私の歪んだ初恋

藤花 泉

一話完結読み切り

ある日、それは本当に突然で、なんの前触れもなく、なんの予兆も無く訪れた身内、それも父親という自分にとって、人間にとっての指針たりえる存在の死が先ず私に与えたのは、悲嘆などという受容よりも、そんなはずがない、全くの嘘であり何かの間違いだ――という無意識的に現実を排斥する恐怖であった。


 それは私、秋田彩夢あきたさいむが、馬齢まだ十七という中等教育真っ盛りの未成年であり、人間的にみても子供から大人へと移り変わっていく一番中途半端なマージナルマンであったために、まさかそのようなことが起きるとは予期していなかった、人間という生物の脆さを、未来に対する恐怖をまじまじと痛感させられてしまったからであった。


 頭の中が真白になり、どろどろと溶けるように、ぐちゃぐちゃと混ざるように何も考えられなくなり、それは身体にも影響を与える。

 心臓の鼓動は加速し、それは鼓膜につくほど強く大きい。心音をかき消すかのように次第に息も上がりだし、足も震え腰が抜けてその場で崩れてしまう。


 自分の家族が死去すれば、どんなに仏頂面な人間でも、家族にあまり良い思い出が無い人間でも、小さじ一杯ばかりでも悲しみの感情を露わにするものだが、そういった雰囲気を本心でなくとも見せるものだが、一方で私は本来の家族が死した時に抱く感情としては甚だ乖離した、大きすぎるものを懐抱していたのだ。


 それはまだ、私が未成熟であったという所でもそうだが、それよりも、私にとって父親――秋田あきた白磁はくじとは世界でたった一人の家族であり、父親であり、そして何より、大切な想い人であったのだ。


 虚脱状態にあったにも関わらず、少し残された理性で私ができることは何かを考えた結果、誰かにこの事実を告白することだった。

 本来ならば私の祖父母に当たる人物、つまりは白磁さんの両親に伝えるのが普通なのだが、不幸なことに、彼がまだ幼い頃に事故で亡くしている。それ以外の親族情報は、話してくれたことがなかったので、私は彼の幼馴染をあてにしたのである。


 負の感情が蠢く胸中、それはあまりに短くはあるが、丸々一日を使って落ち着かせた――それは半ば無理矢理であり、実を言うならば今でも後を追いたくなるが、それも結局は恐怖で一歩踏み出すことができなかった――学校では優等生と呼ばれる立ち位置にいる私が、次の日早朝から学校を休んでまで目を赤く腫らして訪ねたのは、三十五で他界した父と同年の馴染みのある女性であり、その人物には幼少の頃から私も大層お世話になった事のある方で、心から信頼している里咲りささんであった。


 現在時刻は6 a.m. こんなにも早くから申し訳ないと思える程の気持ちは持ってきた。と言っても大抵の社会人ならば既に起床しており、朝食か身支度か、どちらにせよ朝の過程の最中といった頃合だろう。確実に出てくれることは間違いないのだ。

 そうして呼鈴を鳴らす指先は、震えが止まらないでいた。


 チャイムを鳴らしてから彼女が出てくるまでの時間はそう長くはなかった。

 むしろ出てくれない方が自分の為にも良かったのではないか? だがそれは問題を先延ばしにするだけで現実からは逃げられない証明でもある。

 つくづく残酷な現実を私は一生恨む、そんな絶望に満ちていた。


 時間は要さずガチャリとドアが開かれ私を見下ろす里咲さんは、地面と床面で段差があることを加味しても、女性の中でも百七十センチと身長が高く、胸部は耽美に腹部は引き締まった、女性であれば憧れを持たない人間のほうが少ないだろう――無論それは私も例外ではない――所謂モデル体型である。

 本来なら一つに纏めているはずの黒真珠のように美しく長い髪はストレートに流し、コンタクトレンズでパチリとしているはずの瞳は眼鏡のレンズ越しから――それは寝起きの影響も関係しているだろうが――少し目つきの悪い感じに、だが美しさは失われていない。

 格好の良いレディーススーツ姿が見慣れたはずの容姿は、まだ変身前のカジュアルな衣装であることから、つい先ほど起床したのが伺える、彼女が朝に弱いことの証明になっているだろう。

 ここまで不格好であるにも関わらず、その美しさは消えるどころかむしろ増しているとさえ思えるのだから人間という生物は無情で理不尽である。


 私も幾度となく魅了され、時に憧れ、時に嫉妬し、その実、絶え間ない努力が裏打ちされていたことを知った時は酷く感嘆させられたものだ。

 そんな私にとっての聖像である里咲さんの優しさに満ちた素顔が私に与えた感情は、何よりの安堵であった。対面一番、涙が止まらなくなってしまった。


 彼女にとってはそれが突然のことに違いない。だというのに、そんな私に里咲さんは目を丸くするだけで、声色には特段慌てる様子は無く、「中に入りな」と一言導いてくれるだけだった。何があったか知りもしないのに、まるで全てを分かったように大人の余裕を見せる彼女に、未成年の私は間違いなく安心を覚え、どうしようもなく泣きついてしまったのだ。


 その日、里咲さんは私の心身を労わって、本来休むべきでは無い会社を私のために休んでくれたことに、私は少しばかり胸を痛めたが、それでも里咲さんは有給を使っただけだから、と私を放念へと導いてくれた。


 それからも、私は極めて報告しようと努力したのだ、だが止まることの無い涙は私に話す権限を与えず、ただひくひくと喉をうわづらせるだけになってしまっていた。


 やがて落ち着きを取り戻した、いや、正確には泣き疲れた私は、まるで赤子のように眠りこけてしまったのだ。これに関しては大変申し訳ないと心の底から思ったが、私としても言い分はある――というのは単純な話で、昨日のショックからろくな快眠が取れなかったからにすぎない。故に彼女の存在に私は堪らなく安心し、このような事態だというのにも関わらず醜態を晒してしまったのだ。

 子供とは違い、社会人という身分にある里咲さんの時間は大変貴重なものであり、それを無駄に浪費させてしまったことに対する罪の重さは計り知れない。こんな私の姿を見てなお憤怒に燃え、怒鳴り散らす人間だっているはずだ。

 だのに、目を覚ました時、私の頭は里咲の太腿の上で、里咲さんはただ私の頭を優しく撫でていたのだ。


 物心がついた頃には既に父しかおらず、母親というものをろくに知らなかった私が唯一母と呼べる存在、それが紛れもなく里咲さんであったのだ。


 夢を見るような事もなく、ただつまらなく身体の回復を務めていた眠りから現実を取り戻した私は、里咲さんに一言軽くではあるが気持ちは極めて真剣に謝罪を述べると、机を挟んで対面するように正座へと向かい合った。


博慈はくじさん――お父さんが死にました。昨日の夕方十八時頃に、大塚海岸で発見されたそうです」


 本来ならまだ憚りたい言葉、ようやっと口にできたその言葉が、真に私に現実を突きつけたことは間違いなかったが、これまでのような哀惜は無く、胸のつっかえがスっと取れたような軽さだった。それと同時に私の後追いしようという早まった考えも、いつの間にか消えていた。


 事態があまりにも急激で、それは里咲さんからしても顔に出てしまうほどに予期しないものであったことは間違いないだろう。

 二人の間には長い沈黙が続いていたが、それを破ったのは里咲さんである。


「……にわかには信じられないけれど、私はさいちゃんがそんな冗談を言わないって分かってるから、紛れもなく真実であることは確かなんでしょう。だとすると死因は何なのかしら? 少し前も会う機会があったけれど、あの人は特別病気なんてものは持ってなかったわよね? 至って元気な健康体だったし、我慢をしてるようにも見えなかったわ。それに彼は才にこそ恵まれていたけれど、自分と他人との違いをしっかりと理解し適応していたし、特定の誰かから恨みを買うような人間ではなかった。そうなるとやっぱり自死しかありえないと思うのだけど、あの人が貴女を置いてそんなことを選ぶはずがないのも分かってる。これでも私は彼の幼馴染だからね。だとしたら、またどうしてそんなことに?」


「はい、確かに父は死ぬ前日……いや私が学校に行くまでの数時間前まで元気だったし、病院にかかりつけてるような感じでもありませんでした。仕事に関しても、自分の好きなことを職に持っていましたから不平は無かったように思えますし、酒や煙草もやりませんでしたから、一般の壮年男性よりも極めて健康に近かったと言えるでしょう。だからこそ私も信じられない話でした。それには信じたくないという願いも込もっていましたが、それでも信じられない理由が明確に存在していたのです。なのに――」


 話す内に高まった感情をぐっと歯噛みすることで堪える。自分の身勝手な我儘でこれ以上里咲さんの大変貴重な時間を浪費させてはいけない、そういった意味をふんだんに込めて。

 ごめんなさい、と話を途切れさせてしまったことによる謝罪を挟む。

 そうして一息つこうと思い、息を吸ってから吐く瞬間、気息の他にも出てくる感情ものが残っていたことを悟った私はぎゅっと力強く目を瞑ると、左手で眉間をつまみ右手を少し前に出して、今度は口に出さずに謝罪の意を伝える。


 そうして一時的にだが、本来であれば吐き出して会話を中断していた所の時間短縮を測り、それは見事に成功したと言えるだろう。

 私は何事も無かったかのように、だがそれは少し無理があるが、先刻変わらぬペースで話を続けた。


「どうやら検視官が言うには、事故でも自害でもないと」


「じゃあやっぱり病気なの?」


 改めて病気かと問われれば、素人の私でも――いや素人だからこそ納得し難いものがある。それはもう、病というよりかは怪奇に片足を突っ込んでいるようなものだからだ。

 だがそれを露わにしたところで無駄に話をややこしくするだけなのは分かっている。

 一先ずは――といっても専門家がそう判断しているのだから、先ずもくそもないのだが――病気として受け入れることにする。


「はい、信じられないかもしれませんが……死神病という奇病らしいのです」


「死神病? 聞いた事がないけれど……」


 初めて聞くその病名に里咲さんは眉を顰めた。

 それはそうだ、私とて初めてその病気を聞いた時は里咲さんと全く同じ顔をしたものだから。

 しかもその名前が死神ときた。全く巫山戯ているとしか思えなかった。

 無論、その時電話で伝えてきたのはその道の専門の方であり嘘をつくなどとは到底思えない。

 ここ数年では電話を使って身分を偽る詐欺なんかも流行っているが、その相手はインターネットが世代にあたるバリバリの女子高校生だ、言わずもがな引っかかるはずもない。

 内心では分かっていた、だが信用できなかった、信じたくなかったのである。


 そして当然の如くそれは正式的なものでは無かったのである。


「正式的な名称は急速性才多腐朽病(きゅうそくせいさいたふきゅうびょう)。その名の通り、類稀なる才能に恵まれた人間が、ある日突然なんの脈絡もなく死に至ることから天に誘われている、そしてその全員が、魂が抜けたように死亡していることから死神病と名付けられたそうです。天才と評される人間が尽く早死することから、別名天才病とも」


「天才病ね……妙に納得だわ。確かに彼も、その道じゃ有名人さんだったものね、作詞作曲及び関連する業務を全て一人でこなしていた稀代の天才クリエイター『Haku』。幼馴染ながら天上人のような人だったもの。ま、幸いと言っていいのか勿体無いというべきなのか、彼自身見た目に気を遣うタイプでは無かったから、女っ気一つなかったけどね……」


 里咲さんが学生時代の彼の評判を寂しげに回想し終えると、どうして、というため息に混ぜられた独り言が漏れ出ていた。


 話題が話題なためお互い沈んだ表情で、二人の間にはまた少しの時間が空いていた。

 やがて里咲さんはよいと徐ろに腰を上げると、タンスの引き出しの前に赴き開ける、そして一本の煙草とライターを取り出した。

 カチリという引き金を引く金属音が鳴ると、赤い炎が点火される。煙草の先端からは煙が立ち上っていた。


「ごめんね」


「煙草……吸ってたんですね。いつから?」


 これまで里咲さんが私の前で煙草を吸うことはなかったし、そんな素振りすら見せなかった。いつ出会っても何処で出会っても、煙草が発するあの鼻にくるような独特の臭いなんてものはしていなかったはずだ。私の身内にはタバコを吸う人間はいなかった――その言葉はここで撤回されるが――が、それでも煙草の臭いは分かりやすく憶えているものだ。

 里咲さんは香水をつけるような人でもないから紫煙をくゆらせていれば十中八九ヤニ臭くなるだろう、なのにこれまで一ミリたりともセンサーが反応しなかったのだ、故に私はその事実に大層驚いた。


「んーやっぱり不味い」


 煙草を一吸い、そう言って里咲さんは舌先を少し出しながらはにかむと、同じ場所に収納してあった灰皿に、火で燃やした巻紙と呼ばれる部分をグリグリと押し当てそのまま捨てた。

 そうしてもう満足いったのか、窓を開けて煙草の煙を外へ逃がすと灰皿を洗いにシンクへと直行した。

 これには私を気遣ってということも確かにあるのだろうが、普段の里咲さんを鑑みれば、何よりもその迷いのない行動は煙草を吸った後の定型に思える。


「いつだったかだよねー、えーっと、煙草自体は大分前……大学時代からだったかな。誰かに誘われたでもなく、単純に興味があったからよ。まぁそんなに美味しくなかったから、吸ってなかったんだけどね、年に一回あるかないかくらい。それでもどうしても辛い時とか我慢できない時は、縋ってしまうものなのよ。それが人間なのよね」


 少しばかりの洗い事を淡々とこなしながら、私の問いに応えてくれた。


 つまりは白磁さんの死というものは里咲さんにとってもそれほど重く堪えたものであったのだ。

 私は里咲さんのその反応が少し意外に思えた。

 何しろ私には里咲さんと白磁さんの関係のように幼馴染と呼べる関係値にある存在がいない。ゆえに里咲さんがそこまで陥っていたとは思わなかった。

 確かにこの二人は、大人になった今の今まで関わりを持っていたのだからそれなりに仲が良いとは思っていたが、これまでの会話を思い返してみても関係値的な面でみればわりかし淡白であると思っていた。

 まあ、だからといって何かがあるわけでもないのだが。

 独身主義を掲げる里咲さんが、白磁さんに対して恋愛的な面で想っていないことは知っているし、それは生前の白磁さんもそうだ。

 では、ここで私は結局のところ何を言いたかったのかといえば、単純な話、二人の友情のそこが垣間見えたのである。

 男女の友情はあるかないか論争は、この二人に関していえば、あると断言できる。無論そこに性的欲求は皆無とした上でだ。


 これまで私は自身の感情というものを白磁さん以外の人間にあまり、いや全くといっていい、吐露してこかなかった、俗にいう寡黙であったわけだ。

 高校に進学する時期へと移り変わっていくにつれ、私は様々な葛藤を抱き、白磁さんを父としてではなく、一人の男性として見るようになってしまったのだ。

 おかしい、異端――そんなことは自分でも分かっているのだ。

 だから必至に必死に抑えようと善処していた。

 どこまでいっても父は私の事を女として見てくれないことも分かってた。

 それでも、それでも、それでも……私は……。


「わたし、お父さんに恋してたんです」


 今となったから言えることなのか、全てを、自分という存在を否定されてもいいと、諦めから出た本音なのか、ぐるぐると渦巻く私の心情は、どうして里咲さんにその秘匿を吐かせたのか、解は見つからなかった。

 ただ、やっと楽になれたという繋縛からの解放は、沈みゆく私の身体を引き上げてくれていた。


 里咲さんは何も言わない。

 吃驚して言葉がでないだけなのか、私の正体が父親に恋慕する狂人と知って失望しているのか、言った後からじわじわと湧いてくる恐怖。実の母のように慕い、尊敬し、憧れていた人に嫌われる恐怖。

 縛りから解放された身体に何十トンもの重しが圧し掛かるのを感じる、つまりは逃げたくても逃げられない。ゴルゴンに睨まれたが如く、鉛が身体に詰まっているが如く、動くことを不可能とし、苛烈な恐怖に身は支配されていた。



 ――ああ、死にたい。


 白磁さんに会いた――、



「――うん、知ってるわよ。彩ちゃんがあの人を好きだったことくらい」


 ――え。


「し、知ってるって……どういうことですか? だって私は今まで一度もそんなこと……」


「あ、彩ちゃん動揺したね? フフフ、懐かしいなその感じ。ここ最近はどんどん大人になっていくんだもん、寂しかったんだからね」


「ふざけないでくださいっ!」


 予期しない私の怒声は、思いの外大きく響き、空気に凍りをもたらしていた。


 露骨にはぐらかす里咲さんに私はどうしようもなく怒りをぶつけてしまった。

 分かっている、その怒りがお門違いなのは十二分に理解できているのだ。

 なぜならこれまで必死に隠秘していたのは間違いなく私のほうであって、言ってしまえば里咲さんは何の前置きもなく突然聞かされた身。だからこそ私だって一時の感情の高ぶりで、打ち開けてしまったことを後悔し、嫌われる恐怖を、関係の断絶を、半ば諦めだが覚悟していたのだ。

 だがその実は、予想から随分とかけ離れたものだったのだ。私としてもまだ想像通りにいった方が、気持ちとしては楽だったのかもしれないと思ってしまったほどだ。

 その上、茶化すようなことも言われたら、私のしてきた危惧は、不安は、恐怖は、どこへ向ければよいのだろうか? いや分かっている、本来ならば何処へも向けずひっそりと消化させるのが一番であるということは。だが私とてまだそこまで大人にはなりきれていないのだ。

 確かに非があるとしたら、それは間違いなく話を持ち掛けた私だ、だがその非を私一人が背負わなければいけないのはおかしくはないだろうか?

 私がまだ未成年ということを知りながら、そこを考慮できなかった里咲さんにも少しはあるのではないだろうか――いや、これ以上はやめよう、結局はただの八つ当たりなのだ、馬鹿にされたような気がしたという、身勝手も甚だしい子供の癇癪。


「――ごめんなさい、急に怒鳴ったりして」


「言ったでしょ? 彩ちゃん、最近はどんどん大人になっていってるって。これでも人生の先輩だからね、女の子の、それも多感な時期の高校生の変化なんて手に取るように分かるわよ。こと彩ちゃんにおいては特に分かりやすかったわよ」


 そうだったのか、とそうして思い返してみると、確かにと納得できてしまうことが数多あった。

 日常の態度や距離感、露骨なところでいくと名前呼びをしていたのが正にだった。

 急に顔は燃え上がるようにあつくなり、自分はまだまだ子供だったことを思い知らされた。


「それはそれとして、私もごめんなさいね。お相子ってことで始末をつけます」


 目上の者が目下の者に対して素直に非を認め、謝罪をできる人間というのは実のところ少ない。大人という生き物はそれだけ背負うものがあるからだ。立場や階級が上であればあるほどに。

 そういった社会的な面でみれば、ペコペコと何に対しても謝罪をする人間というのは必然的に舐められ、あまり良いとはいえないだろう。

 だがそれとこれとは別である。

 社会的にはナンセンスだとしても、里咲さんの人としてあるべき姿はまさに模範的といえるだろう。

 すごい人だ、と私は自分と里咲さんを比較してしまい、こんな自分に対して少し悲嘆してしまった。


 さて、と里咲さんは話を続けて。


「話すタイミングは今でも迷ってるし、正直話したところで何かあるわけでもない。でも何時かは絶対話さないといけないから、あの人にも相談されてたから――まあ、死んじゃったら意味ないんだけどね――今ここで、彼は怒るかもしれないけど、真実を話します」


 真実とは何か、思い当たる節があるのだとすれば、やはり私の母親のことだろうか?

 幼少期の、まだ純粋に父を好きだった頃に、私は訊ねてみたことがあるのだが、当然というべきか、当時の私には刺激が強すぎるとされて、当たり障りのないことで上手くはぐらかされてしまったのだ。

 その他には……いや、変な思慮はよそう。

 もしもその予想が外れてしまった時、酷く落胆し興味の消失から頭に入ってこなくなることが目に見えているからだ。

 そうなった場合、満を持して打ち明けてくれた里咲さんに対しても、酷く性悪な対応をしてしまうことになる。

 今の私に求められているものは、内容が何であれ真実に対する興味のみだ。


「……聞かせてください」


 私は啼泣で疲弊した声で、重々しくたずねてみた。


「実はね、彩ちゃんは白磁くんの子供じゃないの」


 正に衝撃極まりない真実に私は目を見開いた。

 本来の子供ならばこういう時、どういう反応をするのが正解なのだろうか?

 血が繋がってなかったことによる途端の気まずさ? 

 生憎私にはそれがない。もう既に父はこの世を去っているのだから。それに私からすれば、それは寧ろ喜ばしいことなのだ。だって、もしもそれが本当なら、私は私を許せるのだから。

 故に私は言葉を詰まらせた。その真実にどう反応すればいいのか、分からなかったのだ。

 だからといって、さすがに何も喋らないのは不味いだろう。聞かせてくれと自分から頼んでおきながら、語った相手に対して薄い反応で返すのは聊か失礼にあたるからだ。


 では一旦思考の切り替えを図ろう。

 とはいってもシンプルに、自身の疑問を提示するだけで良い。


「じゃあ私は誰の子供なんですか? 私の本当の両親は何をしているんですか?」


「ちょっと待ってね、それを話すと長くなるから」


 そう言って里咲さんは、クローゼットの中から一箱のダンボール箱を取り出すと、底の方に手を突っ込み、眠っていた一冊の卒業アルバムを取り出した。

 諸事情で高校時代から一人暮らしを始めていた里咲さんは、時間の問題から金銭の問題から、今でも転居をせずに住み続けているため、学生時代のアルバムが残っているのは不思議ではない。

 学生時代とは苦い経験をした者も楽しかったと貴ぶ者も、その当時の思い出の品というものは歳を取るにつれて不要になり、失くしてしまう人が殆どだ。ことアルバムにおいては猶更。


 クローゼットの中には他にも数多くのダンボールが収納されており、一目見ただけではどれがどれだか分からない。それは、仮に私がこの部屋の主だったとしても、忘れてしまってアルバム(それも底に眠っているため分かり辛い)の入ったダンボール箱を探すのに手間取ってしまうだろう。


 だが里咲さんの一連の動作には迷いが一切なかったのだ。

 アルバムにはかなりの経年劣化が見られるため、少なくとも高校時代以降からは開いてなかったように思える。

 単純に記憶力が良いのか、彼女にとって高校時代がそれほどまでに価値のあるものだったのか、彼――白磁さんと共に学生生活を過ごしていた里咲さんを、私は身勝手に羨ましく思ってしまった。


「これはね、私が――いいや、私たちが通っていた高校の卒業アルバムなんだけど……」


 里咲さんは含みのある言い直しをして勿体ぶる。

 安直に考えれば私たちというのは里咲さん本人と白磁さんのことになるのだろうが、その間の取り方からして、二人だけのことでは無いのは明白だ。

 一枚一枚、過去を偲ぶ表情で、時に目尻に雫を乗せながら、四人集まったある一枚の写真が載ったページで手を止めた。

 そこには里咲さんと白磁さんの他に、二人の男女高校生が写っていたのだ。


 この二人は――。


「ねえ彩ちゃん、この二人、誰だか分かる?」


 優しい口調で里咲さんは私に問いかける。

 残念なことに私の記憶の中には、この二人、若しくはこの二人に類似する人間はいない。

 だが、この写真を見ているとどことなく懐かしくなり、胸がキュッと締め上げるのは何故だろうか?

 私はこれを、学生時代の白磁さんを知れたことの対する歓喜と、同じ時代に生まれられなかったという憤懣やるかたない思いが融合して成り立ったものだと認識した。

 だがそれは違ったのだ。


「その口ぶりからして過去に私も会ったことがあると思うんですが……すみません、やっぱり思い出せそうにないです」


「当時の彩ちゃんの年齢を考えれば、まぁそうよね、仕方ないわ。でもね、この二人は私にとっても彩ちゃんにとっても、そして白磁くんにとっても……大切な人たちだから、絶対に忘れないであげてほしいの……」


 言葉の中途で感極まったのか涙声で話し終えた里咲さんを見て、私は酷く唖然とした。

 私の中にある里咲さんとは、正しく完璧な女性だったのだ。要領がよく好きなことに努力は惜しまず、確りと自分を持ち人生を謳歌している。まぎれもない私の理想像であり憧れの人物だった。

 そんな里咲さんの初めて見る涙に、私は少し肩の荷が下りた気がした。

 自分らしくあることの本当の意味を知ったのだ。


「ごめんね、何を言っているのか分からなかったわよね」


「い、いえ、大丈夫です。それよりも私にとっても大切な人たちっていうのは……?」


「ああそうだったわね、ごめんなさい」


 この年で、それも高校生を相手に大人気なく感情を吐露してしまったことが仇となったのか、里咲さんは少し恥ずかしさを見せながら深呼吸を一回挟んだ。


「この二人――龝葉あきばくんと晴美はるみが、彩ちゃんを生んだ本当の両親なの。そして白磁くんは、晴美の事が好きだった。懐かしいわ」


 ああ、これまた衝撃である。

 とはいっても今回ばかりは話の流れからある程度の予想を立てることができたため、いくぶん覚悟はできていたが、それでも鳩に豆鉄砲ではあったのだ。


「それって、つまり私は……。え、何で私は白磁さんに……? いや、それよりも、今この二人は何をして……? すみません、聞きたいことが山だらけで、何から聞けばいいのか」


 白磁さんの死をきっかけに私に降りかかった重々しい真実と数々の疑問で頭が殴打される感覚。

 私の、本当の両親は今何をしているのか、何故私は白磁さんに育てられていたのか、そしてもしも仮に里咲さんの話が本当だとして私の母親が晴美という人物であった場合、私は白磁さんが好きだった子供ということになる。

 それはつまり……。

 もう今更、意味も無いのに微かに湧いた希望に、私はどうしようもなく苦しくなった。


 ――何で、何で死んじゃったの、白磁さん。

 私、貴方のためなら、何だって、母の代わりにだってなれたのに。


「ごめんなさい。混乱させちゃったみたいね、無理もないわ。少しづつ話していきましょうか」


 苦衷に歪んだ表情を見せる私を里咲さんは悟り、優しい声色で包み込む。


「教えてください。この二人は、私の両親は今何をしているんですか?」


「……仕事の帰りだったかしら、事件に巻き込まれて死んだわ、二人ともね。彩ちゃんが二歳の時だった。当時、彩ちゃんはまだ子供だったから、白磁くんの家に預けられていたんだけど、きっと刺激が強すぎたんでしょうね、しばらく寝込んでいたもの」


「じゃあ、私が白磁さんに育てられるようになったのはそこから?」


「白磁くんが彩ちゃんを育てた理由は、ただの未練か、それとも他に何か理由があったのか、それは彼にしか分からないわ」


「両家の両親、私の実の祖父母たちは……?」


「これに関しては、元々ね、私たち四人は特殊な親の環境で生まれ育った人達の集まりだったの。言ってしまえば傷の舐め合いね。白磁くんは幼い頃に両親を亡くしているし、龝葉くんと晴美は典型的な虐待親、私は……勉強に支配された毒親といった所かしら。そんな訳だから、みんな高校卒業と共に絶縁をしていたの」


「二人にとって頼れる存在が、白磁さんと里咲さんだったって訳ですか」


「そう、なら嬉しいわね」



 ――私と里咲さんの間には、暫くの間があいていた。

 お互い気持ちの整理が必要だったのだ。

 里咲さんは言う。


「その、今まで黙っていてごめんなさいね。本来なら彩ちゃんが二十歳になった時に言おうって、あの人とも話ていたのだけれど」


「驚く事ばかりで、今も私にはどうすればいいのか分かりません。でも良かった、その話が聞けて」


 胸の内だけに残った懐かしい感覚の真実とともに、私はその真実に救われた。

 だってもしもその話が私を慰めるためだけの戯言などではなく本当ならば、私の白磁さんに対する気持ちは幾許にも正当性が増すではないか。

 私は、自分のこの恋心に気付いてから、いつも異常な人間であるという自覚を持って生きてきた。


 ――あぁ、やっぱり私は、普通だったんだ。


 白磁さんの死をきっかけに泣きじゃくり枯れたはずの涙が、再び目尻に浮かび上がり、視界に靄がかかった。

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