ツアーのしおり:研究所での過ごし方について
概ね真鍋さんの言葉通り、先ほどの騒ぎから山道をゆっくり走ること三十分――両脇に迫る山肌が途切れてススキの広がる高原のような場所に出た。冬枯れのススキが目立って寒々しい中に、緑色が芽吹き始めてもいる。
近くには大きな沼地だ。曇天を反射した、鉄のような輝き。
それを背負うようにして、その建物、いや建物群が現れた。
メインの広い建物は二階建てで、奥の沼地側にはホテルのような三階建ての建物と密接して建っている。やや離れたところには窓のない大きめのビルが、厳重なフェンスで仕切られていた。
こんな山奥にあるのだからどれだけ巨大な施設かと思っていたけれど、着いてみると意外にこじんまりしている。ただそれらをひとつの敷地に収める大きなフェンスは圧巻だ。
WiFiがある――と思うだけで久々に呼吸ができる気がした。
バスはそのフェンスの間の門からアスファルト敷きの大きな駐車場へ入り、停車した。駐車場のすぐ隣には、倉庫のような窓のない二階建てコンクリートの小ぶりの建物があった。
「皆様。長旅お疲れさまでした。研究所に到着いたしました。降車後、正面玄関の前にてセキュリティチェックがございますので――」
チェックで弾かれた物品は駐車場脇の窓のない建物で保管されること、
バスの中で立ち上がった高い視点からでも柵は尚高い。
しかしその柵の鉄柵ゲートの向こうに、正面玄関らしきガラスの自動ドアが見える。
その前に広がる広々としたアプローチは、空港の保安検査場そっくりだった。
そこでさっき電波に文句を言っていた堂山さんが再び「セキュリティチェックぅ?」と声を上げた。
「それは持ち物検査のことだろ! 俺達は刑務所にでも入れられるのか? 人権侵害だ!」
堂山さんはまた立ちあがり、敢えて怒りの同調を誘うような言葉のチョイスで喚く。そして周囲を見渡したが――周りは皆、冷静そのものだ。顔が真っ赤なのは堂山さんだけ。
手荷物検査なんて、ちょっとしたアミューズメント施設やイベントでも普通に行われているのだし、目くじらを立てるようなことでもない。
真鍋さんは冷静に、同意書の項目にもあったことを伝えたが……。
「そんなもの、根拠はスパイ防止法の戦時特措条項だろう⁉ 戦争は終わったんだぞ!」
僕だって持ち物を調べられたくはないけれど、人の集まる場所はこれが当たり前だ。事実、堂山さん以外は皆黙って、いそいそと手荷物をまとめている。
おそらく全員が、『この人ちょっと面倒だな』と思っているに違いない。
真鍋さんはそういうわけにはいかないのがお気の毒。
「改めて申し上げますと、本研究所はその高い機密特性から、危険物、爆発物、煙幕やサージを発生させるものは勿論、記録や送受信に関わる電子機器の持ち込みも制限させていただいております。詳細はお手元の書面をご覧ください。尚、皆様の登録済みのスマートフォンはお持ちになられますのでご心配には及びません。万一の場合はご理解・ご協力のほど何卒よろしくお願い申し上げます」
「登録――? した覚えはないぞ」
「書面にてご案内致しました通り、こちらでご登録させてただいております」
僕は招待状の二枚目にあった同意書の条文を思い出す。
スマートフォン等携帯電話類、スマートウォッチ――ともかく携帯電話網で通信可能なものは、ひとりひとつだけ持ち込み可とあった。リモートセンシングできるIDなど国内法の要求を完全に満たすものに限られる。これはスマートウォッチでもPCでもタブレットでも、ひとりひとつしか契約も所有もできないためだ。ID非対応のパソコン、カメラ、レコーダなどの記録機器は不可。
僕らの情報を知っているNNNであればIDを登録するくらいのことは法的にも問題ない。ID自体は電話番号などと同様、公開情報なのだ。
勿論他の施設でも似た運用はあって、スマホをリーダーに翳すと、自動的に登録される。
「スマホの持ち込みを監視するとは、〝ジオフェンス〟か⁉ ジオフェンス令状は2023年にアメリカで違憲判決がでている!」
「堂山様、これはそのジオフェンス令状と同じものではございません。皆様のプライバシーは安全であるように最大限の配慮をさせていただいております」
スマホのIDを登録するということは、まぁ――そういうことだ。
敷地を覆う長い長いフェンス。それとは別に、俗に〝ジオフェンス〟と呼ばれる、仮想の囲いがある。
劇場やテーマパーク、カンファレンス会場でも、人の集まるところにはどこにでもそれがあって、スマホの出入りを監視してる。つまり僕ら自身の出入りを監視するのと同義だが、これを問題視する人はもうあまりいない。
かつての東京オリンピックでは、テロ対策として監視カメラとAIを使い、様子のおかしな人物を自動的に見つけるという頭のおかしな〝対策〟を大真面目に検討したらしいけれど、そんなものに比べればスマホの出入りを見張るくらい、どうってことはないじゃないか。
そこへ、背の高い女性が無遠慮に割って入った。
「ねぇ。中の写真はSNSにあげられないの?」
彼女の質問に、真鍋さんは申し訳なさそうに首を振り、「公開に関しましても、何卒ご理解賜りますよう」。
そこでバスのドアが開いたので、真鍋さんは率先して外へ向かう。
「皆様、バスはこちらで引き返しますので、お忘れ物などなきようお手荷物をご確認の上、あちらのゲートの前でお待ちください」
堂山さんは派手に溜息を吐いて、手荷物をまとめ始める。他の人々は粛々と真鍋さんに続いた。
僕は大荷物を抱え、茨さんに一礼して動き出した。
外に出ると、酷く寒かった。空にも冬みたいな重たい雲が広がっている。スタジャンの前を閉めてもスカートの下は裸も同然で、立っていても氷の上に座っているような気分だ。
「うわぁ、寒い」
思わずそう言うと、後ろに続いて下りてきた茨さんが「本当に寒そうだね」と笑う。
「夏みたいな陽気が続いたと思えば――今朝は東京もかなり寒かった。ここは10℃以下かな」
ですねえ、と僕は
既にアンバサダーの殆どはゲート前に集合し、寒そうにしていた。そのうちの一人、千束さんが辺りをきょろきょろしながら誰にともなく言う。
「予定は二泊のはずじゃないの。こんなところ、近くにホテルもなさそうだけど?」
不満とも抗議ともつかない口調だ。
「ご心配なく。当研究所は、学会などの来客にも対応するため宿泊棟がございます」
「そりゃ結構だ。気が利くねぇ。ちょいと心配だったんだ」
どうやらただの質問だったらしい。千束さんは猫背の撫で肩で、世の中の全てに絶望したかのような風貌をしているせいか口から出るもの全て不満のように感じる。
最後に堂山さんが降車して、アンバサダー八名が揃った。車内チェックを終えた運転手からの合図を受け、真鍋さんは全員に向き直る。
「お待たせいたしました。冷えますので、先頭から順にお入りください」
透明な三角屋根の下に広がるアプローチ全体は、一番手前の校門を思わせる鉄柵ゲート、中央のセキュリティゲート、一番奥の自動ドアまで続く。その先がロビーだ。
さっきネットで軽く見た通り、二階建てのその建物は大きなガラスをふんだんに使い、開放的で有機的な印象がある。でもよくみると縦にストンとすっきりした構造にエントランスホールをくっつけた感じで、シンプルな洋館っぽい。ここらはかなり雪が降るので、凝った形状にするとそこに雪が積もって危ないのだろう。
先頭の、大きなサックを背負った江口さんが鉄柵ゲートに入って行った。
中の広い保安検査場には、窓口のついた大きなセキュリティゲートがあり、貨物用と人間用に区分けされている。大部分を占めるのは貨物用で、残る窓口側の部分が人間用だ。
塀の上に設置された防犯カメラの集合体が、塀の中も外もを見張っている。それが死角なくアプローチに配置されており、かなりの厳重さだ。
江口さんが
彼の通過後、真鍋さんが小柄な女性に「阿部様、どうぞ」と促す。
阿部さんは地面につきそうな長いスカートを、小さなカートのタイヤに何度か絡ませながら中へ。短く切りそろえた前髪。その頭を窓口に向けて何度もお辞儀させて奥へと進む。
次に待っていたのは、さっき『邪魔』と言ってきた長身の女性だ。バスでの一件は僕が悪いのだけれど、それにしたって感じはよくない。
「毒島様、どうぞこちらへ」
毒島さんが進み出る。
彼女は長身の上かなり痩せており、エコロジーファッションに身を包んでいた。確か、イネ科の植物素材で出来た〝食べられる服〟。言われてみればあの茶色のスカートも切り干し大根みたい。年齢不詳だけれど、おそらく三十代だろう。心なしか歩き方もふらふらしている。小さくまとまった荷物は、旅慣れているというよりそれ以上持てないのではないかと思わせた。
お荷物お持ちしますか? と真鍋さんが手を差し伸べると、毒島さんは無言でその手を振り払った。――感じ悪い。堂山さんや千束さんとはまた違った感じの悪さだ。彼女は窓口を一
「お次お待ちの、千束様、どうぞ中へお入りください」
千束さんは面倒くさそうにゲートを潜る。
しかし、中央ゲートでブザーが鳴った。係員が出てきて、何やら揉めている。
「あなたもう一台スマホ持ってるでしょう? ここで出してください」
係員がかなり事務的に、有無を言わさぬ調子で手を出す。
千束さんはチッと舌打ちしたように見えた。そして内ポケットから北欧風のハーフサイズのスマホを取りだす。
これがジオフェンスの効能だ。
固有ID――スマホには書き換え不可能な個体識別可能なIDが内蔵されている。事前の同意書類にあったようにこれが自動で登録され、未登録・未承認のものは持ち込めない。ここのジオフェンスはGPSでなく、この固有IDを利用しているようだ。
それにしても、今は契約台数も厳しく制限されているのに、どうしてこの人は複数のスマホを持っているんだろう?
「なぁ~、別にいいでしょ? 会社に持たされてるだけなんだ――これがないと勤怠システムを使えない――バッテリも切れてるし――いや有給が――欠勤はまずくって」
千束さんは抵抗している。
なるほど、会社名義のスマホなのか。
『スマホはお一人様一台まで』と同意書にも記載されていた。名義が違うは言い訳にならない。
真鍋さんが説得に加わる。勿論、係員のフォローだ。
まったく、一刻も早く暖房の効いた屋内に入りたいのに。
「あの野郎、抜け駆けしようとしやがって」と、怒りの言葉を吐き出したのは堂山さんだ。
「おい、千束! さっさとしろ!」
彼はそう声を荒げながら列の前方へ出てきたが、列先頭で待機中の目のぎょろっとした片腕のおじいさんに「順番を抜かすなよ」と
このおじいさんは誰だっけ? と思っていると、彼は堂山さんの顔を見上げて何かを思い出したような表情を浮かべた。
「あんたさっき、ジオなんとかって言ってたが、何のことだ」
「ジオフェンスのことか? 知らんのか。あれだけ大問題になったというのに。俺達のプライバシーが横流しされていたんだ! ロケなんとかって会社に!」
そういきり立つ堂山さんの言葉に、茨さんが振り返った――「それは少し違います」。
「それに――そんなに脅かすような言い方は如何なものでしょう」
堂山さんは、何だあんた、とでも言いたそうな顔で彼女を見た。
そして何かに気づき、「あんた、見た顔だな――確かAI――」。
堂山さんに変わって彼女は説明を始める。
「まずジオフェンス令状は、かつてアメリカで行われていた捜査手法です。事件現場を中心に、スマートフォンなどのGPS記録に基づく仮想的なフェンスを設けるものです。そこにあったスマホの情報を、携帯会社に開示させる令状、という性質のものですね。転じて、昨今ではある場所に出入りするスマホを監視することをジオフェンスと呼びます」
「そうだよ。違わねえだろうが」
「ジオフェンス令状は、仰った通り違憲判決がでていますが、現在日本で運用されているジオフェンスは合法です。無論、過度な追跡をしないことが条件ですが。まぁ、ジオフェンス令状と現在のジオフェンスは別のことだということです」
「だからその法律が、戦時のどさくさに紛れて飲まされたものだと言っているんだよ!」
「それはまた別のレイヤの議論ですね――おっと、済んだようですよ」
茨さんがそう指差すと同時に、真鍋さんが声を上げる。
「お待たせして申し訳ありません! 秦様、どうぞお入りください!」
没収した携帯を係員に渡して、彼女はこちらを手招きしていた。
千束さんは結局、社用携帯を没収されていた。それで別に抗議するでもなく、ただ撫で肩を一段落としてすごすごとゲートを潜る。
まぁ、ここから先はそのジオフェンスの中だということだ。良かれ悪しかれ、そこに疑問を抱いていたらこの先へは進めない。
「やっとか」とぼやいて、先頭で待っていたぎょろ目で片腕の老人が動く。せかせかした素早い動きだ。年齢は六十歳過ぎくらいに見えたけれど、動きだけならさっきの毒島さんより若々しい。
この人は秦さん――彼は、それでゲートが反応するのかというようなスピードでゲートを通り抜けた。ランプはグリーンだったが、真鍋さんが彼を呼び止める
速過ぎたのかと思いきや――真鍋さんは慌ててゲートを潜って秦さんに追いつくと、小さいが分厚い乳白色の機械を秦さんに手渡した。
「――なんだこりゃ? 昔のポケベルか? いいよ、おれは。こういう機械は持ち歩きたくないんだ」
「研究所内ではこれがお部屋の鍵になります。どうぞ肌身離さずお持ちください」
研究所内では全面的にスマートロックを採用しており――とは、書面でも説明されていたことだ。
一方で秦さんはスマホの類を一切持ち歩かない主義のようで、またしても揉めている。
「どうせ金とるんだろ? 一日いくらで……」
「これを含め、費用は弊社負担です。一銭たりともお受けしておりません」
不承不承、それを受け取って秦さんは奥へと消えた。
それにしても真鍋さんの心労が
「茨様、どうぞお入りください」
茨さんはさすがにシュッとした身の
まるで撮影中の女優みたいに完璧な動きだ。撮影といえば、見渡せばまぁ防犯カメラは滅茶苦茶ある。振り返れば駐車場の電柱や、横の二階建てビルの窓のない壁面にも。
「不動様、どうぞ」
前があまりにも完璧過ぎてこっちの調子が狂う――僕はぎこちない動きで、挙動不審にゲートへ。頭の上でランプが緑にならないんじゃないかと不安になって、その場で少し硬直してしまう。
「――どうぞ、不動様。問題ございませんよ。お通りください」
見上げればランプはグリーンだ。右手の窓口を見ると、こちら向きのディスプレイにたった二行だけ表示された〝国内製スマートフォン (REGISTERED)〟――当たり前のように〝
ふと視線を上げると、にこにこと僕を眺める日焼けした係員と目が合う。
僕はスカートの裾を押さえて歩き出し、奥の自動ドアを通った。
***
期待通り、施設内は暖房が効いて温かった。
黒い皮張りのチェアやソファが何脚も用意された円形のロビーで、先にセキュリティチェックをパスした人たちはもう座って
「馨ちゃん! WiFiあるよ! これ、ここにパスワードあるから」
江口さんが手を挙げてこちらを呼ぶ。
WiFiがあるのはありがたいけれど、あるとわかれば気が楽だ。
それに茨さんと話したい――。
僕は曖昧に笑って江口さんをやり過ごし、茨さんのほうに歩み寄る。
「茨さん、実はファンなんです。ご活躍拝見してます。ネットでも、テレビとかでも」
茨さんは、慣れた様子で僕をちらりと見た。
「ありがとう。WiFiはいいのかい、不動君。ああ、失礼、不動さんのほうが適切かな」
「どっちでも構いません。見ての通りの恰好ですが、生来の性は男ですし」
「トランスジェンダー……というわけではないのかな。クロスドレッサー? 君の場合はどれになるんだい」
「うーん……僕の場合は、どれでもいいんです。僕自身は、ピンクのカワイイ小物を持つようになって、それに合わせてたらいつの間にかこうなって……」
なるほどね、と茨さんは納得したように笑った。
「羨ましいね。私も、車に合わせてコートや靴を選ぶと、よく男物だと止められるよ」
そうなんですよ! と僕は頷く。
さすがというべきだろうか。
なぜなら彼女の職業は――。
「堂山さんが来たようだよ。これでようやく全員揃う」
彼女はそう言って立ち上がる。
せっかく話が弾みそうだったのに、と頭の片隅では思ったけれど、やはり周囲に目を向けると落ち着く。
すぐさま自動ドアが開いて、外の冷たい空気が流れ込んできた。僕は思わずスカートの裾を抑える。
ガラガラガラ……と表の鉄製ゲートの車輪が転がる音。駐車場との仕切りが閉じたのだ。
「――訴えてやるからな!」と怒鳴りながら、堂山さんが入ってきた。いかついガタイの両脇を係員二人に固められている。案の定、相当もめたようだ。
最後に真鍋さんが入ってきて、全員がロビーに揃った。アンバサダーらに向き直り、セキュリティチェックへの協力を丁寧に労った後、直近の予定を確認する。
「この後はお部屋にご案内し、午後二時から発表会ホールにて説明会を開催いたします。それまでごゆっくりとお過ごしください。ご滞在の間は私が皆様のアテンドを担当いたしますので、何なりとお申し付けください。皆様のお部屋はあちら奥の宿泊棟にございます。お部屋の鍵は、お手持ちのスマートフォンをご利用ください」
自分のスマホが自室の鍵になるわけだ。
江口さんが「スマートロックね」と頷く。今どきは何も珍しくない仕組みだ。
「――スマートフォンをお持ちにならない方は、お貸し致した代替機器をご利用ください」と真鍋さんが補足する。
秦さんは白い小型の
「……こいつが鍵になるのかい? ポケベルみてえだが。次から次へと、ジオなんちゃらの次はスマートロックか。聞いたこたあるが、おれん家にはないな。どういう仕組みなんだい」
「おじさん、昭和時代から来た人?」と江口さんが素で驚きつつ、親切に説明する。
「固有IDチップっていうのが、この中に入ってて……SIMカードじゃなくて。アンテナもね。で、外から信号を送ると、発電してIDを返す。それで認証するわけ」
「はぁ? この中で発電? ID? 認証?」
さっきも千束さんが引っかかっていた固有IDは、機器ごとに国によって発番されスマホ本体に内蔵される。SIMのように入れ替えはできない。これはマイナンバーを介して、個人に紐づいている。国は、僕らが所有する通信機器を把握しているわけだ。
つまり、僕らスマホなどの通信機器を持つ個人は、このIDによって識別――同定される。個人情報に紐づいているという意味では、茨さんの話にあったかつての『広告識別子』よりも遥かに強力だ。
もしこれを読み取ることができたなら、The Final Answerは容易に僕の質問に答えられただろう――そう考えた。
先ほど堂山さんが『戦時のどくさくに紛れて飲まされた法律』と口走っていたように、こうした仕組みが法制化されたのには勿論、戦争の影がある。
それまで〝スパイ天国〟とさえ言われた本邦では、スマホを持つ個人がどこの何者なのか追跡不可能な状態にあった。契約者の実在性が不明だったり身分証が偽造だったり、果ては身分そのものが偽造だったり。
それでは困ると同盟国からの圧力があり、かなり大上段に構えた、極端な方法が採用された――ということらしい。
基本となる個人情報は国が管理し、スマホなど通信機器の回線契約も国が仲介する。ここで僕らが持てるスマホは一台のみと決められた。その代わり水のように安く誰でも持てる。
そのはずだった。
まぁこうした法律や運用を受け入れない人々はどこにでもいるとはいえ――秦さんのようにスマホを持ってないのは例外中の例外だ。
この人は一体どうやって生活しているのだろう?
江口さんは彼のごついゲーミングスマホを取り出し、高らかに「そう、鍵も買い物もこれひとつ」と言う。まるで彼の手柄みたいに。
「おじさんもピッてやって電車乗るでしょ。あれと大体は同じ仕組み。便利でしょ?」
このIDを読み取るということは僕らが監視されているという意味にもなる。
さっき堂山さんが噛みついていたのはこの点なのだろうけれど、スパイ対策の一環であり、プライバシー保護と国防の戦いの結果――皆が納得した折衝点とも言えるだろう。
強固なIDでもって作られたジオフェンスの中にいるのだから、堂山さんのようにヒステリックになる人の気持ちも解らないわけじゃないけれど。
「おれは切符買うよ。便利か知らんが、監視されてるみてえで気に入らねえなぁ」
監視されてるんですよ、と江口さんは平然と言い切る。
明らかなことであっても、敢えて口に出してしまうとショックがあるものだ。
ようやく周囲の冷たい視線に気づいたものか、誰かが意見をするよりも早く彼は説明を加える。
「The Final Answerを試したならわかるでしょ? どんな企業もプライバシーを集めたがるんだから。そういうものは、国に管理されたほうがいいでしょ。ギブ&テイク。何かを得るには何かを手放さなきゃ。でしょ? ヒヒッ」
彼はそう言うのには、The Final Answerとは企業が集めたプライバシーを片っ端から学習したAIだという前提があるようだ。
おそらく、そうなのだろう。
でも本当にそれだけなのだろうか?
「国なんてものが信用できるもんかい。大体、気色悪いじゃないかよ。おれのプライバシーに価値なんかねえと思うが、ゴミ箱を覗かれてるみてえでよ」
「じゃあ大企業に。そのほうが便利になるんですから。僕らが何か買ったり、見たりする度に少しずつそういう嗜好の情報が溜まって……超便利。企業は、僕より僕のことを解ってて――カウンセリングみたいなもんですよ。ヒヒッ」
江口さんは悪びれた様子もなく、またしても平然とそう言ってのけた。
勿論――プライバシーは大事だ。
学校でもそう習うわけだし、それがどうでもいいなんて大きな声で言えることじゃない。
けれど、どこかで僕は堂山さんや秦さんのようには乗れないのだ。
見張れていることにはむしろ安心感を覚える。一種のガードレール、間違いを犯さないための防護ネットとでも言おうか。
それとも、江口さんの言うように、僕のことをよく知っている人が他にいるという――〝根拠〟のためなのだろうか。
世界の広さを知って自分のちっぽけさに打ちひしがれたとき僕が消えてしまわずに済むのは、案外そういう公権力や大企業の「お前のことを知っている」というメッセージなのかも知れない。
プライバシーは大事だ。プライバシーが暴かれることで、不利益を被ってはいけない。
大事なのは干渉を受けないことのほうだと思う。見張られていること自体には、むしろ助けられているはずだ。
安全な社会というのは、そうしてできている。
ケッ、と秦さんは毒づく。
「精神科か。まるで敗北主義者の御高説だな。そんな何もかもそんな電話なんかに集めて、どうかしてるよ」
貴様守るものはないのか、とでもな言いように、江口さんは苦笑しつつ「戦争は終わったんですよ」。
そう、戦争は終わったんですよ、おじいちゃん。
でも――なるほど、『敗北主義者』か、とその言葉は僕の胃にすっきりと収まった。まさに、これ以上ないくらい僕にぴったりの言葉じゃないか。
「スマホとはいうけどもう電話っていうよりまぁ実質、エージェントなわけで」
「そんなもんなくたってやってける。つまらねえなあ。おれたちには、秘密ひとつ持てねえのか」
秘密ねえ、とそれまで同様、小馬鹿にした感じで江口さんが嗤う。『これ以上話しても無駄』という調子だ。
けれど
「あれもこれも便利になって秘密が無ェ、謎が無ェってのは――味気ねえよな。ピッてやって、それが周りにもまるわかりっていうんじゃよ。悪党が密かに犯行現場に鍵をかける。刑事が丹念に調べてトリックを暴く――もうそういうのはねえのか」
おそらくミステリのような物語のことを言っているのだろう。秦さんの言葉は、熱弁とまではいかないまでも、愚痴というには熱っぽかった。
そのあまりにも熱っぽい愚痴に、江口さんは両手を広げて「昔の話ですよね」とせせら笑い、「ってか元からフィクションだから」。
まぁ、かつてはあったのだろう。そういう刑事ドラマのような世界が。
でもジオフェンス令状のような捜査手法がでてきて、そういうものはなくなった。ある閉じた領域へのスマホの出入りを監視する技術全般、と考えればよいのだろうか。先ほどの話ではアメリカで一度規制されたとは聞くが結局、戦争を経て力を持ったのはこうした〝プライバシーの侵害〟だ。
敢えてミステリ風に言うなら、僕らは今ジオフェンスというクローズドサークルの中、となるのだろう。
秦さんは我に返った様子で咳払いを一つ。
「――そもそも対応してないスマホはどうするんだ」
「そんなのもうないよ。通信機器には対応義務があるし。ヒヒッ」
真鍋さんが頷き、口を挟んだ。
「技術的には、江口様のご説明の通りと存じます」
『技術的には』と但し書きがついたのは、プライバシーに関する彼の考えを肯定するわけではないが、ということだろう。
「詳細につきましては私も存じ上げませんが少々補足いたしますと、機器それぞれにある固有のIDをそのままやり取りするわけではございません。IDのほうはお一人様につきひとつまでを私どもで登録させていただきました。しかしそれをそのまま鍵として用いるわけではなく、IDごとに作られた三日間だけ有効な証明書を、正面ゲートを通った際に皆様のスマートフォンとの間で生成・インストールございます。この証明書とスマホの正しい組み合わせを鍵として利用するそうです」
江口さんも秦さんも極端なことを言っていたが――プライバシーを重視する人々にとって、このIDの運用は常に監視の対象だ。その上で真鍋さんは、実際には双方に配慮した仕組みが使われていることを示す。
「ですので、皆様のプライバシーは安全です。私どもは皆様のプライバシーを直接収集することはございませんし、勿論登録されたIDを追跡することもございません。これは法律で禁じられておりますので」
秦さんは「便利なことは解ったが」と言って、先ほど受け取ったデバイスを掲げる。小さな液晶のついた、商品のタグを分厚くしたような白い機器だ。
「失くしたら困るだろ。合鍵をくれるのか?」
「いえ。発行が厳重に管理されているものでして、本社で
要は、一人ひとりが手持ちのスマホは滞在中の鍵になり、スペアはない。追跡もできないから失くなったら目視で探すしかない。失くして困るのは自分だけなんだから自分で気を付けろということだ。
「只今おられますのが正面ロビー、閉鎖中ですので受付は無人となっております。スタッフも、私と責任者の他は住み込みの研究員に限られておりまして……」
そこで真鍋さんは腕時計をちらりと見て言葉を区切った。
「皆様はThe Final Answerと呼称致しますサービスと、我々の技術の結晶のアンバサダーにご就任なさいました。改めまして、おめでとうございます。ツアーを開始致しましょう。新しい技術は、常に人々の疑問に晒されます。それは残念なことではなく、確かな未来へ一歩踏み出すための切符であると私共は考えます。皆様の疑問にお答えするべく、主要研究者は常時待機しております。どうか、この滞在が皆様と多くの人々にとりまして、実りの多き未来へと続きますよう――」
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