6 しがらみ①

 四月になり、新人のスタッフが多く職場にやってきた。麻衣子は五月まで働いて、六月からは産休に入ることになっている。新居はまだ決まっていない。候補は2、3個あるが、決めきれないのだ。麻衣子とはまだ別々に暮らしている。周りは、俺のマンションに引っ越せばいいのにという。なんとなく、俺はそれが嫌だった。妊娠してる嫁と別居してることが世間的に異常な状態なのはわかっていたから、一応、麻衣子に「うちに越してくるか?」と尋ねてみた。麻衣子は予想に反して首を縦に降らなかった。

「一緒にいたら、私動いちゃってしんどくなりそうだし、キッチンのものの配置とか、自分の手に馴染んでる方がいいから、一緒に住む家が決まるまでは別に住むよ。もちろん、早く一緒に暮らしたいから、家、急いで見つけようね」

 すっきりした笑顔だった。それからというもの、仕事以外は家探しを四六時中していた。子供は二人は欲しいから、それぞれの部屋が必要だし、夫婦の寝室と個人の書斎も必要だ。キッチンもお風呂も大きい方がいいし…。智希に家探しが思うように言っていないとSNSでぼやくと「いっそ新築したら良かったのに」と言われた。それはその通りだ。なぜ中古住宅を買おうと思ったのか。一応、これから生まれてくる子供にお金を使いたいからだったと初心に戻る。予定では女の子だ。きっと可愛い子が生まれるだろう。俺は自分の初めての子に心を弾ませていた。

 今、世間はゴールデンウィークだ。俺たちには関係のない休みだが、麻衣子のアパートに麻衣子の両親が来る。俺は夫として一緒に出迎える。麻衣子の母が俺にすまなそうに頭を下げた。

「ごめんなさいね、わがままな娘で。真司さんのマンションで一緒に暮らそうって誘ってもらったのに、この子が断ったんでしょう。本当に困ったものだわ」

 母親に比べて父親は無口だった。それでも、母親の言葉の後に同じように頭を下げる。それを見た麻衣子が慌てて両親に抗議する。

「あのね、お母さん!ちゃんと二人で話し合った結果なの。だから謝る必要はないし、きっと真司くんもそっちの方が良かったと思うの。付き合ってる時からほとんど真司くんの部屋って行ったことないんだから!ね。だからそんな風に言わないでよ!」

 麻衣子は妊娠して、声が大きくなった。元々大きかった声を意思の力で抑えていたのかも知れないと思った。俺が麻衣子に優しくするために密かに努力しているように麻衣子も俺との仲を保つために努力してくれているのだ。

 ただきっと妊娠中と出産直後はそんな余裕はないだろうと思う。麻衣子の釣り上がった目に内心ため息をつきながら、リカを思い出す。近々会わないと麻衣子への態度が保てなくなるかも知れない。

 麻衣子の母が俺の方をジッと見ていた。麻衣子はいつも通りだ。麻衣子の母は、厳しい目を俺にむけているように感じる。頭の中を読まれたのか?俺の顔はいつも通りだったはずだ。俺は麻衣子の母に近づき小声で「どうしましたか?」と問うた。

 麻衣子の母は、麻衣子に肉をつけてシワを増やしたような顔をしている。未来の麻衣子の顔だ。「真司さん、うちの麻衣子のこと大事にしてくれてますか?妊娠中はとてもナーバスになるんですよ。夫の支えがあっても苦しいのに、真司さん、麻衣子のそばにもっといてやって下さい」

 俺は麻衣子の母の言葉に頷き、二十二年前の彗が生まれる時のことを思い出した。

「俺の妹は十歳下です。十歳の頃の記憶ですが、お腹の大きくなった母親がとてもナーバスだったのをよく覚えています。父と一緒に家事をしたり、母の背中を撫でたりしていました。あの時は母親の妊婦でしたけど、今度は、自分の妻の妊娠出産です。俺も夫としても父親としても麻衣子にしてやれることはなんでもするつもりですから」

 俺が誠心誠意、麻衣子の母親にその想いを告げる。麻衣子が驚いた顔をしていたけれど、急に泣き出した。俺は慌ててその背に手を回す。麻衣子の母は満足そうな顔で笑った。

「頼もしい旦那様だこと。そう思っているのであれば早く新居を見つけて、一緒に暮らしなさいね。一緒にいないと背中を撫でることも出来ないのよ」

 俺は大きく頷いた。麻衣子は泣き続けてる。大丈夫か聞くと嬉し泣きだからいいのと言った。父親は何も言わず母親と俺のやりとりをジッと聞いていた。


 俺は麻衣子の家からの帰り、車を運転しながら二十二年前のことを思い出していた。妹が生まれることが嬉しかったこと。母さんがイライラして怒りっぽくなったこと。出産に立ち会って、人が生まれる神秘を知った。あんなに苦しんで生まれてくる。出産をする母親の苦しそうな声、最後は叫び声だった。出産が始まる前に、もし気分が悪くなったり辛くなったら分娩室から出るように言われていた。苦しむ母を見ているだけの自分。動き回る助産師。父もオロオロとしていた。母方の祖母がとても頼もしく見えた。父に何度か分娩室の外に出ていいよと言われたけれど、俺は妹が生まれるまでその場にいた。助産師が教えてくれる。「人間はこうやって生まれてくるのよ。あなたもこうやって生まれたの。出産はお母さんだけが苦しんでるわけじゃないんだよ。赤ちゃんもお母さんと同じくらい苦しんでるんだよ。でも、生まれたいって生まれてくるの。すごいでしょ」耳に残る言葉。

 あんな瞬間を見て妹を可愛いと思えないなんてあり得ない。俺にとって妹の彗は宝物になった。自分と彗を産んでくれた母に感謝が溢れた。そんな母を大切にしたいと思っている父を最高だと思った。俺は父のようになろうと決意した。

 そういえば、俺はその宣言を誰かにした。初めて行った公園で友達になった女の子。一人で寂しそうだった。母の出産シーンを見た後で誰にでも優しくしたい時期だった。その子に人が生まれてくるのはすごいことなのだと力説し、父親のような男になりたい、いや、なる!と宣言した。

 俺は自宅の駐車場に車を停めながら、そういえばその子の名前がすいだったと思い出す。妹の彗と同じ読み方の名前。「同じ名前の子がいるって初めて知った」とその子が言っていた。俺はその子の顔をぼんやり思い出す。木村スイに似ていたように思う。俺の記憶の中でその時の女の子の顔が木村スイの顔に固定される。彼女はキラキラした目で、「スイの王子様だ」と呟いた。小さな俺は誇らしげにその言葉を聞いていた。

 ドガン!

 大きな音と小さな衝撃で現実に引き戻される。

 愛車のベンツが駐車場のタイヤ留めに勢いよくぶつかったのだ。

 俺は額に冷たい汗をかいているのに気づく。心なしか脇も濡れている。あの時の少女は木村スイだったのか。

 あの後すぐだった。数男おじさんと直子おばさんが結婚したのは。あの時寂しそうにしていたのは母親が居なくなってすぐだったから?俺はハンドルに体を預けた。あの時の「スイの王子様だ」という幼い女の子の声が耳に蘇る。

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