わかば探偵事務所(仮)

北前 憂

第1話

           

「…ええ。…はい。…いえ、そこを何とか…。 ………ああそうですね。分かりました。どうもお世話になりました。失礼します」

電話を切って、若葉 透 は深い溜息をつき椅子にもたれた。そのまま仰ぐように天井をみつめる。

 参ったな…。 ずっと懇意にしてもらっていた

 銀行に融資を打ち切られた。まあ無理もない

 向こうもビジネスだ。 …とはいえ情も何も無

 い。

担当が変わってからその傾向がより強くなっていったと若葉は感じていた。

「せちがらい世の中になったもんだ」

嘆いていてもしょうがない。何とか事態を改善しなければ。…でもどうやっ て。


事務所を開設した当初は右肩上がりに収益を伸ばしていた。スタッフも5人いて、みんなそれぞれのクライアントや自分の仕事に誇りとプライドを持って精力的に励んでくれた。何より、活気があった。3年前、とある事をきっかけに仕事が少しずつ減っていき、スタッフも次々と辞めていった。今この事務所を切り盛りしているのは自分と、一人残ってくれた助手の相原だけだ。

だが彼女もいつ、「お話しがあるのですが」と切り出すか解らない。しかしその時は無理に引き止めるような事はするまいと思っていた。若い人の貴重な人生をこんなところで足止めさせる訳にはいかない。だが本音を言えば、彼女が最後の頼りの綱だ。出来ればこの苦境を共に乗り越えて欲しいと願っていた。

この苦境に、終止符が打たれればの話だが。


外に出ていた相原が帰ってきた。

事務所に入るなり、天井を見つめている所長を不思議に思いながら、自分もデスクに近づいて同じ様に天井を見つめる。

  いや別にここに何かある訳じゃないから。

そう思っていたが、声を出す気力も無かった。

彼女がしげしげと同じ所を眺めるので、若葉は仕方なく「東都銀行に融資を断られた」と告げた。

「ええっ」と彼女はメガネの縁を掴んで更によく見ようとする。

 いやだから、ここにそう書いてある訳じゃな

 いから。

彼女は「どうするんですか」と煽る様子もなく、

「指定されてた物は全部買い揃えました。ただ、サインペンは100円ショップでは売りきれてたので、文房具店で買って来ました」

と与えられた仕事を遂行してきた事を誇らしげに報告する。

機転を利かせたつもりかも知れないが、100円じゃなければ急いで買って来なくても良かったのに、と若葉は内心思った。今は10円単位でも切実な状況だ。

これは一本…、¥264(税込) と書いてある…。

心の中では(ふぅ〜…)と思っていたが「ありがとう」といって、机に姿勢を戻した。

ぼーっと天井を眺めてもお金が降ってくる訳でもない。今はとにかく、打開策を講じなければ。

相原が、買ってきた物を次々と定位置に仕舞っていく。


相原 未咲 は優秀な助手だ。20代半ばで未婚。彼氏はいるのか分からない。 自分が彼氏だったら、こんな貧乏事務所さっさと辞めて他に移った方がいい、と助言するだろう。

彼女は洞察力・判断力・決断力に優れ、探偵の助手という立場ながら雑用や買い物まで引き受けてくれる。 もともと居た5人の従業員の中でも特に頼りになる存在だった。 今もこうして買い出しをすすんで引き受けてくれる。もはや自分は彼女失くしては仕事が立ち行かない、と若葉は思っていた。

しかし、人間誰しも欠点というか及ばない所は在る。そこがまた人間らしい部分でもあるのだが。

彼女の場合、優れた才能を持ちながらも“ド” のつくほどの天然ぶりな所である。 さっきのサインペンにしてもそうだが、およそ凡人の考えつかない、「えっ?」という局面でその天然ぶりを発揮する。 これも人並みはずれた能力の副産物という事だろうか。

以前ビラ配りをお願いした時、駅前の人通りの多い場所で道行く人に声を掛けて渡していた。彼女には人をにこやかにさせる魅力があり、渡された通行人はほぼ100%受け取る。300枚あったチラシは順調にその数を減らしていった。 だが若葉が「お昼まで」と伝えたからか、昼近くになってまだ50枚ほど余っていたので少し焦ったのだろう。彼女は一人のサラリーマンに

「良かったら会社の皆さんでご覧下さい」と残り全てを彼に託したのだ。 若葉としては「お昼まででいいよ」という心遣いだったのだが、彼女は与えられた時間で完遂した。

サラリーマンは「えっ…」と戸惑いながらも、彼女のきらめくニコニコパワーで、本当に全てを会社に持ち帰った。 実際、その会社から仕事を依頼された事もある。 若葉は数多く配ったうちの一件に過ぎないのだろうと、未だにその真相を知らない。 託した50枚のうち半分は、そこの社員たちの個人的な依頼で役立った事が多々あることも。


「相原くん。帰ったところ悪いけど、このチラシを貼って来てくれないかな」

若葉は買ってきてもらったサインペンで最終仕上げを終えたチラシを手渡した。

「かしこまりました」

気持ちのいい返事で彼女はチラシを受け取り外へ出ようとする。フットワークも軽い。だがここで若葉は

「貼っていいとこだけにしてね!」と付け加えた。

「ラジャ!」

相原は敬礼をして出て行く。

若葉は「ふぅ~」と安堵の息を吐いた。 間に合って良かった。

前回同じお願いをした時、彼女はそこいらの電柱という電柱全てに、更には郵便ポストにまでチラシを貼り付けて揚々と帰ってきた。確かに人目にはつくのだが、程なくして警察から連絡が入り「全て撤去して下さい」と注意を受けた。 事情を聞いた若葉は「すみません。すぐ対応します」と冷や汗をかきながら「ちょっと出てくる」と助手に言い残し出て行った。 彼女が頑張って貼ってくれたものを「剥がして来なさい」とは言えなかった。

夕方近くになってようやく戻って来た所長に 「遅かったですね。大丈夫でしたか?」と相原が尋ねた。若葉は「うん。大変だったけど、うまくいったよ」と、回収したチラシの入った封筒をそっと引き出しに仕舞った。

だから今回は出掛ける前に伝えた。 前回も自分がきちんと指示しなかったのがいけなかったと反省している。彼女のステータスを理解していなかったと。

それ以来、時々彼女の行動を観察することを怠らずにいる。

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