野良犬たちの午後 綾人
午後八時、小林綾人はルイスを連れて外に出た。この少年は綾人と一緒に外に出られるのが嬉しいのか、ニコニコしている。綾人はというと、その態度に苦笑していた。ルイスは、自分の理解を超えている。
今朝、突然の来客があった。私立探偵の夏目正義と、その仲間らしき青年だ。綾人は怯えながら対処したが、彼らは今にも部屋に上がり込んで来そうな勢いだった。ところが、ルイスが顔を出した途端に彼らは引き上げてしまったのである。まるで、ルイスの存在に怯えたかのようだった。
その後、ルイスを落ち着かせて遅い朝食を食べさせた。
ふと気づくと、部屋で眠り込んでいた。外は暗くなっており、テレビを見れば夕暮れ時のニュースが放送されている。綾人は目をこすりながら辺りを見渡した。ルイスは膝を抱えて座り込み、じっとテレビの画面を見つめている。その時になって、自分にの体に毛布がかけられていることに気づいた。
「ルイス、これ君がかけてくれたの?」
「うん。風邪ひくよと言ってたからかけた。テレビで観たよ」
視線はテレビに向けたまま、ルイスは答える。どうやら、この少年にはテレビから得た知識しかないらしい。両親がいない、というのは本当なのだろう。加えて、今までは周囲にまともな大人が居なかったと思われる。常識というものを教えてくれる存在がいなかったらしい。
そんなルイスが、自分に気を使ってくれたのが嬉しかった。
「そうか……ルイス、ありがとう」
「いえいえどういたしまして」
言いながら、ルイスはこちらを向く。彼の端正な顔に、笑みが浮かんだ。
八時になり、綾人はルイスを連れて外に出た。散歩するついでに、買い物もさせてみようと考えたのだ。この少年は、あまりにも物を知らなさすぎる。いずれ、自分は逮捕されるかもしれないのだ。あの夏目という探偵は、確実に自分を疑っている。今朝、わざわざ自宅まで現れたのがその証拠だ。しかも、仲間らしき男まで連れていた。
自分が逮捕されたら、ルイスはどうなるだろう。恐らくは施設に送られ、そこで暮らすこととなるだろう。それまでは、出来るだけ楽しく過ごさせてあげたかった。
二人は、さっそくコンビニに入った。店内のルイスは、予想したよりおとなしい。子供のようにはしゃぎ、いろんな物を欲しがるかと思っていたのだが……黙ったまま、綾人の後を付いて来るだけだ。
だが、不意に腕をつついてきた。
「綾人これ欲しい」
そう言って、おにぎりを差し出してきた。綾人は頷く。
「いいよ、他は?」
「じゃあこれも欲しい」
今度はクリームパンを差し出す。その時に気づいた。この二つは、綾人とルイスが初めて会った時にあげた物だ。
思わず微笑んでいた。
「いいよ、買ってあげる」
買い物を済ませ、コンビニを出た。すると、ルイスは公園を指差す。
「綾人こっち行きたい」
そこは、ルイスと初めて出会った場所である。彼は自然が好きなのだろうか。綾人は、微笑みながら頷いた。
「いいよ。公園を散歩してみようか」
公園に着くと、ルイスはベンチに座った。買ったばかりのおにぎりを手に取り、ビニールを剥き始める。海苔は残したまま器用に剥いた。
「綾人できた」
言いながら、ルイスは誇らしげな表情でおにぎりを見せる。
「凄いなルイス。本当に凄いよ」
綾人はそう言って、ぱちぱち手を叩いた。だが、まんざら大げさでもない。ルイスは昨日、一度見ただけでこの手順を覚えたのだ。常識はゼロだが、学習能力は低くない。
その時、邪魔者が現れた。
「小林じゃねえか。てめえ、何やってんだよ」
不意に声が聞こえた。綾人が顔を上げると、班長の卯月が立っていた。その後ろには、ガラの悪い男が三人いる。卯月の友人だろう。類は友を呼ぶ、とはよく言ったものだ。
「ルイス、行こうか」
卯月を無視して、ルイスに声をかけた。こんな男を相手にしている暇はないのだ。綾人に促され、ルイスもおにぎりを食べながら立ち上がる。二人はそのまま立ち去ろうとした。
だが、卯月は素早く動いた。
「待てよ、ちょっと遊ぼうぜ。こっちはな、お前が辞めちまったせいで残業やらされちまったよ。おかげで、ストレス溜まってんだよ」
そう言いながら、卯月は綾人の前に立つ。同時に、他の男たちも残忍な笑みを浮かべて二人を囲む。
「そんなの関係ないでしょうが! 遊ぶんだったら、他の人を当たってくださいよ!」
綾人は怒鳴り、横をすり抜けようとする。だが卯月に胸を強く押され、後方によろめいた。すると、他の男たちが笑いだす。敵意を剥き出しにした下品な笑いだ。
「調子こいてんじゃねえぞ。殺すぞガキが」
卯月は低い声で凄む。しかし、彼は何もわかっていなかった。
今、卯月は地雷を踏んでしまったのだ──
「綾人をいじめるな」
感情の一切こもっていない、無機質な声が響く。次の瞬間、ルイスは音もなく動いた。
ルイスの左手が、弾丸のような速さで卯月の顔面に伸びる。彼の指はムチのようにしなり、正確に両目の周辺を打つ。
卯月は完全に意表を突かれた。彼の眼球を指先が打つ。悲鳴と同時に、反射的に顔を背ける。
すると、今度はルイスの右手が動く。卯月の喉を掴む。その瞬間、卯月の口から押し殺したような声が洩れた。人間離れした握力で、声帯を潰されたのだ。
ルイスの攻撃は止まらない。ボロ切れでも扱うかのように、片手で卯月の体を放り投げる。
この間、わずか三秒ほどだろうか。綾人も他の男たちも、未だに事態が飲み込めていない。ポカンとしたまま少年を見つめている。
だが、ルイスは動き続けている。手近な男の襟首を掴み、力任せに投げる。細身の体からは、想像もつかない腕力だ。
その時になって、ようやく相手は反応した。
「や、やめろひょ……」
男のひとりは、そう言いながら後る。もうひとりの方は、足がすくんでしまっているのだろうか。その場に立ち尽くしたまま呆然としている。
だが、ルイスは躊躇しない。間髪入れず襲いかかっていった──
「ルイス……何てことを……」
綾人は呆然とした表情で呟く。周囲には、血を流し倒れている男たちが四人。ルイスは立ったまま、平然とした表情で綾人を見ている。息ひとつ切らせていない。
これだけのことを、一分もかからないうちにやってのけてしまったのだ。
「ルイス……こ、殺したのか?」
「まだ殺してない。今からとどめ刺す」
そう言うと、ルイスは手近な位置で倒れている男の首を掴む。
綾人は慌てた。ルイスは本当に殺してしまうだろう。彼の手を掴んで制した。
「そんなことしちゃ駄目だ。人を殺しちゃいけない」
「なんで? なんで人を殺しちゃいけないの?」
ルイスは、不思議そうに尋ねる。だが綾人は、答えることが出来なかった。ルイスはある意味、純粋無垢な存在なのだ。法も道徳観念もまるきり知らない。そんな人間に語れるものなど、自分は持ち合わせていないのだ。
いや、それ以前に……自分も人殺しなのである。それも、実の母親を殺した最低の人間だ。本来ならば、人に善悪を説く資格は無い。
「と、とにかく人は殺しちゃいけないんだよ。わかったね?」
「うんわかった」
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