〝お化けがでるらしいよ〟

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〝お化けがでるらしいよ〟

```


 今まさに向かっている研究所について、ネットで知った噂だ。

 車内のほうは案の定、静かなものだった。誰も喋らず何も尋ねずでお通夜みたい。そこで僕は、目的地について少し調べていたわけだ。

 NNN白馬研究所は山奥の高台にある小さな湖というか、沼のほとりにある。例年からの暖冬傾向のため、今年も付近のスキー場は4月を待たず閉鎖されているし、一番近くの観光地は30キロ離れた温泉。他には何もない。本当に何もない。人家すらも付近にはない。

 研究所のキレイなWebサイトには、先進的で自然と調和した新時代の科学のビジョンが溢れている。眩しいほどの白壁。自然光をふんだんに取り入れた開放的なロビー。

 そして最新鋭の設備と完璧なセキュリティ。広大な敷地は無人監視システムで二十四時間警備され、施設は最先端で安全な技術のスマートセキュリティにより、従業員のプライバシーを守りつつ管理されている。

 ただ、SNSの口コミを見ると少しばかり様子が違う。例えば『地球環境を憂う会』というNPOは、AIのもたらす環境破壊について名指しでNNNの研究機関を非難している。

 そういった話をつらつら眺めて――「え?」と指を止めた。

 それが、研究所にお化けがでるという情報だったわけだ。


```

〝湖のところに、白いおばけがでる〟

〝怪しい研究所の窓から、少女の幽霊が覗いている〟

〝駐車場で踊る白い人影をみた。昔強盗に殺された少女の霊らしい〟

〝かちかち音を出しながら、女が追いかけてくる〟

```


 ……なんだこれ。幽霊騒動? しかも結構な件数。

 最新鋭の研究所に怪談なんて。

 怪談以外だと今度はゴシック・ホラーだ。

〝アインシュタインやチューリングの脳を培養している〟――おいおい。

〝狂った博士が死人を生き返らせる研究をしている〟――僕は小さく笑ってしまった。講義中に奇声を上げてどこかへ走って行ってしまう、いきなり身の上話を始めて泣き出す、学生のふりをして溶け込み怪情報を広める等々、狂った博士なら助教兼任のポスドクに一杯いるけど、NNNはそんな研究に予算をくれないだろう。

 ――しょうもな。

 僕はSNSを閉じ、右の空席の向こう、窓の外を流れる景色に目を向けた。

 高速道路を降りて、バスは山間に架かる高架上の道路の昇り勾配をゆっくりと上っていた。いよいよ山の中へと入るのだろう。

 山奥の研究所か――。

 まさか脳を培養したりはしてないのだろうけど。

 と、ここまで敢えて左側を見ないのはそこに茨さんが座っているからだ。成り行きで隣になってしまったけれど、何を話せばよいやら。

(茨悠遠――と)

 検索。

 尤もその必要はなかった。僕は彼女のファンと言ってもいいだろう。情報は頭に入っている。彼女の出るテレビ番組だけは、唯一リアルタイムでチェックしている。

 検索結果は、NNNの研究所よりも多かった。Webpediaを筆頭に、番組の情報、そして論文。

 東大在学中にテック企業を数社起業、そして突然の売却、謎の転身。

 彼女の発表した論文も片っ端から読んだ――と言いたいところだが、生憎と僕にはさっぱりその価値がわからず、ほとんどは途中で寝てしまった。

 ほんの少数、僕と専門が近い論文だけは頑張って読もうとしたけれど、それすら難しい。

〝計算機科学〟――それは本来、彼女と僕に共通の話題になったはず。

 ところがどうしたことが、ひとつとして僕にはついていけなかったのだ。

 例えば〝侵入的型推論と定理証明系による自動証明〟――意味は解らないが、言葉だけならまあまあ聞いたことがあるレベルだ。内容は皆目解らないので詳しい友人に聞いたところ易しめに説明してくれたが、その説明も解らなかった。

 そうした論文は、まず〝プログラムが証明である〟という前提で書かれている。僕にはまずこの意味が解らない。

 コンピュータの振る舞いは、プログラミング言語を使って指示することができる。

 これがプログラムだ。

 プログラムは、式典や催しなどの式次第プログラムと同じく、前もって組み上げられた様式であって、基本的には頭から順に実行されてゆく。これをプログラミング言語と呼ばれるような専用の言語を用いて書くのだけれど、これを直接コンピュータが理解できるわけではない。コンピュータが理解できる命令は、数種から数十種類程度のシンプルな命令で、『数をどこどこへ読み書きする』、『比較する』、『比較結果に応じて実行する場所を変える』といったものに限られている。僕らが散漫に書いたは、よりコンピュータ向けの命令列に変換して実行されるわけだ。

 だからプログラミング言語とは、人間と機械の双方に理解しやすい橋渡しインターフェイスであるとも言えるだろう。

 人間から見ると英語や、或いは数式にをしている。

 そうした言語にはたくさんの種類があり文法も思想も異なる。僕も何度も書いたけれど、大抵は英語っぽい文法で、変数や関数といった数学っぽい隠喩メタファーを駆使、型やクラスというパーツを使ったり作ったりして組み上げてゆく。文法などいくつか取っつきにくいお約束はあれど、それも大体は同じなので一つ覚えれば他もそれほど苦にはならない。僕はプログラムを書くことが、割と好きなのだ。

 こうしたプログラミング言語も、突き詰めてゆけば皆、〝証明〟であるらしいのだ。先生によると――〝命題〟を型として与えるとき、それらはどうしたこうした、それを自動でうんぬんかんぬん。ここは何度聞いてもよく解らなかった。

 そこには、僕の好きな、何なら少し得意だとさえ思っていたプログラミングの姿は影も形もなく、少なからずショックを受けた。

 僕にとってのプログラムとは、何でも自由に書ける、文学のようなものだと思っていたから。

 文学だと思っていたら数学だと言われ、それも証明であって、更にプログラム自体も証明できるはずと言われたら訳が分からない。

 それを書いた本人が隣りにいる。

 質問して、詳しく聞いてみたい気がした。

 それもできる限り、賢そうな質問だ。『ほう、こいつは解ってるな』と一目置かれるような痺れるやつ。

 それが思いつかない。今思いつかなきゃ、この先彼女と直接話す機会が訪れるのかなんて判らないじゃないか。

 いや、何も不得意な分野で話す必要はないんだ、と思い直す。

 そもそも――僕らがここにいる理由は、たったひとつ。紛れもなく共通の話題じゃないか。

 ――The Final Answerだ。


「茨さんは――あのThe Final Answerについてどうお考えですか?」


 唐突に、口を衝いて出てきた質問であったけれど、茨さんはちらりとこちらを見て、「具体的なことは何も」と首を横に振った。

 フラットだ。気負うような印象はない。


「とても性能が良く、驚いた、とだけ」


 そうですよね! と僕は思わず身を乗り出す。

 彼女が驚くくらいなのだ。僕が椅子から転げ落ちておかしいことは何もない。


「AIって人間みたいに話すけれど、それほど賢いわけじゃないじゃないですか。でも、絶対答えられないと思って書いた質問に答えてくれて――」


「ああ、私もそう思って試したけれど、かなり精度の高い結果を出したよ」


「あんなのってあり得るんですか。その、例えばですけど、個人情報とか……ズバリ答えてくれるようなAIが作れると、そう思いますか」


『例えば』、に強いアクセントを置いてそう訊ねる。

 ふむ、と彼女は少し窓の外を見た。


「そこを疑問に思うということは、君はAIについてある程度詳しいようだね。AIなど、ここ数年ですっかり下火になったと思っていたが」


「く、詳しいかと言われると、え、ええ、まあ、〝生成AI〟についてだけは一通り未満くらいには」


 高校でもAIの授業がある。研究テーマとしてはひと頃より下火になったとは言われるものの、充分社会には浸透しているのだ。

 進歩が緩やかになっても、GPτを使う人はいる。おばあちゃんgLAMMAを使った安価なサービスも、気が付かないところで実は使われていたりもする。


「確かに、生成AIは賢さと無関係と考えて良いね。しかし、勿論不可能とは言えない」


 AIは、学習済みのデータから新しい答えを作り出す。

 そのプロセスのことを〝推論〟と呼ぶ。けれどこれは、謂わば学習したデータの中間をとりながらもっともらしくなるような中間値を見つけ出すということに過ぎない。

 つまり、学習済みのデータから作り出せる範囲でしか答えることはできないわけだ。

 未知の個人名といったものは、それでは答えられない。

 AIが知らないはずの僕について答えたなら、それはただ不気味だという以上に――謎だ。

 逆に言えば、学習さえしてしまえばそれっぽい答えを出すことは可能にも思える。


「――で、AIに詳しいはずの君は、ついひねくれて知識の有無を問題とするような質問をAIにしてしまったわけだ。それもうっかり個人情報を訊ね、見事にそれを看破され、あれやこれやも筒抜けなのかと、そう慌てている――と。そんなところかな」


 僕は苦笑する。苦笑するしかないじゃないか。


「仰る通りです。茨さんに隠し事はできませんね。ですがその……現実的に、どうなんでしょう? 僕のような名も無い人間の個人情報まで事前に学習することが可能なんでしょうか、ということです」


「〝どんな質問にもお答えします〟――だったね。あらゆることを事前に学習することは現実的じゃないさ。まず法的な問題。国が独占管理する個人情報を不法に貯蔵することは、行政の乗っ取りに等しい。そして技術的な問題もある。個人情報のように離散的で遷移的な情報を学習するのは、全く非効率だ。まとめると、リスクをとってやるようなことではないね」


『離散的』とはおそらく前後の語からの予測が困難だということだろう。

 例えば僕のアパートは『エスポワール藤田』だ。変な名前だと皆に言われるが、調べてみるとそれほどレアでもないらしい。

 1-2-3の後に突然フランス語が現れるかも知れない。フランス語の後に日本の個人名が現れるかも知れない。

 地名だってそうだ。青山と渋谷といえば東京都の後に来ると思うかも知れないが、どちらも日本中によくある地名らしい。山梨の住所に現れるかも知れず、青山と渋谷の間に新宿がある場所だってあるかも。

 山梨県山梨市新宿青山1-2-3エスポワール藤田A、とかそんな文字列が山程出来上がるわけだ。確かに既存のLLMでは扱いにくそうに思う。

『遷移的』というのは、人は引っ越したり所属が変わったりしてしまうということだろう。

 こういうことは本来、データベースで解決するべき問題だ。AIに学習させるようなことじゃない。

 聞けば聞くほど、個人情報を学習することは非現実的だということになるわけだが。


「では――個人情報を学習させることはないはず、と?」


「どうだろうね。これも飽くまで可能性で恐縮だけれど、全ての情報が見えるところにあれば話は変わってくる――」


 そう言いながら彼女は、メタリックシルバーの細身のスマホを取り出す。


「例えばこの、スマホだ。昔と違い、今個人はスマホをひとつしか所有できない。この中のIDを国が管理し、私達を識別している。即ち私達の情報の大部分が、これ一台に入っていると言えるだろう」


 ふむふむと僕は頷く。

 スマホは個人情報の塊だ。

 昔はどうだったか知らないが、少なくとも今はこの一台だけに、僕の全情報が入っている。

 それはエージェントであり、もはや僕の分身と言って差し支えないほどだ。


「ここでということは極めて重要だ。戦前はグーゴル社などの広告の販売企業が、閲覧者に固有のIDを付与し、識別していた。これは氏名やマイナンバーといった個人に結びつく情報では全くないが――ひとりひとりを見分けるものだった。グーゴルは、このIDがどこの誰かは気にせず、ただ何を買おうとしている人物か、という情報だけを蓄積していった。つまりペルソナだね」


 識別子IDによって、僕らは名前のない消費者として表される。

 ただ名前がないだけでそれは僕そっくりのカタチをして、僕とそっくりの趣味嗜好を持っている。

 しかし名前がない以上――これでは僕の質問には答えられないはず。


「2024年のロケーションデータセキュリティ社の事件を知っている?」


 十年近くも前の話だ。勿論、僕は知らない。


「ロケーションデータセキュリティという会社が、GPSのデータとこの広告IDを関連付けて、個人の相当に高度なプライバシーを売買していた。表向き捜査機関への提供用途と言いながら、在野の探偵にでも売っており問題になったんだ。例えばあるケースでは、自宅や買い物の履歴はおろか、裏口の位置、ベッドの位置までかなり正確な情報を売っていた」


 そんなに、と僕は驚く。


「IDと位置情報を組み合わせると、そこまでのことが解るんですか」


「『解る』――とは飽くまで主観だけれどね。組み合わせてそのように読める情報が売られていた、ということさ。こうした情報にアクセスする方法があるとすれば、個人情報を学習せずとも君の質問には答えられただろう」


「でも」と僕はやや慎重に口籠る。


「スマホにそれだけのプライバシーが、というのは解ります。でももし仮に、自分の情報なんか入ってない、大学の共用のコンピュータでThe Final Answerにアクセスしていたら、どうです? 大学のIPアドレスや、そうした情報からスマホの中身にたどり着けるものですか」


 茨さんは軽く笑って「『仮に』になっていないよ」。


「しかしそう――そこが難しいんだ。どこかに正解はあるとしよう。しかし無関係に思える別の情報から目的の情報にたどり着くことは、幾つもの谷に橋を渡すようなものさ。しかも苦労して見つけ出したものは、どれも正解に思える。仮説を立て、計画し、実行し、結果を検証し証明する。それを完全に自動で行うことは、AI。博士のように喋ることはできても、それだけだ。博士号の要件を満たすほどのAIを、人類は作れなかった」


 そう。

 僕もここまでは全く同じことを考えた。

 あの状況で、〝僕は誰?〟という質問から検索して結果に辿りつくことは不可能に近かった。

 確かにあのとき、電算機室で使っていたPCからは複数の情報が送られていた。でもそれは飽くまでPCやネットワークの情報ばかりだったはず。というのも電算機室の共用PCは、再起動するたびにセットアップ直後の状態に戻るからだ。その上で僕は個人情報を何にも入力していなかったので、個人に関する情報といえば精々ログインに使った学籍番号くらいのものだ。

 あのときも疑ったことだけれど、学籍番号から本名を調べるには、学生手帳を見るか、学内のデータベースを検索するか――どちらもWebで公開されているものじゃない。だからあそこから本名を答えることは、とても難しいことだった。

 難しいが、不可能とまでは言えない。

 一方で夕食のメニュー……これはもっと難しい。

 何か通常では考えられないような高度なプライバシーにアクセスできたとしても、それこそ興信所のように、かなり能動的に探索できなければあのような質問に正解を出せるとはやはり思えない。


「『AIにはできない』――ですよね。僕もそう思います」


「普通はね」と茨さんはそう含みを持たせる。


「しかしもしあれが本当に――いや、やめておこう。あまり仮定の話で人を不安にさせても仕方がないからね」


 彼女はそう言って、窓の外に視線を投げた。

 The Final Answerとは一体どのようなAIなのだろう。

 暫くぐるぐると同じようなことを考えて――正体がわかるとも思えなくなった。

 やめよう、と僕は考えを止めた。これからその研究所に行くのだから、きっと説明があるはずなのだ。

 そのとき、やっと僕は茨さんにファンであることを伝え忘れていることに気づいた。


***


 暫くは無言の時間が続いた。

 その間も僕は話題を探してあれこれ考えを巡らせ、ふとSNSを開こうとスマホを取り出したけれど、途中でそれもやめた。

 スマホの画面を見つつ、今日はまだゲームにログインしていないのを思い出す。

 僕はSNSよりゲームが好きだ。叶うならゲームのキャラクターになりたい。ご多聞に漏れず動画も好きだけれど、いかんせん動画は短いのだ。一本見終わると、ふとすぐ背後まで迫るような〝◯◯〟の邪悪な気配を感じてしまうことがある。子供の頃には意識しなかったのに、その気配は年々濃くなっている気がする。ゲームで僕専用にカスタマイズしたキャラクターになっている間は、没頭できる。

 もしかしたら、茨さんに憧れるのだって彼女の存在がまるでリアルじゃないから、という理由があるのかも知れない。キャリアだけ見てもまるで現実離れしていて、テレビで見るときは必ずヘリコプターに乗っている。

 こんな人間いるわけないじゃないか、と思うような人間がそこにいる。同じバスに乗っている。

 ゲームを起動する。その瞬間『しまった』と思ったけれど遅かった――ドヨドヨドヨ……しゅぱーん、welcome to the underground!と、やけに特徴的な起動音が水を打ったような車内に響き渡る。

 咳払いがあちこちからいくつも飛んできた。

 すいません、と後方に会釈する――と、そのとき最後部を陣取っていた江口さんと目が合った。すると彼は立ち上がり、こちらによろよろと歩いてきて、僕のすぐ後ろの席に座った。


「それ女装? 女装子さんってやつだよね。似合ってるね。不動君でいい? それとも馨ちゃん? ――あ、ごめん、さっき聞こえちゃって」


 彼はにやにやしながら、改めて江口と名乗った。


「今の、PBUGの起動音だよね? 君もやってるんだ。奇遇だね。あっ、このvvv_kaworu_vvvってアカウントね? フレンド申請送っておくから。ヒヒッ」


 彼は、大きなゲーミングスマホの画面をこれでもかと近づけてくる。

 そんな流れで一緒にやることになったわけだ。聞いた限りだと結構やり込んでいる感じだったのに、一緒に小隊スクアッドを組んでプレイするとまるで動きがなってなかった。

 このゲームの目的は、二人から四人のスクアッド(小隊)を組んで、敵スクアッドの拠点となる建物に侵入し、爆破、または防衛すること。似たようなゲームは数あれど、これは建物の優れた自動生成や、壁やドア、人体に対する緻密な当たり判定によって、ものすごく高い戦略性が実現されている。

 降下位置によっては武器の入手性に若干の運要素はあるけれど、戦略がそれを凌駕りょうがするのだ。

 この江口という人はその辺をどれだけわかっているのやら。無駄にヒロイックな立ち回りを見ると、他のカジュアルなバトロワゲーと区別がついていなそうだ。敵の拠点の小屋を見付けてブリーチング(扉を突破すること)まではよかったのに、その後はモタモタしてクリアリングも雑。さっさと屋内用の近接武器に切り替えればいいのに、いつまでも野外向けのライフルを持っているからあっという間にやられてしまう。

 最後の扉一枚を挟んでの攻防がこのゲームの魅力なのに、何も考えずに突っ込んでゆくものだから……。

 やんわりと苦言を呈するとその言い訳が「ショットガン拾ってなかったから」。こういうときは最初から持ってる近接武器で充分なのに。


「いやぁ、馨ちゃ……不動君は上手いねえ。さすが高ランク帯のプレイヤーだね」


 その時、前方の真鍋さんが立ち上がり、この先携帯電話などの電波がなくなると告げた。


「――研究所にはWiFiがございますが、緊急のご用向きなどはお済ませください」



***


 その言葉通りだったわけだ。


```

 〝通信エラー! インターネット接続がありません〟

```


 エラー画面でゲームは中断し、僕のガーリーなショッキングピンクのスマホは圏外になった。一部に圏外の区間があるといった生易しい話ではなく、『この先は圏外』なのだ。隣県までずっと。

 今どき圏外なんて、にわかには信じられない話だ。

 僕が呆然と見ると、外には険しい山の新緑がゆっくりと流れてゆく。

 こうなるとSNSのしょうもない噂話が懐かしい。たとえお化け騒動なんて、眉唾の話題であってもだ。

 更に三十分ほどしてようやく、アンバサダー達が口々に「電波がなくなったぞ」と騒ぎ始めた。遂に三キャリアが全て圏外になったらしい。


「一体どうなってるんだ。俺のキャリアはコモドなんだぞ。今どき、圏外なんて」


「あたしAYだけど、もう三十分くらいずっと圏外。信じらんない」


「私はソコバンですけど、高速降りてすぐもうダメでした。編集者に連絡したいのに……」


 真鍋さんの言った『交流を深める』がこんな形で実現するなんて。

 彼女は平謝りで、この先は全キャリアの電波がないこと、研究所にはWiFiがある旨を再度繰り返した。

 それでもアンバサダーのうち、胸板の強固そうなスーツ姿の男――堂山さんは毅然と立ち上がる。彼はよほど重要な用件でもあるのか、ブルーのスマホを振り回しながら「まだかかるのか」と噛みつく。

 その画面がバッキバキに割れているのを見て、僕は少しだけ息が詰まるような感覚を覚えた。

 スマホの買い替えは制限されている。国の補助がある代わりに契約を管理され、ひとつしか持てない。さっき茨さんも言っていたように、いや、僕にとっては多分それ以上に自分の分身と言えるものだ。それをあんなふうに粗末に扱うのは心苦しい。


「大体、今どきスマホの電波がないなんてどうかしてる! そんな場所に連れて行かれるなど聞いていないぞ!」


 堂山さんがそう抗議すると、猫背の千束さんが「うるさいよ」と煩わしそうに言った。


「お前くらい声がデカきゃ、電話なんか要らないだろ。大袈裟なんだよ」


 確かに抗議しても電波が入るようになるわけじゃないのだけれど。

 とはいえ心情的には堂山さんのほうに傾くところがある。

 スマホは電波がなければ役に立たない。通信インフラというのは事実上、僕らにとってのライフラインだ。

 たとえいっときにしても、それを断たれるのは心細い――皆そこに、生理的な不快感を感じているのだろう。

 皆が口々に不満を言う中、横を見ると茨さんは平然としていた。


「茨さん、圏外だそうですよ」


 彼女はこちらも見ずに、「そう。不便だね」。


「――平気なんですか?」


「私は別に。研究所にはWiFiもあるそうだよ。聞いていただろうけれど」


「いえ――そうなんですが。スマホが使えないと不安で」


 ネットといえば網の意味。今や僕らは誰しもその網に包まれて暮らしている。趣味も交友関係も学びもその網の上にあるわけだ。

 たとえいっときにしても、それを断たれるのは心細い――と僕などは思うのだけれど、少し上の世代となると違うのかも知れない。

 真鍋さんは立ち上がって一同に告げた。


「もう少々お待ちくださいますよう。あと三十分程です」

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