夜空を買う

三上クコ

第1話

「すみません、夜空、注文しに来ました」


 無人の店内に呼びかけるように声にしたにもかかわらず、口から出た言葉は思ったより響かなかった。


 町外れにある小さな空屋そらやは、地図を描いてもらわなければ辿り着けないほど入り組んだ路地の奥にあった。しかもそこにあるのは看板も何もないただの一軒家。入り口の扉を開けるのに暫く逡巡し、やっと手を伸ばし開いた先は無人。なおかつ声が通らなかったので、もうすでに心が折れそうだった。

 声が響かないのは、きっと狭い店内に溢れかえる紙のせいだろう。左右の壁に備え付けられた幅広の棚に、茶色のクラフト紙に包まれた紙束が山のように置かれている。全ての包み紙には付箋が貼られており、”青 明 211”、”緑 暗 056”、”紫 明 炎 490”など、様々な状況が読みにくい流れるような文字で書かれていた。文字とは相反して、紙束は神経質なほどきっちりと四隅を合わせて棚に並べられていた。だが、色別でも、明るさ別でもなく、作った順に並べていったとしか考えられないほど様々な状況が混沌と入り混じっており、どこに何かあるのかさっぱりわからない。目的の物を探し出すだけでも半日は掛かりそうだ。

 私は無意識のうちに手のひらを胃の上に置いていた。もう一度、もう少しだけ声を張って呼びかけてみよう。覚悟を決めるように小さく息を吐き、大きく息を吸って顔を上げると、店の奥――年代物のレジと古ぼけた分厚い台帳、鈍く光る銀のタブレットが置かれた重厚なカウンターの後ろにある薄ら暗いバックヤードの入り口――から一人の大男がのっそりと現れた。

 年は予想していたよりも若い。私と同い年ぐらいだろう。寝癖なのか元からなのかわからないが酷く癖の付いた黒髪に、身を竦めてしまうほどの鋭い眼光。無精ひげを生やしており、赤、黄、白、青など、酷く汚れた黒い作業着を着ている。指先も酷く汚れており、地肌の色がわからないほど色鮮やかに染まっていた。シンナー特有の鼻の奥を刺すような臭いを纏った空職人は、私をじっとりと見つめると、億劫そうに口を開いた。


「どこのだ」


 空職人は、見た目と違わず低くざらついた声をしていた。


「ち、地球の冬を」


 息を吸ったままだったこともあり、声は変に裏返り、妙に大きな声が出た。先ほどとは違い、紙は音を吸ってくれなかったようだ。頬がかっと熱くなる。


「担当、変わったのか」


 空職人は独り言のように呟いた。私のことなど全くもって気にもしていない様子で何やら素早くタブレットに入力し、巨大な台帳を捲り始めた。数ページもしない内に空職人の手が止まり、瞳が左右に素早く動く。何度か往復した後、顔を上げた空職人がカウンターから出てきた。迷いなく左の壁に向かい手前から五番目の棚の前に立つと、二つの紙束を勢いよく棚から引っ張り出す。


「はい、先月から」

「色は」


 空職人はどすり、と音を立てて乱雑にカウンターに紙束を乗せると、先ほどの力強さは何だったのかと疑うほど繊細な手つきでクラフト紙を開いた。ちらりと見えたタグには”黒 暗 石 073”と書かれていた。中から現れたのは真っ黒な紙。ただ黒いだけではなく、光が当たると黒色だが、影にすると控えめに輝く不思議な色をしていた。


「基本は例年通りですが、漆黒性は去年より高めで、お願いします」


 私の言葉に、もう一束から紙を取り出そうとしていた空職人の手が止まった。宙に浮いた行き場のない手を台帳に移動させると、数枚ページを捲り、再び棚へを向かった。今度は右側、一番奥の棚へ。


「十年前程度か」

「え、ええと、確認不足で申し訳ないのですが、そうなるんですか?」

「配合だとそうなる。さっき出したのが去年で、これが十年前だ」


 空職人は新たに引っ張り出した紙束を雑にカウンターに置き、紙を一枚、丁寧に取り出した。カウンターの上に並べられた二枚の紙を見比べてみるが、私には違いがほとんどわからなかった。どこからどう見ても、二枚とも真っ黒な紙だ。正直に伝えるのが憚れた――率直に言うならビビった私は、もう少し紙をよく観察してみることにした。

 大きさはA2。四辺が白くぼやけたような線で縁取りされている。スプレーで塗装すると聞いているので、わざわざ白い線を引いたのではなく紙を固定する時に貼っていたマスキングテープを剥がした跡だろう。紙質は簡単に皺が付かないようなしっかりとしたものであり、艶はないのにつるつるとした手触りをしていた。よく観察してみても、やはり両方とも漆黒の紙で、影が落ちた部分が上品に輝いている。ほとんどが白っぽい光だが、極に赤い光や青い光が見えて面白い。やはり同じ黒にしか見えない。しいて言うなら、左側の紙の方が僅かに白ぼけているような気がする。ただ、元から色が違うのか、経年劣化で色が変わったのかの判別がつかない。同じ色を違う日に塗って作ったと言われても納得してしまうほどの微かな違いしか、私にはわからなかった。

 先ほどから突き刺さる空職人の視線が痛い。これといって明確な答えは見つからなかったが、私はこの空気に耐え兼ね恐る恐る口を開いた。


「左の方が、ぼやけた、感じです、ね?」

「それが去年の空だ。アンタ、前任より目がいいな」


 空職人の突然の褒め言葉に、私は思わず目を丸くした。


「そうなんですか?」

「あの男は何を見せても『全く分からん』と笑うような奴だった」


 淡々としていた空職人の声に、一瞬だけ感情の色が混ざった。苛立ちと呆れのため息に、私は苦笑いすることしかできなかった。前任者ならそう言いかねない。あっけらかんと言う光景が容易に思い浮かべられる。


「問題ないならこの色味を目指して調色するが」

「はい、お願いいたします。納期はどれくらいになりそうですか」


 私の質問に空職人はタブレットを何度かスワイプさせると、少し考えこんで口を開いた。


「……遅くとも一ヶ月半」

「問題ありません。よろしくお願いいたします」

「承知した。今注文票を印刷する。内容を確認してサインしてくれ」


 空職人がそう言い終わるか終わらないかのタイミングで、カウンターの中から機械が唸る無機質な音がした。カシャンという何かを填めるような音、紙を何度も素早くなぞる音がそれに続く。機械が静まり返る前より速く、空職人はカウンターの内側に手を伸ばすと、A4紙を二枚を取り出して私に差し出した。受け取った紙はほんのりと温かい。上部のタイトルが違うだけで、二枚とも同じ内容だった。表の中に窮屈そうに詰め込まれた明朝体を手早く確認し、胸ポケットから取り出したボールペンを右下の空白に走らせる。そして空白が埋まった紙を空職人に手渡すと、”お客様控え”と書かれた方が瞬く間に戻ってきた。


「料金は振り込みか」

「はい」

「一週間以内に頼む」

「はい、この後すぐ手続きいたします」

「それと、受取日以降なら何時でも構わない」

「承知しました。よろしくお願いします」


 私はそう言って頭を下げた。空職人は一度軽く頷くと、私に見向きもすることなくカウンターの上に広げた紙束を丁寧に片付け始めた。

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