謎の中心へ
「――ちゅ、駐車場の、〝踊る幽霊〟」
そう口走ってから『しまった』と思ったけれど、所長は別段気を悪くした様子もない。相変わらずの仏頂面で、特に内心の変化は感じられなかった、程度の洞察だけれど。
「そう呼ぶ者もいる。幽霊とは甚だ非科学的ではあるが、私からすれば〝彼女〟をロボットなどと呼ぶよりはその方が本質を捉えていると思うね。即ち、〝ゴースト〟だ」
やっぱり。
踊る幽霊の正体は、この子だったのだ。
「おどろいた」
そう茫然と投げだしたのは、千束さんだ。
「こいつは驚く。驚くでしょう。こんなロボットが――いやはや、これが歩き回っていたなんて」
多少、奥村所長は眉を
けれどこれがロボットなら、怒る
「平易に言えばいかにも。TIFAはロボットである。だが歩き回ってはおらん。今日は朝から二時間前までバッテリのメンテナンスをしていた」
「いいやそういうことじゃなくて――なんていうか、普及と仰るのは、変態にウケるって意味じゃないでしょう」
「千束君。TIFAには聞こえている。
奥村所長が
「さぁ、TIFA。お客様に自己紹介を」
TIFAはゆっくりと首を動かし――しかし俯き加減になったまま、話し出す。
「皆様、初めまして。私はTIFA。TFAのリアルワールドインターフェイスとして設計されました。私の脳は、ハイバンドワイヤレスでTFAに接続され、皆様の言葉を届けます――〝どんな質問にもお答えします〟」
あのプロンプトがその口から発せられた。
声、言葉、唇の動き。
それは紛れもなく〝彼女〟の言葉として、ただの読み上げとは一線を画した一貫性があった。繋がっていなかった線が、今初めて接続されたかのような。まるで一本しかなかったアンテナが四本立ったかのような。
その〝彼女〟は、無線でTFAに接続された――
「インターフェイスということは、TFA本体がオフラインでも〝彼女〟はアクセスできるということですか? ワイヤレスで?」
僕らの世界でインターフェイスという言葉は広い意味を持つ。Webのボタン、電灯のリモコン。関数を使うための名前やパラメータだってインターフェイスだ。
僕はこの文脈での意味について、つまり彼女がタッチパネルやキーボードのような、TFAへのアクセスを提供する機械なのかということを問うたつもりだ。
TIFAは軽く頷き返す。
この質問には所長が的確に回答し、補足を加えた。
「勿論だ。TFAはこのTIFAを介して他のリソースにアクセスできるようになっている。尤も我々からすれば限定的で、見た通り人間的な作法に縛られるがね。つまり、〝会話〟だ」
僕らから見ればWebの代わりに、TIFAとの会話を通じてTFAにアクセスできるわけだ。
要するにあの晩出会ったThe Final Answerと、目の前のTIFAなるロボットは、形こそ違えど機能は全く同一のものだということになる。
「ハイバンドワイヤレスは研究員らのコンピュータと同じネットに繋がってこそいるが、〝彼女〟は各端末にはアクセスできず、封鎖状況に漏れはない」
所長がそう言うのは、TFAが現在も有効な封鎖下にあるということだろう。
僕はネットワーク図を頭に描く。
まず、よほど小規模な店舗でもない限りは、お客に開放されるパブリック・ネットワークと業務用のプライベート・ネットワークは別だ。企業や研究所なら、これらは明確に別れて強固な隔離が図られているだろう。
プライベートなネットワークに、僕らのWiFiからは繋がらない。
ここでは三つ目として、TFAの繋がったプライベートなネットがありそうだ。そしてそれは業務用のネットからもワンクッションおいて隔離されている。
普段はともかく閉鎖中の現在、TFAに接続できるのは所長のラップトップPCとTIFAだけということらしい。更にTFAのほうも、TIFAを〝踏み台〟にしてプライベート・ネットワークの外に出ることはできない、と。
「どうして少女の形を?」
茨さんが、当然とも思える疑問を口にした。
「――私の髪は、カーボンアンテナを兼ねています。アクチュエータの出力制約とバッテリバランスから、平均成人サイズのヒューマノイドは現実的でありませんでした。ドローンの対人兵器利用を禁じるリヴィウ・ブレスト条約に批准する必要がありましたので」
千束さんが「何も無理に人型にしなくてもよかったんじゃ……」と呆れたようにぼやく。
その口ぶりをよそに、彼はすっかりTIFAに目を奪われた様子だった。
「大きさにもよりますが、人は生活圏に、行動予測のできない物体が交じることにストレスを感じます。このことから人型であることは基本的な要求としてありました」
説明会で、所長が『彼女』と口走ったのは、まさしく『彼女』だった。
奥村所長はゆっくりと、堂々と彼女の横に立つ。
「――今のは謙遜だ。警戒し難い体は普及のためのマーケ的な要求ではあるが、彼女はただのインターフェイスではない。TIFA単体で、最低限の認識タスクはもとより、巨大なデータベースが不要な程度の知性的な活動もできる。彼女を通じて初めて、人はTFAの知性を確信するのだ。TFAは、彼女から生まれたといっても過言ではない。正確には彼女の前身であるが……とにかく、これが〝理解〟のヒントだ」
これが……機械に知性を与えたヒント?
人型の対話ロボットをインターフェイスにすることで、機械に知性が生まれたと?
そんな単純な話とも思えない。これまでも人を模した形を以て、ある種の機械アレルギーの人々を取り込もうとしたことだってあったはず。
しかし――疑いようがないじゃないか。
不思議なことに、この子はまだ何もAIらしいことを言っていないのに、相対しただけで僕はそこに知性の存在を確信している。それどころか、彼女が機械であることのほうに疑いを持っている。
僕だけでないだろう。悠遠さんも、千束さんも、信じられないという驚きの表情を張り付かせたまま――同時にきっと確信してもいる。
それは確かに、チューリング流の唯物論でも唯心論でもなく――客観的に知性の存在を知らしめる個体なのだ。
僕は、彼女の伏し目がちの瞳を覗き込みたい衝動に駆られる。その瞳は、話しながら幾度か周囲を見渡し、その姿はまるで人間そのものではあったが――どこかしら、何かしらの違和感は残った。
まるで彼女が、自分は決して人間ではないと、僕の認識を拒絶するように……。
「――以上だ。TIFA、下がりなさい」
「ええっ⁉ もう⁉ すいません所長、俺からこの子に直接聞きたいことが」
千束さんが慌てたが、所長は平然と首を横に振る。
「済まないが、彼女はバッテリ駆動でね。大容量のものは条約に触れるから、90分程度しか連続稼働ができない。それに彼女は、今日はもう随分はしゃいでしまったようだ――」
はっきりと分かった。駐車場の踊る幽霊だけじゃない――僕が今日ここで見た人影は、彼女だった。
僕が呆然と眺める中、あの奥村所長がTIFAの横に
「――ドックで大人しくしていなさいと言ったろう。君は、脆弱だという自覚が足りない」
まるで人間が人間に語りかけるような。いや、奥村所長は人間なんだけど――いやいや、そういうことではなくて。
対するTIFAのほうも悪びれた様子はない。
当然の権利のように、こう言い放った。
「だってもう、研究所の中は退屈ですもの。お客様が来るなんてこんな機会、滅多にないでしょう? まさかここにお連れするなんて、私の予想でもだいぶ下の方でしたけれど」
『退〇』――。
何気なくこぼれたその言葉が、僕には喉元に突き付けられたナイフのように感じた。
しかしこれは単に、彼女が今ネットを遮断された謂わば〝圏外〟の状態だから――と僕は誰にともなく抗う。
だってそうじゃないか。それは忌避すべき言葉だ。あるはずのない言葉だ。退屈なら動画サイトを開けばいい。そこには様々な職人やAIが生成した山ほどのコンテンツがあって、誰もがその、無尽蔵の量的利得に浴しているというのに。
そんな言葉は、僕らにはあるはずのない、まるでリアリティのない言葉じゃないか。
『幽霊』や『未来』と同じ種類の、ないと解って弄するだけの架空の言葉。
なのにどうして僕は、その二文字にざわつくのだろう?
「退屈? 退屈を感じるの?」
その問いは、僕ではなく茨さんから発せられた。
最高の知性を持った機械にとって、この世はどう見えるのか――それを尋ねたものだろうと僕は理解した。
TIFAは、奥村所長に肩を預けながら、顔を僕の、いや、僕達の方へ向けた。
「私は、この世の全てを知っているの。なのに、この研究所から外にでることもできない」
この世の全てを知っている。
それを聞いて僕はやっと安心した。やっと――ロボットらしいセリフを聞けたと思ったから。
奥村所長も、厳しい表情を少しだけ和らげたように見えた。
「今だけだ。そこらの人間に、君のような知性はない。だがもうすぐ、もうすぐこの人達が、君のことを良く話してくれる。そうして世の中の準備ができたら、君は自由だ。ここを出て、何でも自分の知性を試すといい。やりたいことをやって、なりたいものになるのだ」
――そうか。
僕達は正しく〝アンバサダー〟だった。彼女の大使として選ばれたのだ。
TIFAは軽く肩を竦め、こちらへ向けて一礼をすると
僕達は、彼女がカーテンの向こうにカチャカチャと歩いてゆくのをただ見守る。
途中、彼女はふと足を止め振り返り、「所長、あれをお願い」。
奥村所長はソファ横のナイトテーブルからリンゴをひとつ取ると、「やれやれ」と言いながら彼女に手渡した。
***
僕達は、また所長室の外の前室に戻り、ぐったりと疲れていた。待ちくたびれたものか、真鍋さんの姿はもうなかった。
ドア一枚戻ってソファに深く沈んでしまえば、まるで高度なペテンに引っかかったような気分だけが残る。
正直言って、つい先ほどあのドアの向こうで見せられたものが信じられない。
〝理解〟がなんだって? 流暢に喋る美しい少女のロボット。まるで本物の人間だった。あの肌は柔らかいのか? それとも硬いのか? 重量は何キロ?
一般的な学生としての関心からいって、まずあんなロボットの存在が信じられない。あれは精緻な、職人芸を詰め込んだ芸術作品だ。
曲がりなりにもAIに関する教育を受けた者としても、だ。
チューリングらは、機械の知性をどうやって確かめるのか激論を交わした。ジェファンソンは話しただけではわからないと主張し、チューリングは話してわからないことは機械になってみなければわからないと応じた。大部分は頭の中の思考実験だったからだ。
でもそこから機械が飛び出してきて主張を始めたら?
今、知性のある機械を前に、全ては文字通り机上の空論だった。能動的に知性を振りまく機械を見て、唯心論だの唯物論だのといった議論がどれほど虚しいか。
そして彼女は、どうやら◯◯している。その可能性を考えると、僕の心中は粟立った。
「質問してもいいですか? あのリンゴは特別なものですか? どういう意味が?」
口を
奥村所長は、だるそうに首を振る。
「あれは謂わば、〝接地〟のひとつだ。彼女の体は、我々のように頭脳と密接に結びついているわけではないため――いや止そう」
〝接地〟とはどういう意味だろう――と僕は掴みかねる。
僕の知識でいえば、接地とはまず
それ以外では……と考えるのをよそに、奥村所長はどうしたわけか一度廊下に出て外を覗い、戻ってドアを閉めたと思ったら内側から鍵のサムターンを捻って施錠した。そして僕らと共にソファに腰を下ろし、黙った。
仏頂面で僕らの顔を順番に眺め、小さな溜息を吐く。
僕らがショックを受けて黙るのはわかる。
でもなぜ所長までが? TFAの秘密を見た僕らは――もしかして消される?
「君達は」と、やがてようやくのように所長が沈黙を破った。
「君達アンバサダーは、定められた日までここで見聞きしたことを口外してはいけない。その代わり、我々も君達の情報を守る。それが会社との契約だ」
消されるのではという思い付きがやおら現実味を帯びてきた。僕は思わずスカートの裾を握る。
ところが、続けて彼が発した言葉は、まるで予想だにしないものだった。
「
ここで起きたことはお互いの秘密だ。
なのに、あのロボットの存在を、バラせと?
「――契約違反をしろと?」と、茨さんがかなり声を下げて確認する。
いやいや、と所長は掌を向ける。
「契約に危険を及ぼすような、具体的なことを言う必要はない。『ある会社が、知性のあるアンドロイドを開発したらしい』――といった具合だ。すぐに信じる者はいないだろう。だがこんな噂話でも、我々が口にすればジョークでは済まなくなる。しかし君達なら」
「どうしてでしょう。いずれにせよ彼女はTFAと共に近く公表されるのでは?」
茨さんはそう重ねて問う。
意図したところでないにせよ、The Final Answerは既にリークされたのだ。NNNはThe Final Answerの存在を否定したわけではないし、このアンバサダーのツアーだって実態はどうあれ公式には正しく公開するための手順のはず。
だったら何も更にリスクを冒して美少女ロボットの存在をリークする意味は確かによく解らない。
しかしその質問に答えることは、彼にとって苦痛を伴うことだったのかも知れない。奥村所長は苦々しく眉を歪め、脂汗の浮いた鼻先を擦った。
「――会社は、TFAの研究に疑問を持ち始めた。あの情報収集能力を危険視するあまり、TFAをGPτのような、知性のない普通のAIチャットとして公開するつもりでいる。そうなればTIFAは『中国語の部屋』に囚われたままただのマスコットとして、ロボットらしい愚鈍な振舞いしか許されないことになる。知性に対する
彼自身によるリークも考えたそうだ。しかし匿名で話せる情報チャネルを持たない彼にはそれが難しい。
かといって僕らも契約違反のリスクは無視できない。いくら奥村所長でも本社の法務には無理を通せまい。
「千束君はどうかね。君は新聞記者だそうだが」
「どうでしょうねえ。あたしはねえ、事件記事専門なんですよ。流してもいいが、そういう噂はありふれてるし、
取り付く島もない――と僕にはそう思えたのだが、所長の目は例の怪しい輝きを取り戻していた。千束さんの発言のどこに希望があったのだろうか。
これでこの視察の目的のひとつがはっきりした。所長が、たった三日で僕らの考えを
でももっと適任がいる気がする。
「阿部さんにそういうマンガを描いてもらうのはどうでしょうか」
「マンガというのは――マンガかね? 『火の鳥』のような?」
大袈裟すぎますね、と茨さん。
「そんな大作ではなく……四コマとか、一ページのマンガをSNSに載せてもらって、プロモにするわけですよ」
「なるほど。しかしそれは、景品表示法などの問題をクリアする必要があるのじゃないかね。阿部氏の作風にも沿う必要がある」
作風には――合わないだろうなぁ、と思う。
しかも僕の知る限り、彼女は週刊連載中の売れっ子だ。急にSNSで一ページ日常マンガを出してAIロボットの話をしたら案件臭がキツ過ぎるかも知れない。
「だが検討する価値はありそうだ。他にはないかね」
秦さんは――と僕が口走ったところで、茨さんと目が合った。
彼女はゆっくり首を振っている。秦さんならどんな重大情報を喋ったところで誰も信じなさそうだという安心感があるけれども。
所長も「秦氏には難しいだろう」と肩を落とす。
なら他に――「江口先輩なら」と僕は言った。
「先輩ならネットにも強そうですし、メーカー勤務だからそういう話が好きな人が多そうです。美少女アンドロイドなら絶対釣れます」
僕はかなりいいアイデアだと思ったのに、所長は「そうか」と再び肩を落とす。
我が先輩ながら、評価が低すぎる。先輩が『チューリング・テスト』と擦ったのが余程気に入らなかったのだろうか。
そこで茨さんがふと、顔を上げた。
「The Final Answerを使えばよいのではないですか? もし不本意な形でサービスが公開されるとしても、その後人々に、尋ねるように仕向けるんです。『世界で一番美しく知性的なAIは誰ですか?』と」
鏡よ鏡――あのお
すごく有名なやつ。毒リンゴはそれに登場したのだっけか。
――チューリングは、占いの結果に絶望して毒リンゴを
リンゴと言えば、リンゴが〝接地〟であるとはどういう意味だったのだろう。
「妙案だが」と奥村所長は悔しさを滲ませ「再開が成るだろうか」と吐き落とす。
「……今、志木達がTFAの使う基礎情報の出所を洗っている。その結果如何によっては、再開そのものが難しいかも知れない。君達アンバサダーの何人かは、きっと強固に反対するだろう」
なるほど、秦さんの質問の件だ。もし彼のプライバシーを、『お役所のハッキング』といった非合法な方法で入手した可能性があるなら、サービスの再開が難しくなる。だから、所長は横車を押してまだしも理解のありそうな僕達にこんなことを頼むのだ。
また重苦しい沈黙が流れた。
座っていると、あの子のことばかりが頭の中を巡る。僕は堪り兼ねて、口を開く。
「でもまさか――ロボットなんて。本当はあれ、娘さんか何かなんじゃないんですか?」
所長は残念そうに首を振り、少しだけ顔を上げて僕を見据えた。
「君は、人に見え人のように話すならば人間であろうと言いたいのか。そうではない。彼女はまだ人間ではない。ならば娘でもない」
す、すみません、と僕は小さくなる。
「つ、つい。彼女と話して、その、信じられませんでした。その、僕は彼女を人間だと思ったんです。そのことを、中々認められないくらいに」
「そう委縮することはない。私はただ事実を述べただけだ。だが表面上の特徴を以てTIFAを人間とするのでは、チューリングと選ぶところがない。奴に勝ったとは言えない」
これはさっきの説明会でもあった話だ。
彼の言葉には百年前の科学者に対する敵愾心のようなものがある。けれどこのときは激烈なものではなく、静かな抵抗のように響いた。
「つまり――アラン・チューリングに勝つと?」と茨さんが尋ねると、「当然だ」と所長は頷く。
「社会が彼女を真に人間として受け入れられるならば、そのときは我々の勝利だ」
そう宣言して、所長は再び僕を見据えた。
「今はまだそのときではない。彼女は人間ではないが、そう考える君の言葉を――まずは称賛として受け取っておこう」
まぁ、賞賛で差し支えない。趣味がいい! とまでは言わないが。
「でも所長。仮にも女の子として造ったなら、もっとお洒落をさせてあげたほうがいいですよ。いえ、よく似合っていたし、悪いとは思わないですけど、本人の希望を聞いて――」
「そうだな。それも考えよう。君がこの中で一番服飾に造詣がありそうだから参考にしたい。何が良いのだろうか。放熱も考えてアドバイスをもらいたいが」
「ほ、放熱? ううん、彼女には何が似合うだろうなぁ。ここならとりあえずビーバリーが鉄板じゃないですか。でもそのまま外に出たら浮くから……」
彼女の姿を思い出す。あの、どこも見ていないような眼が浮かんだ。
「そういえば彼女の表情は、動かないんですか? 表情がわからないから、どんな服が似合うか想像がつきませんね。むしろTFAに訊いてみるとか」
「それではサプライズにならないだろう。表情筋の機構なら入っているが。変だったかね?」
サプライズ。サプライズか。考えてもみなかった。でもあの子が、驚くなんてことがあるんだろうか。まったく想像がつかない。
「おかしいというか……なんでしょうか。すごくよくできてるんですけど、彼女の瞳が輝くところを想像できないんです。何ていうんでしたっけ、こういうの――」
思い出す。
僕は彼女を人間だと思った。
しかし彼女は目を伏せたまま、まるで僕がそう思うことを拒否しているようだった。
隔絶。拒絶。
「――『不気味の谷』と言いますか」
その言葉を口にした途端、所長の表情が激しく曇った。
それはもう、まるで歩いていて蚊柱に突っ込んだみたいに。
「す、すみません。彼女が不気味だと言いたいんじゃないんです。全然逆です。ただそうじゃなくて、何かこう足りないというか」
慌てて言い添えたものの、彼の表情は戻らない。それどころか、弁明すればするほどその目に怒りの炎が灯るような。
「もうよい。私はね……『不気味の谷』という言葉が嫌いだ。この言葉は科学的じゃない」
そうなんだっけ? 元々ロボット工学者が言い出したことだと記憶していたけれど。
「バズワードに過ぎん。ロボットを人間に近づけてゆくと、不気味に感じる谷があるなどと言うが、それが谷である保証はない。ただの官能――個人の感想だ。更に一般化できるほどのサンプルもない。単にそれを作った人間の技術に不足があっただけだと私は考える。ならばそう言えばよろしい。『ここが人間とは思えない』と。その方が明らかに貢献になる。なぜそうしない? 官能の闇に逃げ込むことはないのだ」
なんだろう、すっかり打ち解けたと思ったのに。
「金はかかっているがなんとなく不出来なものをこき下ろすのに便利だから、人は『不気味の谷だ』などと、根拠薄弱で定義不明の言説を軽々しく、さからしく言うのだ。君もその手合いなのだろうか」
「め、滅相もない。僕はただ」
「ならば聞こう。TIFAに何が足りない、もしくは過剰と考えるのか」
僕は思わず助けを求めて茨さんと千束さんを見たが、二人とも触らぬ神に祟りなしといった顔で別の方向を見ていた。
「――その、人と話すときは、目を見て話すよう教えるべきかと」
なるほど、と、半ば身を乗り出して掴みかかってくる勢いだった所長が、ふと糸の切れた凧のようにソファに墜落した。
「……やはりそうか。助言に感謝する」
投げやりに突き出された手を握って、僕は所長と握手した。
その日はそれで解散になった。
前室から出ると、直線的で何もない廊下だ。
滅茶苦茶肩が凝っていることに気付く。偽パイの重みもあるが、やはりあの所長と長時間話すことは――疲れる。
そんな僕を、さも愉快そうに茨さんが見ていた。
「やはり私の見込んだ通り、君は大いに役に立つね」
僕、何か役に立ったっけ。
「今後、奥村氏と話すときは『不気味の谷』とは決して言わないよう、留意するよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます