番号をコールした。
「……。」
「……。」
電話越しに沈黙が続く。お互い何かを言いたいのに、言葉が出ないまま時が過ぎていく。お互いの気配だけが、淡い距離感を越えて静かに耳に届いている。
陽一が、意を決して口を開いた。
「……少し話せるかな?」
「……うん。」
華子の声は少し震えているようだ。
しばらくまた沈黙が流れる。陽一は、次の言葉を出すのを躊躇っていた。「会いたい」と言うのが怖かった。それを言ったとき、拒まれてしまうんじゃないかと。
それでも、意を決して、ようやく言葉を続けた。
「会える?」
「……ええ。」
華子の返事も、どこか不安げで控えめだった。
「じゃあ、喫茶店で……。」と、ほぼ条件反射で何度も行っていた喫茶店が頭に浮かんだ。
「ええ……すぐに行きます。」
電話を切った瞬間、陽一の胸に複雑な思いが広がった。
昔から二人で通っていたあの場所。
そう告げただけでわかってもらえる心地よさが、なんともいえず温かい反面、ひどく切なかった。あの場所に戻っても、もう前のような二人には戻れないかもしれない──そんなぼんやりとした不安が、心に影を落としていた。
一方、華子も電話を切ると、急いで身支度を整えた。外に出て、ひんやりとした空気に思わず身をすくめる。ジャケットを羽織りながら、ふと心に浮かんだのは、陽一のぬくもりだった。
(7)
いつもの喫茶店。
陽一は、いつものように珈琲を啜っていた。
すでに、4杯目の珈琲だ。
電話をかけるまでに、すでにこの店で三杯の飲んでいる。
カラン。
呼鈴の音とともに、華子が入ってきた。
なぜか、いつものように呼びかけられない。
「……こんばんは。」
「……よく来てくれました。」
変に堅苦しいあいさつをしてしまう二人。
「ロシアンティー、一つ。お願いします。」
「あっ、珈琲もう一杯。ブレンドで。」
「はい。ロシアンティーとブレンドね。」
店長は、意地の悪い笑みを浮かべた。
「あの……。」
「あのぅ……。」
もじもじしていた二人は、ちょうど同じタイミングで声をかけ合った。
「あっ、あの、お先にどうぞ。」
華子にそう言われた陽一は、思い切って話し始めた。
「ごめん。こないだのこと、謝っておこうと思って……あんなこと言ったけど、本心じゃないんだ。」
「……。」
「別に、悪気があったわけじゃないんだ。そのことだけは、どうしても言っておきたくて。」
「……。」
「……もしかしたら、ちょっと甘えてたのかもしれない。こんなふうに気を許せる相手って、初めてだったから。」
「……。」
「とにかく……本当にごめん。」
陽一は、心に溜まっていたものを一気に吐き出すように話し終えた。どこかホッとしたような開放感を感じていたが、それと同時に自分がいかに不器用かも痛感していた。
「……莫迦。」
華子の反応は意外だった。泣き出すでも怒るでもなく、ただぽつりとそう言った。
「ごめん……。その通りかも。」
「そうよ。あなたは莫迦。そして、私はもっと莫迦。」
「……。」
「二人して、大莫迦者。相手がどう思ってるかもわからない唐変木で、自分のことばっかり考えてる利己主義者。二人とも、駆け引きも何も知らないお子様なのよ。」
「そんなこと……。」
「いいの。結局、下手くそなのね、私たち。恋愛も、気持ちの伝え方も、何もかもが。」
「……。」
「年を重ねればうまくなるって思ってたけど、そうじゃないのね。結局、下手な人は下手なまま……。」
華子が激しそうに見えて、どこか冷静に話しているのに対し、陽一は普段の臆病さを捨て、断定的な口調で言った。
「……下手くそでいいじゃないか。」
「えっ……?」
華子は驚いて陽一を見つめた。
「莫迦だって、唐変木だって、利己主義者だって、そういうのも全部含めて君なんだよ。完璧な天使を好きになったわけじゃない。僕が好きなのは、君なんだ。こんなくだらないことで、君を失いたくない。」
信じられないことに、こんなくさい台詞が自然と口をついて出た。
「……私なんかで、本当にいいの?」
「謙遜は最大の自惚れなり、って言葉を知ってる? そう言うときは『私が一番ふさわしいの』って言ってるように聞こえるんだよ。」
「でも、私はあなたより三つ年上だし……。」
「姉さん女房は金のワラジをはいてでも探せって言うくらいなんだ。」
華子は思わず笑いそうになりながらも、今の展開についていけないでいた。これが別れ話に向かうと思っていたのに、話がまったく逆の方向に進んでいる。だけど、それが嫌なわけではなかった。
「でも……私なんかで、あなたを幸せにできるか、まだちょっと不安で……。」
「大丈夫、僕も同じさ。君と一緒にいられるなら、不安なんて少しずつ乗り越えられる気がするよ。」
「それでも……」
(8)
「はい、ロシアンティーとブレンドね。」
店長が、タイミングを見計らったようにして、二人の前にティーカップを持ってきた。微笑みを浮かべて、わざとらしく少し間を置く。
「そういえば、二人が初めて会ったのは八月二四日だったよね?」
「あれ、そうですけど、そんなこと言いましたっけ?」
店長は二人の前にカップをそっと置きながら、わざと質問を無視して、笑みを浮かべて言葉を続けた。
「知ってるかい?
七夕に出会ったカップルは絶対うまくいくって、昔から言うんだよ。」
「聞いたことはありますけど……僕らが会ったのは、八月……。」
「八月二八日だね。」
店長は意地悪っぽくニヤリと笑い、さも重大な秘密を明かすように囁く。
「旧暦でいう七月七日。つまり、本当の七夕なんだ。」
「あっ……」
「えっ……?」
驚きに目を見開く二人に、店長は一層おどけた調子で祝福を送る。
「おめでとう、二人とも。これで絶対うまくいくね。」
ふと我に返った二人が顔を見合わせ、少し気恥ずかしそうにしながら店長の方に目を向けると、いつもの優しい笑顔が返ってくる。
季節外れの七夕 製本業者 @Bookmaker
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