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         *


 都の祖父は地質学ちしつがくを専門とする研究者で、地球の表面を構成する地殻から過去の歴史を紐解く地史学ちしがく、その中でも特に地下水を対象とする水文すいもん地質学に秀でた人物だった。

 真幸は、そんな都の祖父の教え子だそうだ。

 当時の祖父は、地元である溜井戸の地をメインの研究対象としており、かなりの熱の入れようだったと聞く。

 この溜井戸はその名の通り、豊水の地として知られているが、地質学的視点で見ればそれはありえないことなのだそうだ。なんでもこの土地は難透水層なんとうすいそうと呼ばれる、水が通過しにくい地層をしており、地下水の発生しづらい土地らしい。そのため、この土地で井戸水が湧き出る現象に説明がつけられないのだと言う。そんな溜まるはずのない水が一体どのようにして溜まっているのか、その謎を解き明かすため、都の祖父は自身の最後の研究として、溜井戸を選んだのだった。

 その研究には真幸も参加していた。真幸は、根気と体力の要るフィールドワークにも熱心に参加し、その度に祖父にはあれこれやらされたそうだ。結局、真幸は研究者としての道を進むことはなかったが、大学に籍を置かなくなってからも祖父に会いに何度か大学には足を運んでいたようだ。

 そして、祖父が教壇を降りてからも真幸は溜井戸家に度々顔を出し、その内に都とも顔見知りになったという経緯らしい。


         *


 井戸を囲んで行われた真幸の紹介は、そんな風にまとめられた。

「それで先生って呼ばれてたんだ」

 都の話を聞いてマキは、近所のおばあちゃんがこの家を『先生のお宅』と呼んでいたことを思い出していた。

 マキは最初それを「先生だなんて、お年寄りは大袈裟だなあ」などと思っていたのだが、都の祖父が本当に先生と呼ばれる立場であったことを知り、なんだか恥ずかしさで居たたまれない気持ちになった。

「難しそうな本読んでるのは見たことあったけど、大学の先生なのは知らなかったな」

 七尾は顎に手を当てて記憶を辿る。

「都が読んでる本も難しいのばっかだから、あんま気にしたことなかったや」

「まあ分かりますよ。一緒に暮らしてこの方、じいじが先生らしいところなんて見たことありませんから」

「そうなの? しっかりしたおじいちゃんに見えるけど」

 マキが見る限り、身なりもちゃんとしていて腰の低い好々爺という印象が強い。先生かどうかを抜きにしても、なんとなく知性を感じる人物に見える。

「見た目だけですよ、じいじは家事もへたっぴですから」

「先生は研究一筋でしたからね。家の事も奥様に全て任せていたそうです」

 そう言われると、途端に古い人という印象が強くなった。男が外で稼いで女は家を守るという生活スタイルは、現代を生きるマキにとってはどうにも馴染みがないものだ。

「尖った方なのです。先生は研究以外は本当に不得手な方で、自分が出来ることに全力を尽くすという方でした」

 考えが表情に出ていたのか、真幸がフォローを入れる。

「奥様が亡くなられてからは本当にご苦労なさっていました。家事もそうですが、家の管理など出来る人ではありませんからね。修繕もろくにせずあの有様だったでしょう?」

「ああ、まあ……」

 七尾が苦笑いを浮かべて頬を掻く。

「なので、都さんが改築したいと言ってくれて助かりました」

「私ですか?」

「ええ。わたしが何度言っても先生は、家には手を入れたくないの一点張りでしたからね…………やはり都さんに言われると弱いのでしょう。首を縦に振ってくれました」

 都と真幸に詰められて渋々承諾する祖父の姿を想像して、マキは思わず笑ってしまった。そして恐らく、改築したあの家でなんだかんだ快適に暮らしているであろうことも容易に想像できてしまう。

「まあそれでも、新しい設備にはまだ戸惑っているようで、あれこれ聞いてきますよ」

 都は頬を膨らませる。やはり最新設備というものはお年寄りには使いづらいのだろうか。

「その内慣れてくれるよ、きっと」

「どうでしょうか」

 都は、鼻の穴をぷくっと膨らませて言った。

「ボケる方が早いかもしれませんよ」

 そう言って小刻みに震えながら笑った。隣にいるわらわも、げらげらと声を上げて笑っていた。

 しかしそれを聞いた真幸は、静かな声で都を諫めた。

「そういうことはあまり口に出すものじゃありませんよ」

「フフ、すみま………」

「誰に聞かれているか分かりませんから。ね?」

 そう言って真幸はマキたちの背後に声をかける。その声をかけた方を見ると、都の祖父が困ったような表情で立っていた。

「………あ」

「圁圖くんに頂いたスイカを切ったから呼びに来たんですが、都さんの分は要らないということでよろしいですか?」

「いや、じいじ……今のはですね…………」

 しどろもどろになりながら言い訳を絞り出そうとする都。祖父はそれを無視して言った。

「ではみなさん、一人分浮いたということなので、どうぞたくさん食べてください」

「ちょっ……!」

「やりぃ! 行くぞマキ!」

 踵を返して家へと戻っていく祖父に追いすがる都を、七尾が走って追い越して行く。

 呼ばれたマキもその後に続こうと一歩足を踏み出した。


「…………………」


 だが、そうしようとしてマキは、ふ、と足元に目を落とした。

 どうしても気になったのだ。先ほど真幸がカメラを構えて覗き込んでいた井戸の中になにがあるのだろうか、と。

「…………」

 マキは首を伸ばして穴を覗き込む。落ちないように、足を滑らせないように。

 縦穴は暗く、何も見えない。太陽の光も井戸の底までは届かず、石積みで出来た井戸の内壁が、らせん階段のように奥へ奥へと続いている。一段ごとに底に向かって歩いていく影は、一緒に進む影同士で重なり合って、奥に進むほど濃くなっていた。最奥には吸い込まれそうな黒い闇が揺蕩っていた。そこには静謐に満ちた黒の他には何もなかった。

「…………………………」

 じっ、とマキは闇を見つめる。何かあると思っているわけではない。ただ見ているだけだ。それは展望台から豆粒のようになった人の姿を見下ろすような、あるいは海面にできた渦潮を茫然と眺めるような、そういった自然な生理の下で、この『見る』という行為は行われていた。


 ───奥へ。


 マキは地面に膝をつく。汚れることなど気にならない。だってこうすればもっと奥まで見えるかもしれないから。

 穴の縁に手をついて、もっと奥へ、もっと深みへと身を乗り出す。

「わぁ……」

 闇は輝いていた。らせんの石壁が小さな光を反射し、互いにぶつかり合った光彩が複雑な軌道で重なり合い、円筒状の穴の中に神秘の幻想世界を作り出していた。

 それは万華鏡だった。光など届かない闇に煌めく幽玄美麗ゆうげんびれい万華鏡カレイドスコープだった。

 見てみたい。もっと近くで、もっと深くで。

 もっと。もっと。もっと。

 マキは更に奥へと覗き込む。

 だが、


 ずるっ


「!」

 湿った穴の縁についていた手が滑り、傾いていた体が一気に重力に引っ張られた。内臓がひっくり返るような浮遊感に全身が瞬間的に逆立った。

 ─────落ちる!

 ぎゅっ、と固く目を瞑る。直後に訪れる衝撃を予感して体が強張った。

 しかし、予想していた衝撃はなかった。

 おそるおそる目を開くと、真幸がマキの体に手を回していた。手を滑らせた瞬間に服を掴まれたらしい。真幸はマキを引っ張ってその場に立ち上がらせると、感情のない瞳で言った。

「行きましょうか、境井さん」

「あ、はい……ありがとうございます…………」

 真幸は、まるで何事もなかったかのように注意喚起のロープを乗り越えると、そのまま歩いて行ってしまった。

 マキはしばらく茫然としていたが、その内はっと立ち上がって、都たちの背中を追っていった。


 後には朽ちた井戸だけが残された。


         4


 よく見える。ここから空はよく見える。

 今日は綺麗な青い空。あなたのお顔もよく見える。

 明るいところで見る顔は、なんだかお久し振りですね。


 誰ですか。そこにいるのは誰ですか。

 黙って覗いて来るなんて、随分無礼な方ですね。

 早くどこかへ行きなさい。私は星が見たいのです。


 なんですか。私を知ってる方ですか。

 それなら話をしてください。

 私は一体誰ですか。どうしてここにいるのです。


 …………そうですか。


 それでは私は、待ちましょう。

 波に揺られて、待ちましょう。

 夜空を眺めて、待ちましょう。

 星を見上げて、待ちましょう。



 ────冥途へ旅立つその時を。

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