4-3

「……ふぅ」

 新島先生から家ではちゃんと英気を養うよう助言を貰ったが、その言葉の意味を今となってようやく痛感する。準備室に戻り何度も鳴かせている椅子に身体を預けて天井を仰ぐ。

 出来れば今すぐ鍵を閉め、相変わらず降り続ける雨の単調な音に身を任せて何も考えずにいたくなる。もしかしたら尋ねてくるかもしれない先生方や生徒のことなどすっかり忘れて、イヤホンを耳にさしてお気に入りの曲を聴くのもいい。スマホにダウンロードした漫画を眺めながら、物語に意識を委ねるのも魅力的だった。

 だがしかし、仮にそれを実行に移したとしても没入できるとは思えなかった。

 ————落差が凄すぎる。

 視線に鷲掴みにされて、恩師の授業に圧倒されて、自分の授業にうんざりして、才能ある女子高生たちと食事をして困惑しては、男子高校生の模様に気を遣う。

 感情や思考が振り回されているのを自覚する。

 自分では小器用な方だと思っていたが、実習が始まってからずっと躓いてばかりだった。

「次の授業の準備をして、放課後の事務と反省点の洗い出し、水上さんとデザイン制作か……」

 実習生ですでにこの作業量。

 本職の教師となればさらにやることは増える。

 月末の体育祭に僕は参加できないが、各季節の行事に定期試験の作成と採点。生徒達の成績を把握しながら授業内容を見直してさらに保護者に向けた情報発信や教育委員会への対応。素人の僕で思いつくだけでも膨大な仕事量だ。

 甘く見ていたつもりなど微塵もなかったが、見通しは甘かったとは言わざるえない。

「一番難しいのは、水上さんだよな……」

 視線の変化は明白だと思っていた。

 しかし先程の牽制に水上さんはなんら反応を見せることはなかった。

 考えすぎだったのだろうか。

 だとしたらあまりにも恥ずかしすぎる。

 彼女と向かい合った時、絶対に意識しないようにしなければならない。その上で、水上さんのやる気を削ぐことなくデザインに意識を向けてもらうようにしなければならない。

 だがいったいどうすればいいのだろうか。

 彼女の思考は一般的ではない。

 そんな水上さんに、凡庸な自分が干渉する事など出来るのだろうか。

「……よく考えないと」

 取っ掛かりのない問題。

 答えのないことは人を不安にさせる。

 それでも僕は水上さんと向き合わなければならない。

 僕は、教師を目指しているのだから。



「先生は今まで一番面白いと思ったダジャレは何ですか?」

「……すみません。ダジャレ、ですか?」

 部活開始開口一番、水上さんは僕の人生で今まで一度もしたことのない話題を発した。

結局いくら考えても有効な策を思いつかず、とにかく今日はすぐさまデザインについて切り出そうとした途端である。僕が座るや否や奇抜な問いを投げかけた水上さんは、これこそ最も重要な質問であると言いたげな充実した顔で、コアラを描いている。

 ユーカリを食すコアラがダジャレと何の関係があるのか、まるでわからない。だが相変わらず適当に描いているとは思えないほど、見事な構図と精巧さだ。まだ途中だというのに、毛並みの手触りや獣の匂いすら感じられそうである。

「すみません。考えたこともありません。水上さんにはあるんですか?」

「頭がワシャワシャのシャワーワルシャワです」

「……何度もすみません。いまなんと?」

「頭がワシャワシャのシャワーワルシャワです」

 二度聞いても意味がわからなかった。

「それは、ダジャレですか?」

「はい。あれは私が小学四年生の時です。隣の席に猩々ヶ原君って男の子がいたんですけど、その子が算数の授業中に急に呟いたんです。頭がワシャワシャのシャワーワルシャワって」

「……なるほど」

 どんな状況だ。

「あの時の絶妙な間も含めて、そのダジャレがあまりにも面白くて大笑いしました。ねずみ算を理解できた彼がひとりでに言い出したことで、私はただ笑っただけですけど、先生には凄く怒られました。授業中にふざけるなと」

「それは、仕方のないことかもしれませんね」

 唐突に生徒が珍妙なことを言い出し、水上さんが爆笑すればその先生もかなり困っただろう。

小学生の頃から、水上さんは水上さんだったのだ。

「面白かったのは使われた言葉の羅列です。枕詞の『頭がワシャワシャ』は混乱が表現されていますでしょう? 髪の毛をかき乱す仕草のオノマトペ。それを『シャワー』という言葉できちんと洗い流す。お風呂でシャンプーを洗い流すみたいにねずみ算を理解したんです。でも実際に言ってみるとわかりますけど、これでは言葉の水が流しっぱなしになってしまう。だから彼は『ワルシャワ』で体言止めをすることによってちゃんとシャワーのハンドルを閉めたんです。この『ワルシャワ』が凄くて、頭と結が同じ『わ』という言葉になっていますよね。これは漢字で円の輪という文字になる。『ル』も縷々という漢字で表記できます。途切れなく繋がっているという意味を持つ漢字ですよね? つまり『ワルシャワ』は輪と輪が途切れることなく繋がる連環の言葉になっていたんです。そして上の句のワシャワシャと下の句のシャワーワルシャワはワを入れ替えた円環構造。つまり『頭がワシャワシャのシャワーワルシャワ』は噴き出すのも仕方がないウィットに富んだダジャレだったんです。それを物事の理解という問と解が一致する状況で発するのですから、まさしく授業で使うに相応しいタイミングでした」

 水上さんは秘密を打ち明ける子供のような顔で言う。

「とっても面白いでしょう?」

 しかし僕はなかなか二の句が継げなかった。理解が追いつくには突飛過ぎた。

 その奇抜な言葉を発した小学生もそこまでの意味を込めていなかったに違いない。なんとなくの語感で口にしただけのはずだ。それでも十二分に変わっているが、小学四年生でそこまで一瞬で考察して爆笑する水上さんもかなり変わっている。というより逸脱した巡りの速さだ。

 ホラー映画の話題の時もそうだったが、水上さんはダジャレになっていないような言葉でも自己解釈で繋がりを見つけて変換してしまう。思考の流れがかなり特異というか、掴みどころがない。こんな彼女になんと言って忌避感を持っているデザインを促すことが出来るのだろうか。水上さんが好きらしいダジャレを用いるのがベストな気もするが、悔しいことに狙って作れるようなユーモアセンスを持ち合わせていない。

「……そのしょうじょうがはらさんも、凄いユーモアのセンスをお持ちだったみたいですね」

 何とか口に出せたのは、そんな毒にも薬にもならない感想だった。

 けど水上さんは顔をほころばせる。

「逢坂先生もそう思ってくれるなんて嬉しいです。愛梨も忍もなかなか理解してくれなくて。やっぱりホラーでほらぁなんてダジャレを思いつく先生は流石です」

 それは僕の言葉ではない、と喉まで出かかる。

 しかしその確信的な表情を見ていると言い出せなかった。

 きっとなにを言っても謙遜と受け取られてしまうのだろう。

「……受賞した作品も雑談から発想した冗談だと言っていましたね。タイトルも母音が同じだったからだと。水上さんの創作には言葉遊びが深く意味があるみたいですね」

「そうですね」

「いま描いているコアラも、何かダジャレの話題に関係のある絵なんですか?」

 話している最中もずっと手を動かし続けていた結果、食事中の親コアラの背中には子供がしっかりと張り付いていた。動物らしい無感情な眼差しでこちらを見ている。

「わかりません。けど、きっとあるんでしょうね。思いつきですから」

 これだ。

 水上さんを理解することを困難にしているのは、あくまで感性が先行して物事を受け止めているところで、理性はそれを補完するように働いているところだ。その隙間があまりにも短すぎて、かつ補完の仕方が独特だから、凡庸な僕は彼女の言動を上手く捉えることが出来ない。

 しかも水上さんは、あまり他人に理解を得ることに関心がない様に見える。そうなんとなく感じ取ったのは、先程の昼食でのやり取りでだ。特に親しい友人である衣笠さんや藤堂さんを相手にしても、水上さんは物怖じせずその独特な言葉を使う。僕から見ている限りそれらしい前振りや説明もなく、唐突に始まるのが水上さんのそれだ。

 しかし明らかな言葉遊びに他の二人が無反応だったとしても、なんら気にしなかった。伝えるつもりがそもそもないように思える。まるであやとりで一人、妙技を産み出すことに腐心している子供の様に。彼女の好奇心は自らの内側に向けられている。

 ————考えろ。

「何も見ずにサラサラと描いていますけど、以前にもコアラを描いたことが?」

「いいえ。テレビと図鑑で見たぐらいです。動物園では……観たことないですね」

 ————でも僕に出来るのか?

「この構図はその?」

「いいえ。でも観たことがあるので」

 ————何が正解なんだ?

「それでこんなに描けるのは凄いですね」

「そうですか? でも逢坂先生がそうおっしゃるなら、そうなんでしょうね」

————僕は、水上さんに何を語りえる?


「……面白いです。何がどう繋がって、この親子コアラに行きついたんでしょうね」

「はい、それが面白いから絵は好きなんです」

「ダジャレとコアラ。それに頭がワシャワシャのシャワーワルシャワ、ですか」

「ぷっ」

「僕が言っても面白いんですね」

「くふふ、人の口から聞くと別格です。それも逢坂先生が言うんですから」

「生まれて初めて口にしました。これから先も僕が思いつくことは一生ないでしょうね」

「そんなっ、はしたないですよ先生」

「また変なこと言いましたか?」

「いいえ?」

「わざと言ってます?」

「とんでもない。でも先生も————」


「ちょっと、いい?」

 不意に、声をかけてきたのは三橋さんだった。

 仁王立ちの三橋さん越しに、中腰になった衣笠さんがしまったという顔をしており、他の部員達はまたかという表情。

 つまり三橋さんは不満を持ってやってきたということだ。

 実際に、その声色はとてもちょっとには聞こえない硬質的なものだった。

「なに?」

 一方で水上さんのも酷く乾いていた。

 普段と同じく淡々としているが、衣笠さんや藤堂さんに向けるそれとは別物だ。

 昼休みに猪狩君が現れた時と同様の、退屈と無関心。

 それがわかったのは、この一瞬での変化があまりにも大きかったからだった。

「さっきから聞いてたけど、デザインとは全然違う話してるよね。昨日もだけど」

「ちゃんと関係がある」

「どこが?」

 否定されたことが気に入らなかったのか、三橋さんの唇が真一文字に結ばれる。

この状況はかなり良くない。

 二人が険悪にならないように、僕が前に出なければならない。

「イメージを固められるように色々と意見を出し合っていたんです。水上さんが何を面白いと感じているのかわかれば、デザイン作りのヒントに出来ると僕が言い出しました」

「じゃあそれは何ですか? それも体育祭のヒントなんですか?」

 指さすのは完成したユーカリを食べる親子コアラ。

 明らかに体育祭とは無関係だった。

「これは、その……」

 誤魔化す言葉が咄嗟に思いつかず言い淀んだのが悪かった。

 外見だけでもわかるぐらいに、一気に火がつく。

「やっぱり関係ないんじゃないですか。逢坂さんは実習生なんですよね。私、OBと一緒に作るのがいいって愛梨が言ったから許可したんですよ? これじゃ話が違いますよね。手伝うためにウチに来てるんでしょ? なのに水上さんと無駄話してばかりじゃないですか」

 ため込んでいたらしい不平不満が噴き出す。

 そのどれもが正しく、僕はなにも言い訳できない。

「逢坂さん、なんのために来てるんですか?」


 ————何のため?


 その問い掛けに躓いたのはなぜだ。

 本来は明確に答えることが出来るはずだ。

 個人的な事ならば、実習生として部活動に参加し生徒とのコミュニケーションから多くの学べるモノがあるからだ。顧問になるならば、部活での社会性や生徒の状態を把握する力を養うのは必須で、学生ではない立場からの視点を得るために必要なことだ。

 仮にも教師としてならば、生涯学習の基礎を促し、個々人の能力の向上を手助けする。部活動の教育的な意義は広く周知された効果的な活動だ。教師はその空間を整えることで、生徒に自主的な学びの機会を提供する。

 言おうと思えばいくらでも言える。

 取り繕うだけならば、簡単なはずだった。

 事実、水上さんにどう言えば制作に前向きになってもらえるか、僕はずっと考えていた。


 ————これは、駄目だ。


 急いで膨らみかけた善くないモノを押し殺す。

 これ以上、このことについて考えてはならない。

 そんな一瞬の空白に、三橋さんは畳みかけてくる。

「ほら、何も言えないじゃないですか。別に顧問がいなくても私達はちゃんとやれてます。水上さんだって出来ないわけじゃないんです。一年生の時に全国コンクールで受賞出来るんですから、いくら興味がないからってデザインぐらい集中すれば描けます」

「私が何を受賞したかなんて関係ない。それに逢坂先生は必要」

失敗だ。水上さんに反論させるべきではなかった。

 僕が口を開く前に、三橋さんが矛先を変える。

「どこが?」

「絵ならたくさん描けてる」

「じゃあ見せてよ」

「……これ」

 水上さんが手元のスケッチブックを三橋さんに手渡す。

 それを無造作に受け取った三橋さんは、パラパラとページをめくり続け眉を顰めた。

「これのどこが体育祭に関係があるの? テーマもモチーフもバラバラじゃない」

「……バラバラじゃない」

「だから、どこが? 関係あるなら説明して」

「それを逢坂先生と話してた」

「説明できないならやっぱり関係ないんじゃない」

「……そんなことない」

 水上さんはいつになく歯切れが悪い。

 体育祭に関係がないのは事実だからだろうか。

 彼女を困らせているのは僕のせいだ。

 初めからちゃんとしていれば、こんな事にはならなかった。

「じゃあ聞くけど、このままで明日には完成するわけ?」

 三橋さんは勝ち誇るように言った。

 言葉数少ない水上さんを見れば、それが不可能なことを推し量るのは容易だった。

「ほら、無理なんでしょ?」

「……そうは言ってない」

「なら早く描いて。逢坂さんも、もう水上さんと作業するのはやめにして一年生の面倒を見てください。デザインの手伝いはできなくても基礎を教えるぐらいはできますよね」

 もう三橋さんの中では決定事項のようだった。

「これ以上邪魔になるなら、学校に報告しますから」

 言いたいことは言い終えたと口を閉じて僕達を見下ろす。

 わきあがる感情を押し殺して、答えを探すために必要なことだけを考える。

水上さんの才能、三橋さんの正しさ、実習生としての立場、美術部の環境、水上さんの友達、学校側の対応、水上さんの立場、将来、最善、問題と解決、残りの時間、言葉、美術、水上さんの考え、参考書、教職課程、言葉、正しい言葉、誰もが納得するための言葉。

「————」

 ぞっとした。

 本当に、僕はなにも知らない。

 かける言葉が見つからない。

 こんな状況をどうにかする知識を、僕は持ち合わせていない。

 そんな僕がなにも言えるわけがなかった。

「……三橋さんの言う通りです。水上さん、僕は邪魔にしかなっていませんでした」

「そんなことありません」

「いえ、本当は僕がきちんと促すべきだったんです。実習生として申し訳なく思います」

 なんて軽い言葉だろう。

 ただこの場を収めるためだけに、僕は口を開いている。

「先生は、そうするべきだと思いますか?」

 水上さんの瞳が、真っ直ぐにこちらに向けられている。

 あの絵のように、僕をみて、何かがその奥で生まれている。

 また僕の中でナニかが膨れそうになった。

「それが正しいと思います。大丈夫、水上さんならできますよ」

 目を逸らすような微苦笑を浮かべた。

 じっと彼女は僕の言葉を咀嚼していつも通りに、淡々と口を開く。

「わかりました」

 その時、水上さんが何を考えていたのか、やはり僕にはわからなかった。

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