一章 -異世界よこんにちは-

第1話 この日は運が悪かった











 電子の大海、それは今やどこまでも広がり、底が見えぬほど深い。

 数え切れぬほどの言葉が飛び交い、様々な感情が渦巻いては咲き誇り散って死んでいく。新しかったものが刹那の間に古くなり、誰にも見られずに朽ちていくことさえある。

 そんな世界を、誰もが覗き見ることが可能となり、それが当たり前のように日常の一部と化していたある日、電子の世界で名を知られていた者が一人、忽然と消息を絶った。





 ***







 朝のワイドショー。大型家電店のショーウィンドウに並ぶ画面の中では、女性キャスターがマイクを片手に足元にたたずむ道祖神を過ぎて、坂道のように緩やかな石段に足をかけて一段一段確かめるように、ゆっくりと上る。



『―――例年通りの梅雨入りを迎えた今日。二年前に起きた不可思議な事件もまた、今日と同じように梅雨入り宣言がでた日のことでした。……この場所でライブ配信をしていた有名配信者の『ヒカル』さんが、深夜の心霊スポット巡りを配信中、まさに神隠しのように忽然と姿を消したのです。それは当時配信を視聴していた人々でさえも謎としか言えないような状況で起こり、配信を観ていた現場近くの視聴者がその場に駆け付けた時には、すでに残されていたビデオカメラ以外になんの手がかりもなく、その後も消息が掴めないまま二年という月日が流れてしまいました』



 番組が取り上げているのは、とある行方不明事件だった。

【迷子坂神隠し事件】と呼ばれるそれは、配信の真っ最中だったヒカルという人物が、この心霊スポットといわれる【迷子坂】で、突如として行方不明になった事件である。

 画面が切り替わり、当時の配信映像が流れ始めるが、それを視界の端に映しつつも、縫うようにして人込みをかき分け足早にショーウィンドウの前を通り過ぎた。







 ――――そう、その日は妙に運が悪かった。







 いつもなら耳元でやかましく鳴り響くはずの目覚ましが、今日に限ってスンと澄ました顔をするかように無言だったのは、いつも殴る勢いで音を止めることへのわずかばかりの反抗だったのだろうか。

 とにかく、やけにスッキリとした目覚めを迎えた時には既に家を出る時間。スッと全身の血の気が引く音を聞いたのは、これが初めてだったかもしれない。


 優雅に朝食など食べている暇はなく、転がるようにして仕事に出かけるも、今度は人身事故で電車が遅れており、運転が再開した時には既に出社時間をとうに過ぎてしまっていた。

 結局、出社した直後に上司に呼び出されて嫌味交じりの叱責をくらい、あてつけのように上司が片付けるべき案件をこれでもかと回されて、余計な仕事に溺れることとなってしまったのである。

 そうして、意気消沈しながらファイルの海に沈むのを見かねた後輩の助力に感謝しつつも、ひいこらしながらすべてを片付けた時には、すでに退社時間を大幅に超えてしまっていた。




 最後まで付き合ってくれた後輩へのお礼にと飲みに誘い、軽口を叩きつつも会社を出ると、ビル群から覗く空は濃密な鉄紺に染まり、大粒の雨が簾のように視界を覆っていた。梅雨独特の湿り気がじわりと肌を撫でる。夜霧で街灯がぼんやりと滲んでいるせいか、薄暗さをより一層際立たせた道は、一寸先も見えないような有様だ。

 週末のオフィス街、時間が時間だけにいつも行き来しているはずの道は人通りはなく閑散とし、まるで化け物がぽっかりと大口を開けて待っているかのような不気味さを漂わせている。



「あぁー……先輩、めっちゃ雨降ってますよ」


「うわ、マジかよ。朝降ってなかったから油断した……傘持ってきてねぇぞ。ったく、今日は本当についてねぇ」



 地面を打ち付ける雨にげんなりしつつも、改めて今日一日を振り返る。

 朝から小さな不幸がこれでもかと重なり、そして最後は予報にもなかった大雨で締めくくられる。生憎と傘などは持っておらず、ここから駅までは距離がある。おろしたてのスーツがグショグショになるのは確定であった。まさに不幸尽くしな一日だと思わずため息をつく。



「そこは全く問題なしです。折り畳み傘持ってるんで、先輩も一緒に入りましょー」


「おぉ、お前が神か」


「ふふん、もっと崇めるがいいのです」



 そう言って後輩がしたり顔で自身のカバンを漁ると、小さめだがしっかりとした造りの折り畳み傘が出てきた。

 小柄な後輩が使うには充分すぎるそれは、大柄な男と二人で使うとなれば、途端にあるだけマシだろう程度のものになる。傘の下、狭い領域を二人で分け合うとするならば、ぎゅっと互いを押し合うようにして入ったとしてもはみ出してしまうことだろう。

 さすがに持ち主を濡らすわけにはいかんと、後輩が手にした傘をヒョイとさらって開く。そしてなるべく後輩が濡れないように持つと、二人そろって雨の中へ足を踏み入れた。



「もうちょいこっち来い。肩、濡れるだろ」


「あ、えと……はい」


「すまん、ちょっと近すぎるか」


「いや、大丈夫、です」


 そう言って濡れる肩を軽く引き寄せると、後輩が戸惑うようにピクリと跳ねた。

 肩がぴっちりと触れ合うような距離だが、びしょ濡れになるよりはマシだろう。ただの同僚にしては近すぎる距離感だが、この際今回だけは仕方がないと諦めてもらうことにした。


 人気のない道を後輩の歩調に合わせて歩いていると、まるで散歩しているような気分になる。こんなビルに囲まれたオフィス街に見るものなどないが、こうしてのんびりと歩いたことはなかったので妙に新鮮だった。

 先ほどまで軽口を叩いていた後輩も、今はなぜだか大人しく、傘を打つ雨音とうつむく後輩のわずかな息遣いが聞こえるだけだ。



「とりあえずここら辺はなんもねぇし、飲み屋街まで出て適当に店探す?」


「そ、そうですね……どうしよう」


「どっかいきたいとこある? あるなら先に言えよ? 今日は俺の奢りだから。お前の好きなところに連れてくよ」


「おぉ、マジです? えっと、じゃあ……この間テレビでやってたジビエのお店行きたいかも。確かここの駅から三駅くらい行ったところだったはず」


「あぁ、それ俺も観たわ。いいねぇ夏ジビエ。とりあえず席空いてるか電話して聞いてみるか」



 さっそくスマホで店を調べて連絡してみると、この大雨のおかげか運よく席は空いているという。リーズナブルな値段で夏鹿肉のローストが楽しめる人気店に、こうしてするりと入り込めそうなのは、今日一番の幸運かもしれないと思わず顔がにやけた。

 席の確保をお願いして電話を切った後、にやけたまま後輩に向けてグッと親指を立てると、後輩も華やぐような笑みを浮かべて小さく頷く。



「よっしゃ、行くか」


「はーい!」



 腹を空かせた猛獣が如く、雨など関係ないとばかりに二人して小走りになったのは言うまでもない。










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