Prologue: 壁の崩れる音
The Final Answerへの招待
照明の落ちた、大学の電算機室。22:00を過ぎて僕は一人になった。
床に落ちたピンク色のスマホ。燦然と輝く二十四インチの液晶モニタ。
コンピュータのWebブラウザに表示されたサービス――The Final Answer。
曰く『世界を変える』サービスだ。
```
どんな質問にもお答えします
>
```
そうたった一言、質問を促すプロンプトが示された簡素な画面。その下の入力フォームにはカーソルが点滅している。
初めて見るのに、それでもこれが
ちょっと懐かしいじゃないか。
昔、AIの研究が盛んだった頃には、この手のAIを使ったチャットサービスが流行った。
僕が中学生になるかならないかの頃だったから、あれは十年も前――2023,4年頃のことか。
初期バージョンのGPτチャットは、こうしたWebの入力フォームを介して文字通り〝チャット〟をすることで答えを得る。
その回答は立て板に水。曖昧なものを明瞭に。回答が、まるで賢い人間の言葉のように
人間のように喋るプログラム。
当時は色んな企業が、膨大な学習量や安全性を売りにして様々な
すぐにそれは人間と区別がつかないほどになり、テキストだけでなく電話を使って会話できるようになった。
僕はそれに飛びついた。夢中になれそうな予感がしたのだ。
実際にそれほど夢中になれなかったのは――まだ会話の端々に人間じゃないものを感じることが多かったから。
字面は立派で頼りがいがありそうだけれど、よく読むと
大袈裟に言えば小さな友情――そして別れだった。
その頃の大人達はもっとAIに期待、または恐れを抱いたのだろう。EUで法規制、中国では遮断、北米では訴訟――大騒ぎだ。あらゆる頭脳労働がAIにとって代わられ、人間の仕事は介護や力仕事だけになると
力仕事。もっと言えば――兵隊。
間もなく始まった世界的な戦争を挟んでこういう研究は長らく停滞した。研究資金は削られ、新しいものはもう出てこないのじゃないかと思っていた。
けれどAIは死んだわけじゃない。画像や動画の生成AIは一般に広まった以降、使われ続けている。一方でこのアナクロなチャットボット――つまりチャット形式の質問サービスは今じゃちょっと珍しくなった。
そうした
だからそう、このときの一番近い感情は〝懐かしい〟だった。
中学時代、ほんの一時期一緒に遊んだ友人との、
キーボードに手を伸ばし、ズズッと手元に引き寄せる。
『どんな質問にも』――だって?
試してやろうという気になった。けれどそもそもこの種の生成AIは、言ってしまえば人間っぽく文章を生成するだけのプログラムだ。人間のような知性があるわけではないし、事実に基づくわけでもない。
でももし。
あれから十年経って今こうして新しいサービスが出てきたのなら、きっと新しい何かがあるはず――。
想像を超えた何かが。
果たして何を聞いたものか。足りない単位を稼ぐ方法? 屈辱的な思いをせずに就職する方法? このときは何をどう尋ねたものかパッと思い浮かばなかった。懐かしの再会とはいえ、それほど仲が良かったわけでもないからだろうか。それとも、もうこんなチャットボットに過度な期待を持てなかったせいだろうか。
けれど今僕が、まがりなりにも大学で計算機科学の学科にいるのも、あのときGPτチャットに夢を見て落胆した経験によるところが、少なからずある気がするのだ。
受験の前に戦争が始まったので、疎開を兼ねて地方の大学に進学した。
戦争は終わった。なのに未だなんとなく浮足立ったまま、将来の展望を持てない。成績もパッとしないまま、残る学生生活もゲームとネットの動画で過ごすのだろう。
周りはもう内定を決めているのに、僕には特にやりたいこともなく、まだ何者にもなれていない。
もし何者かになれたら、あの得体の知れない焦り――その単語を口に出すのも
――どんな質問にも、か。
聞きたいことなら山程あるけれど、そんなことAIに答えられるはずもない。
悩んだ末、〝僕は誰なのか〟と尋ねてみた。
これだってだいぶ底意地の悪い、やけくそな質問だ。AIが僕を知っているはずはないのだから。
生成AI――LLMは、言葉を生成するだけ。
言葉の意味は解っていない。生成された言葉は事実と何の関係もない。
とはいえ機械は間違えてはいけない。間違いを避けようとする――するとフワッと遠回しに『あなたのことは知らない』と言うだろう。それが大人の対応。他人行儀というやつだ。
これもそうなる――そう思って試した僕は……。
目を見張った。
突然画面に現れた〝デバッグ〟というブロック。そこに流れだすログにはタイムゾーン、IPアドレス、WブラウザやOSの種別……ネットワークの仕組みには明るくないが、MACアドレスなどサーバーに送られないはずの情報も。
AIが僕を知っているわけがない。
それはつまり、僕の個人情報を学習しているはずがないということだ。
個人情報は法で守られている。かつてはスマホの
なのに続けて流れるログは何だ。
この大学名、規模、キャンパスの所在、目の前のPCのベンダ、納入記録……そこから僕が解るのか?
――学部、棟、フロア……待って、ちょっと待ってくれ。それは
ついに。
```
The Final Answer:
国立大学法人信州国際大学 工学部計算機科学科 学部四年
不動馨
2011年12月27日生 21歳
```
〝不動
このAIは、氏名まではっきりと示して見せたのだ。
思わずディスプレイから跳ね退き、
――こんな馬鹿な。あり得ない!
AIは僕を知らない。
僕の知らないところで個人情報が抜かれている――というのも珍しくはないだろう。僕が普段する買い物、訪れる場所、入力する文字――そういったものから僕は
――落ち着け、たかが名前と、学校と、生年月日だ。
――いやいや、それってもう法律の言うところの〝個人を特定可能な情報〟のはずじゃ?
平常心ではいられないものだ。僕の心臓は早鐘を打ち、手が細かく震えだす。
もしかするとあれもこれも、バレているのだろうか?
僕は自分のスマホを手に取る――これに詰まっている僕のプライバシーは、国によって守られているはずだ。大規模な情報漏洩事故に巻き込まれた記憶もない。
買い物やらはともかく、ここに並ぶような氏名、生年月日、マイナンバーといった個人を特定する情報は国が管理している。国が仲介することで、こうした個人情報をキャリアといった携帯サービス企業にも伏せて契約するようになっているわけだ。
――なら一体どこから?
これは倫理、プライバシー、安全保障、あらゆる観点からNGな代物。
いや、そんなはずはない。いいか、しっかりしろ自分。これはどこの誰が作ったとも知れない、全く無名のWebサービスのAIチャットだ。AIチャット――そう、Webのフォームにテキストを入力すると、質問に答えたり文章の続きを書いてくれる、あれだ。かつてのAIチャットは、こんなものじゃなかった。とぼけていて、聞く度に言うことが変わって、ただ尤もらしいだけのポンコツだったじゃないか。
その昔は、発達したAIが人類を滅ぼすSFが沢山作られたらしい。
けれど実際のAIにはそんな能力はなかった。先の大戦ではAIも使われたけれど、戦争を起こしたのは勿論人間で、AIはプロパガンダや情報戦の偽情報をばらまくのに使われただけ。
これはあれとは違う。
想像できるだろうか? 中学のとき変なやつだと思っていた友人に再会したら、とんでもない変貌を遂げていた――。
後で知ることだが――これは、この世の全てを知るAIチャットだった。
このときはまだこけおどしだと思った。コンピュータのログインに使った学籍番号や、ローカルのキャッシュか何かを表示しているだけの悪質なジョークサイトだと。
といってもこの共用PCに個人情報は入っていない。学籍番号から本名を調べるには学内のデータベースが必要だ。ならどうやってこのAIが本名を調べたのか、パッとは思いつかない。それでも知るはずのないことを知っているのなら、何らかのフェイクに違いない――と。
次に、授業で聞いた技術の一つを思い出した。検索結果に基づいてLLMの結果を修正し、事実に近づける技術――〝RAG〟?
もしこれが〝RAG〟などの検索を行うタイプのAIなら、検索に引っかかる情報は答えられるかも知れない。
学籍番号からは難しくとも、例えばスマホの固有IDだ。戦争を切っ掛けに全ての通信機器には固有のIDが振られるようになって、使用者個人に紐づいている。これは電話番号のようなもので個人の身元確認にも使われるもの。
もし何らかの方法で僕のスマホから固有IDを読み取られたとすれば、氏名くらい答えられたかも知れない。
だとすればどこにも記録しておらず、僕しか知らないことには答えられないはずだ。
僕はまたキーボードに向かい、
```
>〝僕の今日の食事〟
```
そう入力したところ、質問が曖昧であるとのエラーを得た。
続けて〝今日の20:00頃食べた夕食〟と入力した瞬間――。
様子が変わった。
画面上で、その痴呆の老人みたいな質問が形態素に分解され、山のようなアンダーラインが引かれて――〝僕〟が何者であるかという推論が、極めて具体的に示されてゆく。
この四時間、どういうルートを通ってどこに滞在したか。四時間前にはどこにいたか。移動手段は何か、誰といたか――。
これはもう、殆ど攻撃だ。
プライバシーという名の、高い高い城壁への。
怖くなって、周囲を見渡す。
部屋の奥が闇に溶けるほど暗い。
やはりコンピュータが並ぶだけで、もう誰の姿もない。大窓から見下ろすキャンパスにポツポツと水銀灯が灯るのみ。
画面上では次々と〝僕〟が解体されてゆき、そこには、大学のコンピュータには入力したことのない情報ばかりが並ぶ。
住所、電話番号、スマホの固有ID――。
更に――そのIDに紐づくキャッシュレス決済の履歴が並ぶ。今日の朝コンビニでの支払い、学食で、自販機で……そして夕食。
```
The Final Answer:
株式会社プレミナス・フード・サービス
メシア丼 松本支店 カレイの煮つけ定食*1 750円
```
間違いない。僕は20:00頃、駅前のメシア丼でカレイの煮つけ定食を食べた。
それが
バレている。全て。隠しようもないほどに。
あり得ない。
まるでスマホの中身を全部見られているようだ。
僕は、僕と世界を隔てる山ほどに高くて分厚い壁が、がらがらと崩れる音を聞いていた。
〝究極の回答〟を意味するそのサービスは、その日、一時間だけ公開された。
その日、たった一時間の間だけ、The Final Answerはこの世の、僕らを隔てる最後の壁を壊してみせたのだ。経済状況、健康情報、隠しておきたい恥ずかしい秘密まで、プライバシーと呼べるものの
僕は、震える指でマウスを動かし、画面の下に現れた〝結果に満足ですか?
何をどう意見すればいいのやら。
これには知性があるように感じた。
けれど、知性のあるAIは作れないはずなのだ。偉い数学者が大勢そう結論付けている。
かつてのAIをどう弄っても、どれだけ学習したとしても、こんなWebサービスは作れない。僕の個人情報を全部学習したとしても、それだけじゃ今日の夕食まで解りっこないのだから。
なら、なぜ?
どうやって?
***
The Final Answerは間もなく消え、僕の知る限り二度と復活することはなかった。
あれは幻だったのか?
十日前、五月の初めのあの晩、文字通りの破壊的イノベーションを目撃し愕然としたのは僕だけではないにしろ、多くはなかったようだ。大手メディア以外ではちょっとした騒ぎになり、週明けまでには既に都市伝説かのように言われていた。
国際問題についてボヤくチャットのチャンネルでは海外勢からの関心が高かったが、時差もあって試せた人間は少ない。
それに遭遇した人間の多くはThe Final Answerのことを、大方漏洩したプライバシーを山程学習したサービスだろうと結論していた。
でも僕にはそうは思えなかった。だってその日の夕食が漏洩して学習されていたとは考えられないじゃないか。
一体、あのAIは何だった?
最近発生した大規模な個人情報漏洩事故をWeb検索した。
2032年、生涯学習ビジネス企業からの顧客情報流出、85万件。
2031年、国立大学、国内メーカーの東欧テロリストグループによるランサムウエア被害、合計220万件。
2030年、核融合研究者の殺害――どうしてこんな記事が含まれるんだ?
これより以前の大戦期はさすがに情報が少なくなるし、僕が入学する前になると関係はなさそうだった。
見たところ、僕の情報が漏れるような事故は起きていない。
反論したいのは山々だったけれど、早くも『表でその話はするな』とタブー視する流れができあがっていたのだ。
僕は――すっかり現実感を
余人にとっては生まれては消えてゆく雑多なWebサービス。明け透けに言えばプログラムであり、機械だ。それでも僕には、あれは全然違うものに思えた。
三年に及ぶ大戦の終結から三年。『世界は未だ不安定だ』と人々は言う。『国際テロリストやスパイはすぐそばにいる』――国もそう言うけれど、日本は結局一度も攻撃されずに済んだのだから現実感がない。相変わらず僕は平凡な、先の見えない就活生。
しかし、あの晩を境に僕の人生は変わっていた。
今このとき、僕のもとにあるものこそ――The Final Answerの〝アンバサダー・プログラム〟の招待状。
```
アンバサダー・プログラムのご当選、おめでとうございます!
```
スマホに届いたその報せに、僕は飛び上がって喜んだ。惨めな人生で初めてのことだ。
翌日届いた立派な封筒の送り主は『NNN白馬研究所』。NNN社と言えば元は我が信州国際大学発のベンチャーだ。それも今や大企業で、僕ら就活生の間では人気企業トップ3に入る。尤も、三流大学の僕らにはとっては
```
The Final Answerへ御寄せくださった貴重なフィードバックに感謝の意を表します。
当サービスは新技術として研究・開発されていたものでした。
それが我々のコントロールを離れてリリースされてしまったことは誠に残念なインシデントと認識しております。
この点で皆様にご不便、ご心配をおかけしてしまったことは
```
やはりあの公開は、何らかの手違い――リークだったわけだ。
```
――慎重に議論を重ねた結果、我々はこのインシデントを他山の石としてサービス向上への第一歩とし、The Final Answerの正式公開へ向けて、皆様と対話し、相互理解を深める社会的責任があると判断致しました。
この度、フィードバックを寄せていただいた皆様の中から数名の親愛なるアンバサダーを選出し、ぜひとも我々の情熱、成果――〟
```
そしてこの〝アンバサダー・プログラム〟は、選出されたアンバサダーに対してある重大な提案を含んでいた。
つまりこれは。
```
当研究施設にご招待申し上げるものです。
```
手紙によると先日リークされたあの危険なサービスは凍結され、現在ネットワークから完全に隔離された状態にある。安全性を高めるプロセスを検証中なのだそうだ。
そこで見学者を受け入れて意見や要望を募り、研究再開を検討する、と。
それに僕が選ばれた。
その後はさすがのスピード感だった。一通の同意書に返信しただけで、自分の住所すら入力する必要さえなかった。危険物、撮影機材類は持ち込み不可。スマホは一人一台まで、普段使っているものの固有IDが自動で申請される。僕はカートに着替えを入るだけ押し込んだ。
The Final Answerとの遭遇から僅か十日後の今日、当選者のうち最初の数名が、アンバサダーとしてその研究施設に向かうのだ。
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