罪の街 尚輝
坂本尚輝は座り込んだまま、虚ろな表情でテレビの画面をじっと見つめていた。いつのまにか、窓から見える空は暗くなっていた。
今の尚輝にとって、全く意味を成さない声がテレビから聞こえる。どこの誰かもわからない者たちが右往左往している様子を、ただただ眺めていた。
昨日どうやって帰ったのか、はっきりとは覚えていない。気がついてみたら、泥のように眠っていた。
目が覚めてからも、夢見心地のままだ。何も食べず、何も飲まず、テレビの画面を眺めている。何が放送されているのかも不明の番組を、ただ見つめているたけだ。
(ゆ、許してくれぇ! 殺さないでくれぇ!)
気がつくと、あの光景を思い出す。涙と鼻水を撒き散らしながら、恥も外聞もなく土下座した。
自分の子供くらいの少年に対して、殴ることも……殴られることもせずに敗北を認めた。
奴の持つものに、戦うことも出来ず屈してしまったのだ──
「クソがぁ!」
思いもかけず口から洩れ出たのは、怒りの咆哮だった。体は震えている。恐怖ではなく、怒りのためだ。
ルイスに対する怒りではない。自分に対する怒りだ。何も出来ず屈してしまった自分を許せない。
落ち着け。
俺は、四十過ぎたおっさんなんだよ。
もうボクサーじゃねえんだ。
あのルイスってガキは普通じゃない。
本気で殴り合ったら、確実に俺が負けていた。
尚輝は、自分を落ち着かせようとした。そう、自分はおっさんなのだ。喧嘩で負けたからといって、恥じることなどない。自分はもう若くない。喧嘩で逮捕されたとしたら、そちらの方がよっぽど恥ずかしい。
だが、気分は晴れなかった。
今の自分には、何もないのだ。地位もなく、妻も子もなく、富も名誉もない。そんな自分が、失うことが出来る物……それは命くらいしかないのだ。
本当にそうか?
俺はあの時、僅かなプライドまで捨ててしまったんじゃないのか?
あのガキと、闘うことすらせずに謝ってしまった。
今の俺は何なんだよ?
ただのクズじゃねえか!
尚輝は立ち上がった。拳を固め、虚空に鋭いパンチを繰り出す。左のジャブ、右のストレート。風を切るような音、拳に伝わる全身の力……尚輝は昔のように、一心不乱にシャドーボクシングを始めた。まるで、昔の自分に戻ろうとしているかのように。
かつて、尚輝がプロのボクサーだった頃のことだ。
試合前は、怖くて怖くて仕方なかった。逃げ出したいほどの恐怖と戦いながらも、それを克服してリングに上がっていたのだ。試合前の恐怖、これは怒りの感情に任せて始まる街のチンピラ同士の喧嘩では、決して起こり得ないものなのだ。
ボクサーに限らず、プロの格闘家は皆、試合前には凄まじい恐怖に襲われる。その恐怖に、負けてしまう者も少なくない。
しかし、現役時代の尚輝はその恐怖に負けなかった。恐怖を克服してリングに上がり、相手をマットに這わせてきた。試合前に恐怖を感じた時は、自分にこう言い聞かせてきた。勝とうが負けようが関係ねえ。リングの上で、やれるだけのことをやるだけだ。
だが、昨日は……ただただ恐怖に震え、怯えるだけだった。
今の自分にはもう、何も残されていないはずだった。ボクサーとしての栄光を失った時点で、全ては終わったと思っていた。
しかし、心のどこかにまだ残っていたのだ。ボクサーとしての誇りが、心と体に残っていた。
だが、その誇りすら失ってしまったのだ。
取り戻そう。
俺の誇りを。
シャドーボクシングを続けているうち、いつの間にか汗が滴り落ちていた。それでも、尚輝は動くことを止めない。虚空に向かい、拳を打ち出す。左ジャブ、右ストレート、左フック……パンチのコンビネーションを放っていく。汗を流しながら、己の心の中で蠢いているものと真正面から向き合い、その声に耳を傾ける。
もう、鈴木良子も佐藤浩司もどうでもいい。
バラバラ殺人など、俺の知ったことじゃねえ。
あの二人と、もう一度向き合い話を聞く。
場合によっては、あのルイスと闘う。
今度は、何があろうと絶対に逃げない。たとえ殺されたとしても、最後まで闘い抜いてやる。
失われた誇りを取り戻すんだ。
だが、どうやって奴らを探す?
尚輝は手を止めた。あの二人はどこに行こうとしていたのだろう。親戚か、あるいは友人の家だろうか。
その時、綾人の言葉を思い出した。
(ルイス……ここからしばらく歩くと、病院の跡地があるんだ。今からそこに行こうか)
病院の跡地といえば、近くに徳川病院とかいう大げさな名前の潰れた病院があったはずだ。あの商店街から、一時間ほど歩いた場所にあった。かなり巨大な施設だったはず。身を隠すにはもってこいだろう。
もちろん、二人が今もそこにいるかはわからない。だが、手がかりはそれしかないのだ。
ならば、そこに行ってみよう。行って、小林綾人から話を聞く。
場合によっては、ルイスと闘う──
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