鱗を剥がす暴力(あるいはわたしという高すぎる温度について)

 海沿いのマンションに住み三ヶ月、ベランダから海を見ていると砂浜に打ち上げられた人間を見つけた。慌てて助けに行った。仕方なくおろしたてのサンダルを履き、ざくざく砂浜を向かっていく。近づいてみながら声をかけるけど、言葉は一切返ってこない。人間をよく見れば海に浸った下半身は脚ではなく魚、驚いて尻餅をついた瞬間に、その人影がむくりと起きる。

「ここはどこ」

 凄まじく透き通っている声が鼓膜をぐらり揺らした。美しいあまりにかえって恐ろしく、わたしはなにも言えないでいる。

「あなた誰?」

 碧の瞳がぎょろりろとわたしを向いた。思わず逸らし、ちらと見る。その人影が……否、きっと人魚と呼ぶのが正しいのだろう……頬杖をついてわたしを眺めては、ぱちくり瞬きを繰り返した。そして、ふわ、なんて擬音が似合うよう金色の髪を揺らして笑う。

「人間だ、久しぶりに見た。知ってるよ、地上を支配してる種族でしょ?」

 種族とか言われても困ってしまう。わたしは言葉を濁して笑う。呼応したように人魚も笑っては、湿った髪を指でくるりと巻き取った。少しくすんだ金色が妙に目につく。美しかった。

「ねぇあなた、人魚を見るのって初めて?」

 わたしは頷く。人魚は微笑み、

「そうだよね。仲間はこの頃随分と数が減ってしまったんだもの」

 少しだけ寂しそうに言う。返す言葉が無くて黙ったままでいると、あのさぁ、と人魚が砂と水滴のついたまつ毛と共に見上げた。

「人間は人魚の歌声を聞くと恋に落ちたみたいに魅了され、その身すら海に投じて喜んで命を落とすってほんとうなの?」

 なんだそれ。そう思ったのでそう言うと、人魚は露骨に眉を顰める。

「そうだよね、こんな話は嘘だよね。きっとそうだと思っていたの」

 ちぇっ、なんて言いたげに目を瞬かせ、尾びれがぱちゃりと浅瀬を叩く。冷たげな冬の海が跳ねて散った。とてもじゃないけど寒そうだった。

「あなたって」

 人魚はそれっきり黙った。わたしも黙って続きを待った。

「なんでもない。ねぇ、でもやっぱり確かめたい、わたしの歌を聴いてくれない?」

 「人間は人魚の歌声を聞くと恋に落ちたみたいに魅了され、その身すら海に投じて喜んで命を落とすってほんとうなの?」

 いま聞いた人魚の言葉がリフレイン、ちょっとだけ怖いと思ったけど、まぁまさかそんなことなど起きまいとわたしは首を縦に振ってみる。

「ありがとう。それじゃあいちばん上手いっていわれる歌を歌ってみるね」

 頬杖をついた人魚が息を吸い、たちまちに歌が奏でられる。透明とはこれのことをいうのだろうと思えるような歌声だった。吹き抜ける心地良いそよ風みたく当たり前のようにそこにあって、干からびた喉が水を飲み干すみたく満たされるような気持ちになった。

「どうだった?」

 人魚はその碧の瞳でわたしをわくわくと見つめている。きっとあの話を少しは期待しているのだろうと察してみるが。

「すごく綺麗。叶うならずっと聴いてたい」

 わたしの言葉に人魚は少し残念そうな顔をしたのを隠せないでいたので、おかしくて笑った。

「歌を聴いてもすきになりそうにない?」

 人魚は何故か哀しげに言う。ぱちと目を瞬かせていると人魚はふいと目を背けてしまう。

「どうしたの?」

「どうもしないよ」

「ほんとうに?」

「……期待したのが馬鹿だったよね」

 呟いた声はさざなみにさらわれ上手く聞き取れなかったけれど、寂しげに目を伏せるから少しだけしゃがんで人魚と目を合わせてみる。

「人魚さん、歌ってくれてありがとう」

 人魚はくるりと眼を向けて、すぐにこり微笑んでみては「いえいえ」とつらりさりげなく言ってみせた。そして

「ねぇ、人魚と人間の恋っていつか成就する日がくるのかな?」

 と聞くのでわたしは少し考えてから目を合わせ次のよう言う。

「最初から叶わないことが決まってる恋なんてないと思う。だけど、人間と人魚は生きる場所が違うから難しいこともあるかも」

 そっか、って人魚は笑う、寂しげに、でも少しだけ嬉しそうなのは何故だろう。人魚はふと身体を捩り自分の下半身に手をやった。

 ぶぢり。

 って、瞬間鳴った音、すごく痛々しくて息が詰まった。

「これあげる」

 人魚の手にはきらきらと偏光眩い鱗が一片。察するに、自分の下半身のものをひとつ千切ったらしくて、惑う。

「人魚はね、すきな相手にこうやって自分の鱗を渡すものなの。ねぇ、人間、あなたのことを海の中からずっと見ていたんだよ」

「そっか……」

 なるほど、とすべてに合点がいった気がして鱗を受け取った、拍子に、じゅ、と気味の悪い焼けたような音がしたので慌てて手を引っ込めた。

 ほつり、鱗が砂に落ちる。

「人間は体温が随分高いのね」

 人魚の手から白い煙、指先が赤く痛々しげに爛れていた。確かに一瞬触れた白い手はひどく冷たかったのだけれど。

「受け取って」

 砂の上に落ちた鱗をわたしは拾いじっと眺める。

「ときどきはこの人魚を思い出して。またね、人間」

 ざばん、と激音。

 次に目を開いたときに人魚はもう姿を消していてひとりだけ冬の砂浜に残されたわたしは、立ち上がり部屋に戻っていく。

 手の中に冷たく美しい鱗をひとつ大切に仕舞いながら。

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