2-4
僕は教職員用の下駄箱に向かう前に、来客者用の応接室がある廊下を歩いていた。
校長室が近いからか学校全体の職員室にまだ先生が残っているからか、廊下にはまだ灯りがついている。それでも外はとっくに日が暮れており陽の光がないだけでまるで別世界のような気がする。これから夏にかけて日が伸びて虫の音でも聴こえれば風情があるのかもしれないが、冬場の凍てつく空気の中を歩く気にはなれないなと思う。
職員用の昇降口に行くには、この道は遠回りだった。
水上さんの絵が飾られているであろう場所は、この廊下の先にある。
絵にはその人物の全てが現れる、大学で同じ絵画研究会に所属している批評好きな先輩がそう豪語していた。絵に限らず人が創る全ては創作者のペルソナであると、ゆえに感動すると。
そんな体験は今まで一度もしたことがないが、しかしあの歳ですでに同世代から天才と称される人物だ。観たところでなにもわからないだろうが、人物像を掴むちょっとした手掛かりになるかもしれない。それに純粋な興味もあった。
あるいは教師になることが出来れば変わった生徒と向き合う機会も出てくるだろう。その時に動じることなく対応するには、この二週間で水上さんとコミュニケーションを取ることは良い経験になるかもしれない。作品の感想はその手段としては有用だろう。
そんな浅はかな理由付けをしながら、僕はその場所にやってきた。
初めての授業、葉山先生との再会、新島先生との反省会、そして天才少女。
変な意味で心が浮ついていたのかもしれない。
気の迷いに突き動かされて、らしくないことをしていたのかもしれない。
しかし来客品に向けて展示された賞状やトロフィーと共に飾られているその絵を観た瞬間、ごちゃごちゃした雑念は突如として消え失せた。
「————」
それはS10号サイズの人物画だった。
どこかの仄暗い部屋の一室、所々にカビや剥がれのある漆喰の壁材を背景に具象的に描かれた女性が座って、僕をみていた。
女性は何歳なのだろうか、それがなぜかわからない。少女であるような、妙齢の女性であるような、あるいは歳月重ねたの老婆でいるような、ひどく不安定で捉えどころがない。白いシャツとやや傷んだ髪が特徴的で、彼女が誰であるか判別できない。
他には中に何が入っているのかわからないゴミ袋、日焼けした棚にはボロボロの人形と重なった皿、降り積もった塵。一見すると物足りないと思うかもしれない。
しかしそれは意図された欠落だった。
他に目を向けても、自然と女性へと視線が戻っていく誘導。
必ず彼女と目が合うようになっている。
僕を一点にみつめている彼女の瞳へ。
絵の向こう側の彼女が、僕をみている。
不意に押し寄せる不安感。
僕はこれを知っていた。
けれどどこで知ったのかがわからない。
この不躾との取れるような視線。
僕の外側ではなく内側まで覗き込もうとしているような、そんな恐ろしいまでの視線。
今にも絵から飛び出してきそうとか、何か語り掛けてきそうとか、そんな生き生きとした力強さではない。出来ることならそのまま向こう側にいて、僕のことなど忘れてほしい、興味関心が僕から外れて、別の誰かを見てくれないかという情けない希望を持つ迫力。
————みられてる。
彼女の視線に耐えられなくなって思わず目を逸らした。
無機質な床に視点を固定して、意味のわからない混乱を静めようといつの間にか乱れていた息を整える。そしてその間もずっと、彼女がまだ僕をみているのかと不安に駆られ続ける。
自分にいま何が起こっているのかわからない。
鞄を持つ手が底冷えしたかのように固まっていた。背中から肩にかけて異様なこわばりがあって、発散させるためにすぐにでも鞄を投げつけたい。
しかし金縛りにあったかのように動けない。僕にはそれが許されない。
わけのわからないモノへの恐怖。
有名絵画の展示会や才能ある現代美術家の個展でも、こんな感情は産まれなかった。
無縁だと思っていたそれにたじろいで、様々なナニかが外からも内からもまとわりつく感覚。
明らかに僕は混乱している。
しかしやはり、それが何故なのかがわからない。
「……」
恐るおそる、もう一度その絵へと眼を向ける。
女は相変わらず僕をみている。
突き刺すような沈黙は僕のモノなのか、それとも彼女のモノなのか。
先程はすぐに目を離せたのに、今度は鷲掴みにされたように動けない。
その底知れぬ瞳に僕は映っていない。
この絵が好きなのか、嫌いなのかわからない。
こんなものが世界にあるだなど信じられない。
一体何を考えていれば、このような絵が描けると言うのだろう。
落ち着けるために一呼吸入れて、作品の真下に取り付けられた絵画プレートを見る。
『A・A・O』
意味はわからなかった。
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