徒夢に縋る

ソラノ ヒナ

前編

 凍えるほど寒い、早朝の海辺。夜が永遠に続くだろうと思わせる波音。

 それでも日は昇りはじめ、幻想的な光が地球の輪郭を描く。


「はぁ……」


 普遍の自然を前にすれば、人間はとてもちっぽけで、それすらにも感動して声がもれる。霧散していく綿あめの吐息に人類の儚さを重ねる私は、まさに詩人。


「もう時間がない。向き合うんだ、彼と」


 現実ほど幸せで残酷なものはない。

 夢を見れば見るほど、前を向けなくなる。

 でも、そんな私の心なんて関係なく時は進む。


『海が感じられる病室がいいな』


 この言葉を選んだ彼の感性は果たして残されているのだろうか。

 すべては今日、決まる。


「怖いな……」


 どんな形であれ、手術は成功した。

 これが、人類が掴み取った、病魔に勝つ方法。

 それでも、受け入れられない人間だってまだいる。

 私も、そうだ。

 自分を構成するものが人間本来のままだからだろうか。


 けれど、彼の立場になったら私も同じ選択をするだろう。

 愛する人を孤独の中に残してしまうぐらいなら、たとえ人間でなくなっても生きたいと願うのはどうしようもない本能。


 だから私たち人類は、問題が発生した部分をアンドロイドの部品で補う技術を手にしたのだ。


 ***


「おはよう」


 いつもの挨拶。けれど、今の彼には初めての挨拶。眠れなかった証拠を隠すための厚化粧は、特別な日だからと言うつもりである。


「おはよう。いや、久しぶり、だよね?」


 変わらない声。微笑み。まるで幸せに包まれた夢を見ているみたいで、目頭が熱くなる。

 でも、伸ばされる右手は人工的なもの。その現実に、私の目は最低限の動きだけに戻った。


「そうだよ。でも、動けるし、痛くもないでしょ?」


 目覚める時は二人きりにしてほしいと言った私の願いは医師に聞き入れられ、静寂だけが側にいる。

 そのせいなのか、結婚当初を思い出し、記憶の眩しさに目を細めた。


「……ほんとだ。言われるまで気づかなかった」


 自分の腕を観察し、難なく立ち上がる彼を見上げる。


「医術の進歩ってすごいね。長い間寝たきりでも、サポートアンドロイドのおかげですぐに動けるんだもん」


 生命維持に加え、個々に合わせた身体健康保持まで実現している現在の医療。人類の努力の結果。


「前と変わらない。それ以上に、動きやすいと思う。けど、僕はどこまで僕のまま?」


 考えを悟らせない表情の彼と私の間に、絶対越えられない亀裂が深く走った気がした。

 いや、彼の難病が発覚した段階で、世界は分かれてしまっていたんだ。


「……脳の一部と、右手、右足、以外」


 声の震えは、私の心の揺らぎそのもの。

 現実を受け入れ認める行為は限りなく苦痛だ。試練を与える神という滑稽な存在に、目を背けることを許されない事実に、怒りも込み上げる。


「そこまで残せたんだ。なら……」


 その先は言われなくともわかる。望んでいい幸せの結晶。

 でも、彼の表情は真逆だ。


「……あなたが望むなら。でも望まないなら、他の方法もあるでしょ?」


 子供が大好きな彼。だから選択肢は三つ。

 一つ目は、自然に任せる。

 二つ目は、両親の遺伝子を組み込んだ、クローンを部分利用する半アンドロイドを作る。

 三つ目は、病魔や不慮の事故から守るために生み出された成長するアンドロイドを、自分たちの希望に沿って作ってもらう。


 ただし三つ目は、人間である部分は全くない。

 遺伝子さえも病気の発生源になるからだ。

 二つ目も完全な人間とは言えないけれど。

 最近の主流は三つ目。泣き声もオンオフができ、見た目も好みのものにできる。反抗期も、もちろん選べる。育児を体験しつつ、苦痛は排除した快適な生活を送ることができるのだ。


「…………僕は、君だけと、生きていきたいな」


 思案していた彼が顔を上げれば、縋るような目を向けて立ち尽くしている。

 優しい彼のことだ。私を自身の人生に巻き込みたくないのだろう。それはまだ存在しない自分たちの子供にも向けられているのがわかる。


「私は神様に誓ったよ? あなたと一生を共にするって。だからね、お願いするような言い方はしないで。私の考えは変わらない。これからもずっと一緒――」


 すべて言い終わる前に彼に包み込まれる。力加減ができないのは、きっと彼の心の現れ。


「ありがとう……。あぁ、神様も、本当にありがとうございます」


 間違えた。

 誓ったのは彼にであって、神様にじゃない。


 未知の存在にも感謝しはじめた彼の囁きに、私は神などいないと味わった日々を思い出す。

 それでも、彼の変わらない部分を感じ、その奇跡にだけは感謝した。

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