ツミビトタチノアシタ

板倉恭司

俺に明日なんかない 綾人

 今日もまた、いつもと同じ一日が始まる──

 彼は真幌市内の印刷工場で、週に五日間、朝の九時から夕方の五時まで働いていた。休憩時間以外は、ずっと立ったままの作業だ。入社した頃は、体の節々が痛くてたまらなかった。さすがに、二年が経過した今では慣れてきている。それでも楽な作業ではないが。

 しかし今は、この仕事くらいしか出来ることがなかった。




 五時になり、夜勤の者が工場の中に入って来る。交代の時間だ。彼は挨拶し、出て行こうとする。

 しかし、呼び止める声が聞こえてきた。


「小林くん、悪いんだけど残業してもらえない?」


 班長の卯月ウヅキが、すまなそうな様子で声をかけてきた。年齢は三十歳前後だが、チンピラのような雰囲気を漂わせている男だ。


「え? 残業ですか……」


 困惑した表情で言い淀んだ。ついこの前も、残業をさせられている。他の者ではなく、なぜ彼を指名するのか。

 もっとも、その理由は考えるまでもないが。


「頼むよ、君しかいないんだ。みんな予定が入っちゃって……だから頼むよ。いいだろ?」


 卯月は、すまなそうな表情で懇願してきた。もっとも、言葉の奥には有無を言わさぬものを感じさせる。この状況では、断るという選択肢は残されていなかった。




 彼の名は小林綾人コバヤシ アヤト。ぱっと見は、ごく普通の十七歳の少年である。見た目と同じく、中身も平凡だ。特筆すべき何の能力もない。強いて特徴を挙げるなら……他人の頼みを断ることができない、という点だろうか。

 もっとも、その特徴は綾人の人生において、常に厄介事を運んできただけだった。人からの頼みを断れなかったがゆえに得をしたことなど、ただの一度もない。

 そう、綾人の周りにいた者は、彼に一方的に厄介事を押し付けていくだけだった。断れないタイプだと知ると、ずんずん近づき面倒なことを頼んでくる。

 その面倒なことを、苦労して片付けた綾人に対し……労力に見合うだけの何かを与えた者は、ほとんど居なかった。大抵の人間は、貸したことは覚えている。だが、借りたことは忘れるものだ。あるいは、借りたことを過小評価する。

 ほとんどの者は綾人に対し、「ありがとう」の一言で借りを返した気になっていたのだ。こういうタイプの人間は、現代の日本社会において、ただただ損をするだけである。

 この印刷工場でも、綾人は損ばかりしていた。周りの者は面倒なことを押し付けてきて、綾人は黙ってそれを受け入れる……それが、当たり前の光景となっていた。

 今もそうだ。昼勤務の者は皆、残業をしたがらない。話を振られても断り、さっさと帰ってしまうのがオチである。結果として、綾人に回ってくるのだ。班長の卯月も、彼なら断らないことを知っていた。


 午後八時を過ぎた頃、ようやく仕事から解放された。夜勤の人間に挨拶し、持ち場を後にする。残業を押し付けてきた当の卯月は、さっさと帰宅していたが、それもいつものことである。驚くべきことではないのだ。今さら不快にもならない。人間とはしょせん、そんなものであることはわかっている。

 更衣室で着替えた後、タイムカードを押した。外に出ると、止めておいた自転車に乗る。綾人の自宅は、ここから自転車で三十分ほどの距離にある。今の季節は春であり、自転車通勤は苦にならない。しかし、梅雨の時期や真冬などは面倒である。それでも彼は、仕事を休まなかった。遅刻も早退もほとんどない。




 綾人は自らの人生に対し、何の希望も持っていなかった。父親は、綾人が幼い頃に蒸発して消息不明である。母親もつい最近、消えてしまった。親戚とは連絡が取れなかったし、そもそも頼る気などない。そんな彼に今できることは、目の前の仕事だけだった。

 今後の人生が、薔薇色のものになる……そんなことは、あり得ない。自分には、この苦行のごとき人生が続くのだろう。そしていつの日か耐えきれなくなり、自らの手で命を絶つ。それが綾人の考える、自らの人生の予想図だった。


 虚ろな表情で、彼は自転車を走らせていった。もうじき自宅のアパートに到着する。このあたりは、車の通りはほとんどない。普段は、歩行者もあまり見かけない。

 だが今は、二人の男女が並んで歩いているのが見える。道幅はさほど広くないが、それでも二人の横をすり抜けるのには問題ないだろう。綾人は自転車を走らせ、二人との距離を縮めていく。追い越すつもりだった。

 その時、自転車の気配に気づいた二人が振り向いた。

 次の瞬間、思わずブレーキをかけていた。呆然とした様子で立ち止まり、二人を見つめる。

 二人は綾人の態度に首をかしげ、訝しげな表情を浮かべた。だが、それは一瞬のことだった。すぐに会話を再開しつつ歩いていく。

 対照的に、綾人はしばらく動けなかった。振り向いた二人の顔が、自分のよく知っていたはずの者たちに見えたのだ。

 だが、すぐに気を取り直した。再び自転車を走らせる。よく見れば別人だ。いや、見なくても別人であることはわかっている。あの二人はつい最近、死んだのだから。それも、自分が殺したのである。

 間違いなく、殺したはずだ──




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