野良犬たちの午後 春樹

 何かがおかしい。

 ここは、絶対に変だ。


 上田春樹が、新興宗教ラエム教の施設に寝泊まりさせてもらうようになってから、二日が経過した。

 いうまでもなく、この男は神も仏も信じないタイプである。そもそも、これまでの生き方自体が神をも恐れぬ不埒なものだった。平気で嘘をつき、人を騙し、盗み、奪う。それが春樹の日常である、このような生き方を推奨する宗教は……日本はおろか世界中を探しても、そうそうお目にかかれないだろう。春樹にとって、宗教団体などはアホの集団という認識しかない。

 こういった犯罪者気質の人間……その特徴のひとつに、己の賢さと他人の愚かさを過大に評価するというものがある。人間には誰しも、そういった部分は少なからず持ち合わせているものだが、春樹のようなタイプは特に強く働く傾向がある。

 だからこそ、しばらく泊まっても構わないと言われた時も、深くは考えなかった。宗教団体に関わるような奴は、みんなお人好しの馬鹿者だ。ならば、しばらくは利用してやろう……としか思わなかったのだ。



 しかし今になって、ようやく周囲の状況の不自然さに気づいた。

 この事務所兼集会所のような部屋には、常にラエム教の人間がいる。それは当然だろう。だが今日は、その雰囲気が違うのだ。

 昨日までは、いかにも優しげで紳士然とした男がいた。男は親しげな態度で話しかけてくる。春樹はそれに応じて話をした。もっとも、プライベートに関する話は全てデタラメで誤魔化した。

 しかし、今日は違うタイプの男が来ている。醸し出している雰囲気が、明らかに異なるのだ。地味なスーツに身を包み、背は高くがっちりしている。顔はにこやかであるが、同時にいかつくもある。春樹の話す口からの出まかせに対し、微笑みながら相づちを打っている。しかし目は笑っていない。

 春樹はようやく気づいた。部屋の空気が変化している。ものものしい雰囲気がその場を支配しているのだ。具体的にどういう状況なのかはわからない。しかし、確かなことがひとつだけある。

 直ちに逃げるべきだ。


「さてと……そろそろ電話をかけないとな。すみません、ちょっと外で家族に電話かけてきます」


 そう言って、春樹は立ち上がる。しかし、男もすぐに立ち上がった。彼の前に立ち、進路を塞ぐ。


「でしたら、ここにある電話器を使ってください。外に出る必要はありませんよ」


 そう言うと、男は笑みを浮かべた。だが、目には冷酷な光が宿っている。問答無用、とでも言いたげな態度だ。春樹は思わず後ずさり、愛想笑いを浮かべた。いくぶん引きつった笑みではあったが。

 直後に、男の表情が変化した。不意にポケットからスマホを取り出す。すぐに耳に当てた。もっとも、その目線は春樹から離していない。


「はい……そうですか……なるほど……では、そのようにします」


 男は話し終えると、スマホをポケットにしまった。同時に、その表情が変わっていく。にこやかな表情が消え失せ、代わりに能面のような顔つきへと変貌したのだ。一切の感情が消え失せた、仮面のような不気味な顔つきへと……。

 その時になって、春樹はようやく気づいた。あの時とそっくりだ。桑原徳馬に会った時と、あまりにも似ている。なぜ、もっと早く気づけなかったのか。なぜ、もっと早く逃げなかったのか。

 そして、男は言った。


「上田さん……今聞いた話によると、ルイスらしき少年が昨夜、近くの公園で暴れたらしい。四人に瀕死の重傷を負わせた、とのことだ。もう、お遊びは終わりだ。あんたが何者か、こっちにはわかってるんだよ。あいつを連れ去ったのは、何者なんだ? あんたが見たもの、そして知っていることを全部教えてもらおうか」


 そう言うと、男はゆっくり春樹に迫ってくる。春樹には、どうすることもできなかった。



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