混沌の行者

温厚なアシモフ

第1話 罪人(1)


薄暗い宵闇が街角の小さな酒場を包み込む中、ドアが軋む音とともに、不速の客が店内に足を踏み入れた。黒い上着の下から覗く上質なスーツ、わずかに顔を覆う丸い帽子の縁、金縁の眼鏡―その冷ややかな天藍色の瞳は、まるで人情を知らぬかのような厳しさを秘めていた。銀白の髭は整然と手入れされ、その様が清潔かつ厳格な印象を醸し出していた。


そうした男は直接カウンターへと歩み寄り、漆黒の杖先が床を打つ重々しい足取りだった。煙草とウイスキーの香気が漂い、朽ちかけた木製の床板がわずかに軋む音を立てる。


「マティーニを一杯ください」と、彼は冷淡な口調で要求した。視線は一度も逸らされることがなかった。調酒師が少しためらった後、作業を再開する。壁面では野球の中継が流されており、解説者の声と客たちの談笑が混在していた。


ゆらめく酒液を通して、彼はそぞろ心なげにこの酒場を見渡す。カウンター脇では、チェック柄のシャツを纏った中年男が、ジャズのリズムに合わせてグラスを軽くたたいている。隣には作業着姿の建設作業員が座り、調酒師と今日の天気について話をしている。コーナーのボックス席には、暖かな灯りの下で囁き合う若い恋人がいる。入り口付近では、カジュアルな格好の若者たち3人が、テレビの試合結果をめぐって熱心に議論している。


そして彼は、最も目立たぬ隅に座る、スーツ姿の会社員に目を留めた。相手は、ウイスキーをゆっくりと啜りながら、わずかに斜めになったネクタイ、こめかみに浮かぶ細かな汗粒、酒に染まった赤く熱っぽい顔を持っていた。


その男の視線が客席を渡り歩くたび、喉仲間が反射的に動いた。足元には、静かに置かれた書類かばんが置かれている。「彼らを殺せ...」甘美で妖艶な声が、まるで彼の耳元で囁いているかのようだった。冷や汗が背中を這う。


マティーニのオリーブが静かに揺れる。会社員は、ゆっくりとネクタイを緩めはじめる。あたかも、誰かを驚かしまいと慎重な所作だ。ときおり、向かいの空席に視線を落とす仕草が見られた。


酒場内は相変わらずの喧噪だ。迫る試合の行方に、若者たちが熱心に声援を送る。会社員は膝の上に抱えた書類かばんを、指先でそっと撫でまわしている。


彼はまた一杯ウイスキーを注文した。グラスと木製のカウンターが澄んだ音を立てる。


かつて汚れ跡の残る壁面が、かすかに灯りに浮かび上がる。冷ややかな瞳がそこを掠めると、ただ薄汚れた古い壁紙が見えるだけだった。


店内の灯りがいつの間にか暗くなっていた。試合は終盤に差し掛かり、若者たちは精算を済ませて、肩を寄せ合いながら店を後にする。


チェック柄のシャツの男は電話を切り、明日は早起きしなければならないと呟きながら、レジに代金を置いて出口へ向かう。恋人たちのボックス席を通り過ぎる際、ほのめかすような微笑みを浮かべ、ため息交じりに頷いた。ボックスの中では、若い恋人たちが情熱的に絡み合っている。女性が男性の膝に跨り、スカートのすそが少し持ち上がる。あでやかな吐息と、湿った水音が混ざり合う。男性の手が女性の腰線に沿って這い上がり、布越しにある場所で止まる。暖かな壁燈の光が、絡み合う二人の影を壁に投影する。まるで抽象的な剪影画のようだ。


会社員はなおもその隅で、ウイスキーを飲み続けている。かばんの中から、何かが軽く揺れる音がする。彼の視線が、残された客たちの間を徘徊する。唇が微かに動いているのは、まるで何かを数えているかのようだ。


すべての音が途絶えた。冷たい気配が店内に忍び込み、ガラス窓に薄霧が立ち込める。調酒師が磨いていたグラスを止め、眉を寄せる。恋人たちは固まったままだが、一瞬だけ、迷える子羊のように澄んだ目を取り戻すと、すぐに情熱の渦に巻き込まれていく。


金縁の眼鏡の男は、隅の会社員を凝視し続けている。会社員の顔は赤く染まり、血走った目、きつく噛み締められた歯が浮かび上がる。ゆっくりと立ち上がり、かばんに伸ばした右手が、しばし留まった後に、ゆっくりとロックを外し始める。


かばんの中から、金属と革のすれる音が漏れ出す。眼鏡の男はマティーニをひと口啜り、ほのかな笑みを浮かべる。会社員の手がかばんの中に入り、何かを掴む。指が、ひたすら握りしめ、ゆるめるを繰り返す。額の汗が頬を伝い落ちる。息が荒く、重くなる。視線が、ついに情熱に酔いしれる恋人たちに注がれる。「殺せ...殺せ...」その甘美で狂気じみた囁きが、ますます執拗になる。


しかし最終的に、深く息を吸い、かばんを閉じた。眼鏡の男はグラスを軽く振り、失望の色を瞳に宿す。


再びジャズの調べが響き渡る。あの夜、また誰かが命を落とした。

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