悪人は二度以上、因縁をつける 尚輝

 トレーニングジムの片隅で、坂本尚輝は自転車のようなマシンのペダルをこいでいた。

 ふと、ジムの一角で黙々とトレーニングをする青年を横目で見る。他の者とは明らかに違う、プロの格闘家のような体つきだ。トレーニングの仕方も、周囲の者とは異なる。

 そんな姿を見ていると、かつての自分を思い出す。自分にも、あんな風にトレーニングに打ち込む時代があったのだ。世界チャンピオンを狙える逸材とまで言われて、マスコミの間でもちょっとした有名人になり、テレビにも出た。

 ところが、試合で受けた一発のパンチが運命を変える。そのパンチは、彼の右目の視力を奪った。試合には勝ったものの、尚輝は二度とボクシングが出来なくなってしまったのだ。

 試合そのものは、上のランクに行くための単なる通過点だった。対戦相手もまた、咬ませ犬のはずだった。事実、試合中に右目の視力を失ったにもかかわらず、勝つことは出来た。

 しかし、本当の意味で敗れたのは……尚輝の方だったのかもしれない。


 運だよな、運。


 そう、運が悪かったとしか言い様がない。明らかに格下の相手のパンチで、視力を失うなど……。

 あんな奴のパンチが原因で、ボクシングが出来なくなり引退とあいなった。これを不運という以外に、何と表現すればいいのだろう?


 そんなことを考えながらも、尚輝は本来の標的をじっと見張っていた。この標的とは、トレーニングに励んでいる青年ではない。若い女のトレーナーに話しかけている白髪頭の中年男だ。にやけた表情で、ベラベラと一方的に喋りかけている。キャバクラか何かと勘違いしているのだろうか。

 しかし、何とも愚かな眺めだ。尚輝は、思わず苦笑した。あの中年男は七十近い年齢のはずだ。老人といっても差し支えない男である。

 にもかかわらず、未だに若い女に対する欲望は消えていない。人間……いや男とは、幾つになっても煩悩から解放されない生き物であるらしい。




 この中年男の名は吉田繁ヨシダ シゲルといい、真幌市で店を開いている。

 尚輝の今回の仕事は、吉田の浮気調査だ。こういった探偵のような真似は得意ではない。

 尚輝は、基本的にひとりで仕事をする。ひとりで仕事をする場合、尾行は難しい。彼は体はさほど大きくはないが、見るからに強面である。尾行などすれば、否応なしに目立ってしまう。

 しかし、その苦手な尾行をこれ以上続ける必要も無いだろう。吉田は浮気をしている。若い愛人宅に入るところと出て来るところを写真に撮ってあった。

 吉田が通っているジムにまで付いて行ったのは、自身の運動不足解消のためでもあった。ジムの入会金と今月分の月謝は、必要経費として依頼人である吉田の妻に請求するつもりでいる。

 あとは……写真をネタに吉田をゆするだけだ。これで、両方から金が取れる。そして吉田の妻には、浮気はしてませんでした、と報告する。これで一件落着である。尚輝は金が儲かるし、吉田夫婦は関係を壊すことなく、これまで通りの平和な生活を送れる……浮気がバレるまでの間は。いいことづくめではないか。




 数時間後、尚輝は事務所にいた。これから、別の客と会うことになっている。電話で聞いた話によると、ヤバい仕事の依頼のようだ。まあ、いつものことではある。そう、尚輝のような怪しげな人間には怪しげな話しか回ってこないのだ。本人も、そのことは承知してはいる。

 しかし、あまりにも危険な仕事であるならば、今回はキャンセルするつもりでいた。吉田をゆすれば、そこそこの額の金が入るはずだ。それに、今はさほど金に困っていない。死体の始末や振り込め詐欺の片棒のような仕事なら、遠慮したい気分だ。


 三十分ほどした後、尚輝の前にはひとりの女が座っていた。地味なスーツ姿で、顔つきも地味。漂う雰囲気も地味。こんな女が、自分にいったい何の用なのだろう。ただ、この手の客は突拍子もないことを頼んでくる場合もある。例えば、自分の彼氏を寝取った同僚の女の顔をボコボコに変形させてくれ、などといったものだ。怨みや嫉妬といった負の感情に、外見の地味さは関係ない。


 女は鈴木良子スズキ ヨシコと名乗った。


「ある男を探して欲しいんです」


 言った直後、バッグから写真を何枚かの取り出す。写真はどれも、男の部分だけが綺麗に切られているような状態だ。二人、あるいは数人で写っていたのだろう。写っていたもうひとりは、良子なのかもしれない。


「この男を探しだし、居場所を教えて下さい。それだけでいいんです」


 尚輝は一瞬、返答に窮した。もし、金に余裕の無い時であるなら……ひとまず引き受けていただろう。そして、捜したふりだけをして金を請求しただろう。

 だが、今は金に困っているわけではない。仕事をやったふりをして、後で面倒なことになるのも考え物だ。

 かといって、まともに捜したところで見つけられる自信はない。こういうものは、警察かプロの探偵に頼めばいいのだ。


「すみませんが……私は人捜しはあまり得意ではないんですよ。もし事件性のあることなら、警察に任せた方が──」


「警察には任せたくないんです」


 尚輝の言葉を、鈴木は強い口調で遮った。表情も変わっている。この男に、強い思い入れがあるらしい。憎しみか愛かはわからないが。


「とにかく、この佐藤浩司サトウ コウジという男を見つけたら、私に連絡してください……お願いします」





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る