悪人は静かに笑う 綾人

 床に埃が積もり、昆虫や小動物が蠢く病院の跡地。

 窓からの日射しを感じ、小林綾人は目を覚ました。周りを見回すと、ルイスが水の入ったペットボトルを持ち、じっとこちらを見ている。


「あ、おはよう。その水はどうしたの?」


「公園で汲んできた」


 ルイスは、ことも無げに答える。綾人はその時になって、逃亡生活がどれだけ大変なものか……その一部だけでも理解できた。水さえも、どこかから汲んでこなくてはならないのだ。しかも、公園までは遠い。徒歩なら一時間以上はかかるはず。

 なのに、ルイスは自分のために……。


「ルイス、ありがとう」


「いえいえどういたしまして」


 ルイスは、嬉しそうに答えた。




 綾人は、そこら辺にあるゴミや木の枝などにライターで火を点け、持ってきた鍋を使いお湯を沸かした。カップラーメンを二人で食べる。まるでキャンプしているみたいだ、と思った。もっとも、綾人はキャンプをしたことがなかった。


「ねえルイス、後で銭湯に行こうか?」


 食べ終えた後、綾人は提案してみた。だが、ルイスは首を傾げる。


「セントウ何それ?」


「でっかい風呂だよ。行ってみようよ。嫌ならいいけど」


「うんわかった行く」


 無邪気な表情で頷いた。綾人は微笑み立ち上がる。この少年と一緒に居られる間に、いろんな体験をさせてあげたい。自分の知識や体験などは非常に狭いものだが、それでも出来るだけのことはしてあげたい。

 まずは、銭湯に連れて行ってあげよう。明日は動物園や、遊園地にも連れて行ってあげよう。

 自分は、いずれ逮捕されるだろう。刑務所に送られ、ルイスとは会えなくなる。その前に、楽しい思い出を作ってあげたい。




「ルイス……何だよそれ……」


 銭湯の脱衣場で、綾人はそう言って絶句していた。

 ルイスの体にほとんど脂肪はなく、鋼のような筋肉に覆われている。だが、それよりも綾人を驚かせたものは、全身に刻まれた傷痕だった。

 長くギザギザな、刃物によるものと思われる傷。

 大きな点のような、銃弾によるものと思われるような傷。

 そんな異様な傷痕が、ルイスの体のあちこちにある。普通に生きていたのであるなら、絶対に負わないであろう傷だ。


「何が?」


 しかし、当のルイスは無邪気なものだった。服を脱ぐと、ぼーっとした表情で綾人の指示を待っている。気を取り直し、浴槽を指差した。


「ルイス、風呂に入ろう。湯船に浸かる前には、体をよく洗うんだよ」


「うんわかった」




 銭湯からの帰り道、ルイスはいつもと変わらない表情のまま歩いている。

 綾人は不安になった。ひょっとしたら、風呂が嫌いだったのだろうか。


「銭湯はどうだった?」


「楽しかった。コーヒー牛乳も美味しかったよ」


 そう言って、ルイスは微笑んだ。子供のように無邪気な、そして嬉しそうな笑顔だ。先ほど見た傷だらけの体とは、どうしても結びつかない。


「ルイス、君は……」


 綾人は言いかけたが、続く言葉を飲み込んだ。この少年にどんな過去があろうとも、自分には関係ないのだ。

 ルイスのおかげで、ようやく綾人は救われたのだ。

 ようやく心を決められたのだ。


「綾人どしたの」


「いや、何でもない」




 途中でコンビニに寄り、ルイスの好きなおにぎりとクリームパンを買う。

 のんびり歩き、廃墟に戻った。ビジネスホテルに泊まろうか、とも思ったが、余計な金を遣いたくなかった。それに、男二人で狭い部屋に泊まっていては、妙な誤解をされる可能性もある。

 廃墟に戻ると、ルイスは楽しそうにおにぎりのビニールを剥き始めた。しかし、その手が止まる。


「誰か来る」


 そう言うと、ルイスは立ち上がった。綾人は、思わず眉をひそめる。いったい何者だろうか。ここを根城にしているホームレスか、それとも怖いもの見たさで探検に来た少年たちか。あるいは、自分を逮捕しに来た警察か

 綾人はどうすべきか迷った。その時、ルイスがこちらを向く。


「来たよ。綾人どうするの?」


 声と同時に、ひとりの男が姿を現した。厳つい風貌の中年男だ。動きやすいトレーナーを着て、革の手袋をはめている。表情は堅く、緊張しているようにも見える。どこかで見た顔だが、確実に警官ではない。

 綾人の戸惑いをよそに、男は言った。


「捜したぜ。こないだは世話になったな。もう一度、おじさんと遊んでくれよ」


 言い終えると、男は両拳を顔の位置に上げて身構える。その目は、真っすぐルイスを捉えていた。


「いいよ……遊ぼう」


 応えたルイスの声は普段と違い、どこか狂気めいている。だが、綾人が割って入った。


「ルイス、やめるんだ」


 綾人のその言葉を聞き、ルイスはおとなしく引き下がる。

 それを見た男の表情も変わった。訝しげな様子で綾人を見る。綾人はその時、ようやく男が何者なのか思い出した。一昨日、ルイスに投げ飛ばされ、泣きながら土下座した男だ。

 だが、そんなことはどうでもいい。この男が用があるのは自分のはず。ならば、ルイスにこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。


「あなたが用があるのは俺ですよね? 聞きたいことがあるなら、何でもお話ししますよ。でも、ルイスは無関係です」



 

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