死なない病と廃工場

戸成よう子

第1話

 まあ、座れよ。

 何、椅子がない? そんなもの、ベッドの縁でも床でも、好きにすればいいじゃないか。とにかく、長くなるかもしれないから、どっかに座れ。

 長居する気はない、か。お前の都合なんて知るものか。無法な真似をしてきたのはそっちじゃないか。へとへとになって駐車場に車を入れてみれば、妙な奴に物陰から襲われそうになって。こちとら長旅の疲れもまだ残ってるのに、野暮用で出掛けなきゃならなかったんだぞ。久し振りの日本だってのに、ゆっくりもできやしない。

 野暮用ってのはまあ、あれだ、気になることがあって。人探しみたいなものだ。

 それで、疲れ切って帰ってきたら、待ちぼうけを食わされた野良犬みたいなのが柱の陰から飛びかかってきた、ってわけだ。お前のことだよ。

 一体、何なんだ、お前。

 でも、まあ、いいや。てめえがここへ来た理由はなんとなく察しがつく。その理由と、俺の人探しが、たぶんリンクしてる、ってことも。

 で、どうする気だったんだ。俺を殺す気だったのか?

 そっちが何かする前に反撃したから、わからなかったけど、どうせナイフでも隠し持ってるんだろ。

 いいよ、ナイフは持っとけ。悪いけど、お前なんか少しも怖くないんだ。

 それより、少し飲もうぜ。ホテルに帰る前にコンビニに寄ってきたんだ。シャワーでも浴びて、気分をすっきりさせて、侘しく一人で一杯やろうと思ってさ。

 ほらよ、両手を自由にしてやる。缶ビールでいいよな。

 なんでこんなことを、って顔してるな。さっきも言っただろ。お前なんか少しも怖くない、って。それに、どうせ話を聞かなきゃならないんだから、何か飲むものでもあったほうがいいじゃないか。

 ナイフを取り上げないのは、面倒臭いからさ。それに、お前がそいつを使おうと使うまいと、大した違いはないからだ。

 なぜわかるか、って?

 いいね、いい会話の切り口だ。

 じゃあ、お前の話をする前に、ちょっと俺のことを話してやろう。お前も、そこまで詳しく知らないんだろ。でなきゃ、こんなことするはずがないからな。

 お、疑ってるのか。油断のない目だね。こいつ、おかしなことばかり言いやがって、何を考えてるんだ、とでも思ってるんだろ。

 わかるよ。自分でも、俺ってちょっと頭のネジが緩いのかな、と思うことがあるからね。どこがどう、ってのは上手く説明できないが。

 いや、まあ、端的に説明なんかできないか。順を追って話してやろう。

 食えよ。ソフトするめでよかったら、摘まんでくれ。それと、一気に飲むなよ。ここで悪酔いされたらかなわないからな。

 白輪町。知ってるだろ。俺はそこの出身だ。お前も、町の名くらいは知ってるだろうが、それ以上のことは知らないだろ。

 だろうな。あそこは、よそ者が興味を持ったり、わざわざ足を運ぶ場所じゃない。

 ホテルも人目を引く店もない、そのくせ町並みはごみごみしてて、商店街なんかはあるがどの店もシャッターを降ろしてる。人は多いが、かつての名残りみたいなもんで、人口はずっと下降線だ。昔は、北部に工場が建ち並んでて、それなりに活気があったらしい。が、その工場は俺が生まれる前に軒並み廃業しちまった。広大な土地を占めていた巨大な建物が、今もまだ残されてる。話によると、取り壊そうにもそのための金を出す奴がいないらしい。それで、何十年も放置されてるんだと。

 夜になると、その廃工場に明かりが点くらしい。

 どこかのやくざか、外国の犯罪組織が、勝手に根城にでもしてるのかねえ。

 廃工場にまつわる噂は他にも色々あるんだが、それは今は割愛する。要は、俺の生まれ育った町は寂れきった田舎であると同時に、ろくでもない連中の溜まり場だ、ということさ。工場が汚水を垂れ流していた川は今でも匂うし、悪臭漂う川べりには昼日中から酔っ払い連中がうろついている。シャッター街の片隅の汚れた暖簾の下からは、下卑た笑いや歌声が漏れ出ている。まともな暮らしをしている奴なんかほとんどいなくて、どいつもこいつも、どろりと澱んだ目で通りを行く赤の他人の背を睨んでる、そんな場所だ。

 例に漏れず、俺の親もまともじゃなかった。

 一九八五年頃だったかな? 今から二十五年くらい前の話。アメリカでオリンピックが開催されて、日本じゃ衛星を打ち上げて。そんな世間の盛り上がりをよそに、俺の家族は這いつくばるような生活を送ってた。俺は四歳か五歳でさ。可愛い盛りだろ。だけど、そんな年頃に、俺は立て続けにおかしな事故に遭った。

 まず、階段から落下。

 それから、熱湯風呂に落下。

 ところ構わず落ちまくってたわけだ。もちろん、俺は当時のことなんか覚えていないが、何があったかくらいは聞かされてる。四歳のガキが同じ年に、階段から落ちたり熱湯風呂に逆さまに落ちたりしたわけだ。偶然? そんなわけないよな。

 似たような小さな事故は、その他にも幾つもあった。翌年は交通事故にも遭った。

 怪我? いや、幸い、どの事故でも大した怪我はしなかった。というか、ほとんどかすり傷程度しか負わなかったらしい。

 階段から落下した時は、まあ、打ちどころがよかったんだろうな。熱湯は、思ったよりぬるかった? 交通事故は―― わからん。

 とにかく、どのケースでも俺は無事だった。近所じゃ、あの子の体は鉄でできてる、とか噂されたくらいだ。なんだか知らんが、家族からも少し恐れられてた。気味が悪い、って。

 よく言うぜ。

 そんなまともじゃない家庭環境で育った俺だったが、そのことであまりくよくよはしなかった。ろくでもない親だし、遠巻きに見てた連中もクソだが、そんなことはうっちゃってた。毎日、無意味に走り回ったり、一人でもそうでなくても、遊ぶのに忙しくてさ。目の前にぶら下がった興味の対象以外は、どうでもよかった。ま、子供なんてそんなものだろ。

 その精神構造は、今でもさほど変わらないがね。



 白輪町の川には毒が流れている。

 子供の頃に聞いた噂だが、わたしは今でも本当だと思っている。小学校低学年の頃にはよく、川には絶対入るなと大人たちから言われたものだ。言われなくたって、あんな汚い川に足を突っ込みたいとは思わなかった。濁った水、その下の気持ち悪い色の藻、水面に浮かぶ毒々しい色の油膜、鼻を突く異臭―― あんな水の中で生きていられる生物なんていないだろう。実際、異様に膨らんだ腹を上に向けて水面を漂う魚の死骸を何度も目にした。

 そういう川が、山の麓から、幾筋にも分かれて町中にまで流れている。途中で川底がコンクリートに覆われたりしているが、基本的にどの川も汚い。

 大人たちは、そういう川の水の汚さを当たり前のことのように受け止めている。ニュースを聞いてごらん、とラジオを指さしながら母が言っていた。世の中には、もっと酷い場所もあるんだから、と。

 わたしはニュースになんか興味はなかったが、確かに、注意してよく聞くと、ラジオからはそういった話が流れていた。テレビでも放送していたかもしれないが、よく覚えていない。電気代の節約だとか言って、母はあまりテレビを点けてくれなかった。朝はいつも、ノイズ混じりのAMラジオの音が食卓の上を流れていた。

 ミナマタがどうの、イタイイタイ病がどうの。

 そういう町と比べれば、白輪町はずっとましだ、と母は言う。そうなのかな、と子供の頃のわたしは納得していた。大人の言うことだから本当なのだろう、と。

 中学生になった今では、大人の言うことなんかみんな嘘だ、とわかっている。

 どこよりましとか、そういったことと関係なく、川の水は毒だし、この町は毒まみれだ。そして、そこに住む人間の体にも、やはり毒は流れている。

 わたしの体にも。

 舟見佐和。――それがわたしの名前だ。地味な、ごく普通の名前。おそらく、見た目もそんな感じだと思う。取り立てて目立つところのない、地味な印象の子。ぱっと見、悪いところは見つからないだろうけど、かといっていいところも見つからない。少なくとも、自分ではそう思っている。

 周りにはすぐに馴染むタイプだ。浮いていると思われることなんかないし、自分もそうありたいと思っている。個性なんか必要ないし、周囲から特別だと思われることなんてなくていいと思っていた。集団の中に埋没した、地味で目立たない女の子。それでいい。

 ただ、どういうわけか、時々、わたしに注目し、興味を持つ人間がいた。おや、こんなところにいたのか、というように集団の中にいるわたしに目を向け、近づいてくる者が。

 宇川亮二もその一人だった。

 もっとも、彼がわたしに本当に興味を持っていたかどうかはわからない。彼は常に興味の対象が移り変わるタイプだった。休み時間中は目まぐるしく動き回り、一カ所にじっとしている、ということがない。今、あっちの隅にいたと思ったら、もうこっちの端にいる、といった具合。癖のある髪をなびかせ、やや頬骨の張った顔に茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべ。さっきまで誰かと話し込んでいたのに、振り返るともうそこにはおらず、机を飛び越えて別の誰かのもとに着地している、ということもしょっちゅうだった。とにかく、落ち着きのない奴。それがわたしの彼に対する印象だった。

 わたしにとっては、苦手極まりないタイプ。

 その宇川が、突然話しかけてきた。――授業と授業の間の休憩時間、だったと思う。何をしていたかは覚えていないが、きっといつものように次の授業の準備もそこそこに、隣の席の子と無駄話でもしていたんだろう。そのクラスの生徒は、わたしを含めほとんどが荒んだ家庭の子で、行儀はあんまりよくなかった。

 彼はいきなり、空いていた前の席に後ろ向きに座り、わたしの目を見て話しかけてきた。

「お前さ、意外と根暗な奴なんだろ?」

 は? とわたしは返した。何言ってんの、あんた。

 周りの子たちも同じような反応だったと思う。

 だが、宇川は何を言われても怯まなかった。それは、わたしの目の中に表れたものを正確に読み取っていたからだろう。わたしは、どきっとしていたのだ。そして、必死にそれを隠そうとしていた。

 こいつ、何を言ってるんだろう。心の中で歯軋りしながら、わたしは考えていた。何を余計なことを言ってくれてるの。

 表向きのわたしは、根暗な人間なんかじゃなかった。いや、明るいも暗いもない、”普通の生徒”だったのだ。少し大人しいが、それだけで、裏表や人間としての深みなど一切ない、底の浅い人間。そうありたい、と心底願っていたし、自分でも半ばそうだと信じかけていた。

 それなのに、こいつは見抜いたのだ。わたしの中に流れる、一際濃い毒の存在を。

「俺は知ってるぞ」さらに、宇川は言ったものだ。「その目の奥には、何かがめらめら燃えてんだ」

 わたしは唖然とし、言葉もなかった。言い返すべきだったが、そんな余裕はなかった。

 一瞬後には、宇川は立ち上がり、別の関心事ができた、と言わんばかりに居場所を移していた。わたしが文句を言う隙など、どこにもなかった。

 わたしはただ、肩をすくめ、周囲に向かって、何あいつ、ともう一度呟いた。それしかできることがなかったから。

 幸い、誰も宇川の言うことなど気に留めていなかった。彼は毎分、別のことを話しているような人間だ。そんな彼の話をまともに聞く者などいなかっただろう。その時のわたしを除いて。



 正直言って、同じ白輪町の住人だということを除けば、当時のわたしは宇川についてろくに知らなかった。小、中と同じ学校で過ごしたにも関わらず、彼とはほとんど接点がなかったからだ。

 お互い、家は離れているし、これまで同じクラスになったこともなく、顔すら朧げにしか知らなかった。わたしはずっと、彼のことを地元を同じくする生徒たちの一人としか考えていなかった。

 しかし、そんな間柄でも、彼の噂は何度かわたしの耳にまで届いていた。わたしが知らないだけで、宇川亮二はよく話題に上る子供だったらしい。

 曰く、車にはねられた。年上の少年たちに囲まれて殴られた。喧嘩沙汰になって、友達が腕を折ったのに、彼はかすり傷しか負わなかった。

 夜遅くまで遊んでいて、バイクの集団に絡まれたこともあったらしい。金を渡せば済んだのだろうが、金がなくて、傷害事件に発展した。その時も、彼は一人、ピンピンしていたそうだ。

 宇川と彼の仲間は、子供の頃からよく町角でたむろしていた。彼も、彼の周囲の子供も、親からあまり関心を払われない生活を送っていたのだろう。そういう家庭環境にある子は、白輪町では珍しくなかった。彼らの多くは不良グループの前身のような集団を作り、警察があまり見回りに来ない団地の公園などを選んで、夜遅くまで過ごしていた。わたしも見かけたことがあるが、遊具で遊ぶでもなく、ただダラダラしているだけといった様子だったのを覚えている。

 そんなふうに過ごしていれば、危険な目に遭わないほうがおかしかった。中学に上がるまでに、宇川の周囲では子供たちが何人も大怪我を負った。いつも栄養失調気味だった一人は、病気で死んでしまった。その子は家で満足な食事を与えられていなかった、と噂されている。怪我をした子の中にも、復学できなかった者が数人いた。

 けれど、宇川だけは、いつも何ともなかった。

 いつだったか、彼が窓から落ちた、というニュースが耳に飛び込んだ。ふざけていて、三階の教室の窓から足を滑らせたらしい。

 その手の事故は年に一、二度起きていたので、わたしは特に驚かなかった。三階の窓というと、まあまあの高さなので、骨折くらいはするだろうな、とよぎらせた気がする。けど、その後、彼が入院したという続報はなく、わたしは数日後、何事もなかったように校庭を走る彼を見かけることになった。

 その時も驚きはなかったが、微かな違和感を感じたことは否めない。

 今になってみると、確かに、おかしなことが続けざまに起きていた。みんなが彼についてひそひそ噂したり、妙な目で見るわけが、やっとわかった気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

死なない病と廃工場 戸成よう子 @tonari0303

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ