7 終焉①

 結局、何も分からないまま時は流れた。

 麻衣子の出産は無事に終わった。母子ともに健康だ。麻衣子が子供の名前の候補に「りか」と言った時は驚いたが、「名前は俺に決めさせてくれないか」と言って、回避した。結局、俺たち二人の娘の名は「愛」だ。

 俺は自分の名前を使いたくなかったし、麻衣子の名前も使いたくなかった。もっともらしく「二人の愛の結晶であり、これからたくさんの人に愛される存在になってほしいし、人を愛する人であってほしいから」と命名の理由を麻衣子に話して聞かせたが、後付けだった。

 七月二十八日に一歳の誕生日を迎える愛。それと同時に麻衣子が職場復帰をする。保育園は病院に併設していた。夜勤は当分出来ないから、麻衣子の育休明け勤務部署は外来だ。とてもいい物件が見つかって麻衣子の出産前ギリギリに引越しをした。愛を出産して1ヶ月、麻衣子はそう遠くない実家に里帰りをしていた。俺は初めての子供に毎日のように通った。

 思った以上に自分の子供というのは可愛いものだ。

 麻衣子のためには死ねないけれど、愛のためなら死ねるかも知れない。

 麻衣子が里帰り中の当直明け、俺はそれをビジネスホテルでリカに漏らした。リカが呆れ気味に俺を見た。「真司くんでも親になると子供第一になるんだね」と嫌味っぽく言われる。リカは子供が嫌いだ。「だって、わがままで自制も効かないでしょ。うるさいし、絶対に無理」リカの頭の中に誰か思い浮かぶ子供がいるのだろう。心底嫌そうに言った。俺は首をすくめる。

 俺はリカに木村スイのことを聞くのをやめた。リカだけではない。木村スイに関わるのをやめることにしたのだ。何が出てくるかわからない怖さがあった。何にもないかも知れない。でも何かあるかも知れない。俺は大学六年の時の自分を恨んだ。避妊はしていたものの、やはり女あそびなどするものではない。あの時体を重ねた女の一人が木村スイだったと言われても驚かない。

 避妊はしていた。必ず。ただ、木村スイに限ってはゴムも役に立たないように感じるのだ。バカな妄想だ。

 幼い頃に出会って、女遊びしまくっていた時に再会して気付かずに体を重ねていた。もしかすると、彼女の子供の父親が俺かもしれないなんて、ありもしない妄想に頭がおかしくなりそうだった。だから、もう俺は彼女に関わらない。あちらからこちらに関わってこないのだから、藪を突く必要はない。

 麻衣子の育休が明ける今日まで、俺は表面を取り繕うように木村スイと医者と看護師という関係を続けていた。リカとは相変わらず3、4ヶ月に一度会う仲だ。智希とはずっと連絡をとっていない。智希と木村スイがどうなったのか知らないが、知る必要もないと思った。


 その日は突然訪れた。麻衣子も外来勤務が始まっていた。一見変わりのない病院の風景。

 忙しくもなく、暇でもない、そんな日勤帯。自分が執刀した患者の経過観察のために外科病棟に足を運ぶ。患者の経過は順調だ。忙しく走り回るスタッフたちを横目に俺はゆったりとナースステーションに向かう。もうそろそろ十二時になる。配膳車が運ばれてきていた。一斉に看護スタッフが配膳車に向かった。俺も自分の患者の配膳をするか?配膳をすると看護スタッフには喜ばれる。が、医師仲間には嫌がられる。誰か一人がそれをすると、配膳しない医者が気の利かない医者の烙印を押される。迷っているうちに配膳車は病棟の端に移動していく。俺は考えるのをやめて、ナースステーションで記録をすることにした。

 看護スタッフの昼休憩は看護師数名を残してスタッフルームで休憩に入る。その時間が一番カルテを使いやすかった。昼食の準備に出払っているナースステーションは夜勤帯のナースステーションとも違った静けさがあった。とはいえ、それも一瞬だ。配膳を終えたスタッフたちはゾロゾロと帰ってくる。

「伊藤先生、昨日オペだった鈴木さんの痛み止め、処方お願いします」

 今日のチームリーダーから薬の処方の要請だ。俺は「わかりました。ちょっと鈴木さんのところにいってきます」とその看護師に告げ、ナースステーションの聴診器を手に取った。病室を出ようとしたところでスタッフルームが騒がしくなる。

「伊藤先生、木村さんが倒れました。胸を押さえて」

 高橋さんだ。患者の急変にも冷静に対応する高橋さんだが、声が震えていた。俺は聴診器を持ったままナースステーションと続きになっているスタッフルームに飛び込む。

 数名の看護師に囲まれ、木村スイが胸を押さえて倒れていた。一人はバイタルのチェックをしているが、手が震えている。師長が「みんな落ち着きなさい。落ち着いて対処すれば助けられる」と大きな声で叱責する。主任がすぐに心電図を持ってきた。

「先生、彼女倒れる前に薬を飲んでたんです。よく彼女頭痛がするからとボルタレンを飲んでて、今日も薬を飲んでたんですけど、ボルタレンの錠剤じゃなかったんです」

 そういいながら麻衣子と同期で今年から外科病棟勤務の看護師が薬箱を差し出す。俺はそれを開けた。そこには裸のままの薬が数種類入っている。木村スイの意識はもうない。心電図も不整脈を示していた。呼吸はしているけれど、浅い上にゆっくりだ。

 薬箱の中にある薬を見つける。見たことのない薬だった。

 師長と主任の顔色が悪くなる。

「ちょっと、これ、トリスタンじゃないの?なんでこの子こんなの持ってるのよ。二十年も前に販売中止になった薬よ」

主任の言葉に師長も頷く。

「これを飲んだのね。でも健康な人間が1錠飲んだくらいでこんなことにはならない。とりあえず、院長先生に報告して、自殺の可能性もあるわ」

 二十年ほど前に発売中止になった薬を持っていた木村スイ。彼女は自分でその薬を服用したのだ。自殺という言葉が耳につく。単純にその薬を飲んだだけで副作用が確実に出るわけではない。自殺だとすれば、ギャンブルのような自殺ということになる。

 外科病棟に薬局長と院長が来た。すでに木村スイはベッドに寝かされている。薬を大量に服用した自殺なら胃洗浄が必要だろうが、大量に飲んだわけではない。重篤な副作用があるために発売中止になったような薬を飲んだのだから、薬剤の投与も慎重に行う必要がある。トリスタンという薬に対してそれほどの知識が俺にはない。今はよく知っている院長や薬局長に指示を仰ぐ方がいい。俺が下手に動けば心臓を止めてしまう恐れがある。俺は院長の顔を見てホッとする。

 薬局長は薬箱の中を見て顔を歪めた。

「彼女はこの薬の知識がきちんとあるのでしょうか?もし薬の知識を持っていたのであれば、これは明らかに自殺行為です」

 薬局長は黒縁の眼鏡の端を持ち上げながら説明する。

「トリスタンと一緒に飲むと重篤な副作用を起こす薬ばかりがこの薬箱には並んでいます。きっと、彼女はトリスタンだけを飲んだわけではないのでしょう」

「それで、どう処置すればいいんでしょう?」

 俺は食い気味に声を荒げながら最善の処置を確認する。

 俺の言葉に重なるように高橋さんが青い顔で呟やいていた。独り言のようにも思えるが、声のトーンが大きいから、みんなに聞かせるためにしゃべっているのだろうか?

「木村さん、さっき迷惑かけてしまうけど、ごめんなさいって私に謝ってきてて、みんなにも迷惑かけるからそれだけは本当に申し訳ないんだって言ってたんです。もっとちゃんと話を聞いてあげていれば、もしかしたら止めれてたかも知れないのに」

「それ、私も聞いてました。木村さんが迷惑かける人だったら私はどうなるんだって思ったから覚えてます」

 薬箱を出してくれた看護師だ。

 師長と主任が時計を確認して頷きあった。

「みんなびっくりしたと思うし、今も木村さんがどうなるかわからない。けれど、ここは病院で他に患者様がいる。私たちはこの病院のこの病棟の看護師です。仲間のことだから気になるでしょうけど、仕事に戻りましょう」

 師長がスタッフに向かって声をかけた。優しい笑顔だ。この師長は体は小さいけれど、とても大きく見える。スタッフたちはお互いの顔を見合わせ、木村スイの眠る病室から出ていった。

「伊藤君、君が木村さんの主治医になりなさい。二十年も前に販売中止になってもまだトリスタンを持つ人間がいる。それは事実だ。循環器に作用する薬は多いからその一例として彼女のことをしっかり診なさい」

 院長は何の感情も載せない顔で木村スイの横になったベッドを見ている。自分の病院で自殺騒ぎを起こした彼女のことを院長は憎んでいるのだろうか?何とか自殺未遂で終わらせたいと思うなら自分が主治医をするだろうか?隠蔽?病院はどうなるのか?

 俺は不安な気持ちを隠しつつ「はい」と返事をする。

「死なせるな」

 院長が病室を出る前、俺の横を通る時に俺にだけ聞こえる声で一言言った。それは聞いたことのない院長の低い低い声だった。

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