深潭の蝉
猫背
第一章
第一章:1
空気を圧迫するような蒸し暑さで息が苦しい。刺すような日差しに焼かれた皮膚がひりつく。灼熱の中、俺は自転車を押しながら歩いていた。空気が抜け切った後輪は自重に押しつぶされ、前進するに従って寄せ余ったゴムが一定のリズム刻みながら車体を押し上げる。その度に至る所ががしゃんがしゃんと耳障りな音を立て、苛立ちと惨めさを増幅させる。
制服のワイシャツが背中に張り付く勝手の悪さに気を持っていかれるが、それをいちいちタオルで拭っていられるほどの余裕はなかった。刈り上げているに等しい後ろ髪はまだいいとして、目元が隠れるまで伸ばしているこの前髪が、自分で望んでそうしているはずのに今はひどく鬱陶しい。眼鏡をかけていなければ顔中に張り付いていたことだろう。当然誰とすれ違うかもわからないが、前髪の根本から眼鏡でかき上げてしまい、そのまま固定しようかと本気で悩む。
この馬鹿みたいな暑さの中、この使い物にならない鉄の塊を、ただただ、押している。
なにもかも投げ出したい衝動に駆られながら歩いていると、道路脇、歩道と車道を分け隔ているガードレールの裾でしゃがむ、男子生徒が目についた。ヒビ割れた黒いコンクリート、生き生きと伸び散らかっている濃い緑の雑草の中で、日差しを浴びて白く光っているワイシャツが浮いているように見えた。俺が通う高校のものとは違う、だけれど見慣れている制服を着た人物は、自転車を歩道の脇に止め座り込んでいる。まるで地面に落ちている何かを見ているようだ。
もしや、と更に人物に注意を向ける。
肩甲骨が盛り上がった背中、力んでいるわけでもないだろうに筋張っている腕。それらが与える印象とは反して、柔らかく軽やかに跳ねた、癖のある栗毛の頭髪。きっとこれが振り返ったのならば凛々しい眉毛と目尻が下がった大きな目がくっついていて、同級生と比べると幼く見える、けれども整った顔が、そこにあるのだろう。人物に見当が付いたため一刻も早く帰りたいという気が変わり、自然と声が漏れる。
「おう。クユル、なにしてんの」
スモークサーモンとかスモークチーズとか、いわゆる『燻製』。あの燻製の
初めて出会ったのは学校ではなく公園だ。夕暮れ時、大した遊具もない小さな公園に俺たち二人しかおらず、どちらが話しかけたのかはもう忘れたがその時に出会い、名前も知った。珍しい名前だと思ったが、彼が「漢字、一文字しかないのに難しくってさぁ。書き順もよく分かんないし、なんだかメンドクサイ名前なんだよね」とぼやいていたのが印象的だった。彼のメンドクサイという言葉に幼心に違和感を抱いていたのだが、数年後、その漢字を知った時にこれは確かにと納得したのだった。
彼の名前についてはもう一つ納得のいった思い出がある。それは何かの小説で『煙草の煙を
その勝手に思い出深く感じている名前を、微動だにしない背中に向けてもう一度投げてみる。すると今度は気が付いたようで、まるで悪い事をしていたのが親に見つかった幼子のような素早さで「え、あ」と漏らしながらこちらを振り返った。
やはりその背中はクユルのものだったが、こちらを向いたその顔を見て、俺は言葉を詰まらせた。
泣いている。
大きな瞳から溢れ出ている涙が鋭い日差しに反射して、頬にいくつかの筋をつくっていた。振り返った反動でだろうか。また一つ、光の粒が頬をなぞっていく。
「あ、あ。なんだ、カナメかぁ」
クユルはそう言いながら気まずそうに眉を下げ、大きな手でごしごしと顔を擦ると、誤魔化すように笑った。その普段通りの人懐っこい笑顔に対しても、未だ言葉が出てこない。一体どうしたのだと、理由を聞いてもいいのだろうか。十年ほどの付き合いだが今まで一度しか見たことのない泣き顔を、まさかこんなところで。見てはいけないもの見てしまったような後ろめたさすら感じる。
言葉が探せない代わりに、状況を把握するために視線を動かす。クユルの顔から、しゃがむことになった原因であろう手元、地面へと注意を下すと、そこにはひっくり返っている蝉がいた。なんとなく合点が行き、これは自分の手に負えそうだと判断して再度クユルの目に視線を戻し、訊ねた。
「どうしたよ。なに、蝉?」
「うん。自転車漕いでたらコイツ、ぶつかってきてさ。そしたら吹っ飛んじゃって。もう、こんな感じ」
クユルが蝉の方へ顔を戻す。表情はわからないが、また、泣きそうな顔をしているのだろう。そんな後頭部。
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