暴力脱走 綾人

「小林ぃ……てめえよう、昨日の態度は何なんだ?」


 朝の九時、いつも通りに出勤してきた小林綾人を、真っ先に迎えたのは班長の卯月であった。まるでチンピラのような態度で、綾人を睨みつけている。

 昨日、残業を断ったのが感に触ったらしい。


「てめえ、何か勘違いしてんじゃねえか? ちょっと来いよ。きっちり話つけようや……」


 言ったかと思うと、いきなり腕を掴まれる。綾人は有無を言わさぬ勢いで、工場の裏にある物置小屋に連れこまれた。

 目の前には、班長の怒れる顔がある。チンピラが威嚇する時のように苛立ちを露にし、時おり壁を殴ったり、物を蹴飛ばしたりしている。

 だが、綾人は冷めきった目で見ているだけだった。彼を怖いとは思わなかった。


 綾人は知っていた。この卯月という男は、一見すると爽やかな好青年である。しかし、その内面は街のチンピラとさして変わりない。工場内での権力を傘に、下の人間に対しては横暴な態度で接しているのだ。

 以前、卯月が工場に勤めている知的障害者に暴力を振るう場面を見たことがあった。知的障害者ならば、反撃はもちろん訴えたりもできないだろう……そのような計算の下、この男は殴る蹴るの暴行を加えていたのだ。

 自分も今まさに、卯月の暴力の被害者になろうとしている……はずだった。

 しかし、気がつくとこんな言葉が出ていた。


「すみません。何が言いたいんですか?」


 落ち着いた表情で、言葉を返す。不思議と恐怖を感じなかった。怒りもなく、ただ面倒くさいだけだった。その落ち着きはらった態度を見て、卯月の顔に困惑の表情が浮かぶ。


「な、何だと……てめえブッ飛ばすぞコラ……」


 それでも、彼は意地を見せた。低い声で凄み、睨みつけてくる。だが綾人は、その視線を真っ直ぐ受け止めていた。もう、どうなっても良かったのだ。殴られても構わないと思っていた。


「何が言いたいのか、さっぱりわかりません。いい年して恥ずかしくないんですか? 付き合いきれないんで、仕事に戻ります」


「てめえ、殺すぞコラァ!」


 卯月のその言葉を聞いた瞬間、綾人のこめかみがピクリと動く。

 直後、彼の脳裏に二人の死体が浮かぶ──


「今、殺すって言ったな。あんた、人を殺したことあるのかよ?」


 静かな声で聞き返した。彼のあまりにも落ち着いた様子を目の当たりにして、卯月の表情がさらに変化する。今度は、怯えの色が加わった。

 そう、この男は無抵抗の相手には強い。だが、向かって来る相手には弱いタイプなのだ。


「て、てめえなんかな、俺の力でいつだってクビに出来るんだぞ! わかってんのか──」


「そうですか。じゃあ、俺クビでいいです。面倒くさいんで帰ります」


 淡々とした表情で、言葉を返した。正直な話、もうどうでも良かった。今さら、この仕事に固執しなければならない理由はどこにもない。なぜ、もっと早くこうしなかったのだろう。

 綾人は、怒りで震えている卯月を残し、そのまま立ち去った。背後で何やら喚いている声が聞こえたが、無視して更衣室に行く。

 さっさと着替え、外に出ていった。




 帰るために自転車に乗ろうとしていた綾人。だが、動きが止まる。そっと振り返り、工場を見つめた。

 中学卒業後、就職してからの二年間……ほとんど休まずに、きっちり通い続けていた。給料は高くはない上に、キツい部分もある仕事だった。しかし、これまで不満を感じたことはない。少なくとも、こんな形で辞めるほどの不満は無かったはずだ。

 その反面……二年通い続けた場所であるにもかかわらず、そこに愛着らしきものが無いのも確かだった。考えてみれば、ここの待遇は悪かった。仲の良かった同僚がいるわけでもない。

 結局、ここに就職した一番の理由は……母の負担になりたくないから、だった。親孝行したい、その気持ちから通い続けていた。

 しかし母が消えた今、工場に通い続ける理由も消えてしまった。

 そう、母が死んでしまった今では──


 ・・・


 あの日、綾人は中村雄介を殴り殺した。


「綾人……あんた……」


 母の声が聞こえた。綾人が視線を移すと、母は怯えきった表情でこちらを見ている。


「母さん……」


 綾人は近づく。自分のしでかしてしまった事の大きさの前に打ちのめされ、どうすればいいのかわからなかった。

 だから、母にすがりたかった。幼い頃のように、母の温もりに身を委ねたかった。

 しかし、母は──


「こ、来ないで!」


 叫びながら、必死の形相で後ずさっていく。綾人は立ち止まった。絶望のあまり、その場に崩れ落ちそうになる。

 自分は、母にまで見捨てられたのだ。


 母さん……。

 あなたは、俺を拒絶するのか。

 もう、俺には何もない。


 次の瞬間、綾人の心はドス黒い何かに塗り潰されていった。それの命ずるまま、母の首に手をかける。両手に、一気に力をこめた──


 あの日、俺が殺したのは……中村雄介と母さんだけじゃない。

 俺は、自分自身をも殺してしまったのだ。

 俺自身の中にいた、善なる人間を殺した。

 もう、戻れない。俺の人生は終わったのだ。

 あとは、どのようにして終わらせるか……それだけだ。





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