魔王遊戯

柴又又

第1話 悪魔の手先

 ぬるりとした感触が体中を覆っていた。苦しい、苦しい、何が起こったのだろう。耳の中までピーナツバターにつけられたような気分で笑っていいのか、悲しんだらいいのか。


 身をよじらせて世界の終わりから脱出している。

 目が痛い。目が痛い。目が痛くて、何も見えない。暗い暗い暗い。


 こじ開ける。こじ開ける。世界はどっちが上なのか? 上下がわからなくなる。

 どっちが上で、どっちが下なのか、理解できなくなる。

 水の流れる音、まるで火山の胎動、何かが外れてズルリと抜けて落ちた。


 痛い。顔を打った。

 口の周りに付いた生臭い液体に、母親の中は予想以上に――。

 指がうまく動かせない。体を持ち上げられない。足に力が入らない。地面に横たわってできた事と問われれば、口の中にある物を吐き出して喚くだけ。

「ぁああああああっああああああああああっ」

「あ」としかか喚けない。「ん」と「あ」、舌の筋肉をうまく動かせないから発音できないし、歯が生えてないからふがふがしてしまう。

 赤ん坊がなぜ泣くの。

 たぶん答えは、泣くことしかできないから――。


「おっと、見つけた。少々おそかったかねぇ」

 遅いどころか早いまである。

「生まれたてっていうのはほんと汚くて不細工だよねぇ、母親が子供と対面して喜んでるとこをさ、何回か見たけれど、なんて言ったらいいのか、ほらっ思ったよりも、ほらっねぇっふふふっ」

 何を笑んでいるの。親子の対面は感動の場面でしょうに。


 ボクとしては自分の子供って所に興味が沸くと考える。自分の遺伝子を継いでいる。それが不思議、似たような遺伝子を持ちながら自分ではない他人なのだ。


 もし自分と同じ存在が二人いても、まったく同じな他人が一人いるだけ、それだけなのだろうと感じる。

「よっこらしょ、おーよちよち、どう? 新しい世界に生まれた感想は」

「うぇっうぇっうぇっうぇっ」

「あー汚いねぇ、ほら、拭いてあげるよ、ほらっ水が必要かい?」

 ボクを抱き上げたのは少女だった。何処かにありそうな村、クソみたいに悪い今の視界でもはっきりとわかる。この村はそう、なんていうか地獄だった。


 暴行され吊るされた女から今、ボクは生まれたんだ。

「小鬼の大群に襲われたのさ、まぁ、妥当な始まりじゃないかい?」

 抱きかかえた少女がコップに入った水を垂らしてくる。

 もっとましな生まれにはならなかったの。もっとましな環境には。それは贅沢な悩みなのかもしれない。

「君は魔王なのだから仕方ないのさ。善行が足りないよねぇ。これでも善処したんだよ?」

 そっか。生きているだけ儲け物だと考えたほうがいいのかな。魔王なんて、RPGみたい。でも本当なのだ。


 時間を少々巻き戻る、巻き戻ると語って良いのだろうか。

 ボクは死んだ。うだつの上がらない学生だった。父親はロクデナシ、母親は売女だった。父親はたばこと酒が好きで腕力だけが取り柄のなんていうかもう、あれだった。

 やる事なんてボクを殴る事だけ。ボクはおとなしく殴られるドッグミート。


 母親は料理だけはうまかったけど金のために体を売っていた。

 優しくて好きだった……と語ったも良いのかどうか。

 食事中にやれあいつのウィンナーがどうとか、やれあいつのホットドッグがとーとか、小学生の時は男女のそれなどまだマシだったけど、中学生になると辛かった。

 それをおかずに飯を食えってと告げられる。 

「見てよほら、元に戻らなくなっちゃったの。でも気持ちよかったのよ?」

 とりあえずスカートをめくって妙に色気づいたパンツをずらすのに吐き気が隠せなかったのは確か。


 白は無い。なぜかと問われれば汚れた跡が残るからだ。

「触ってみる? ままぁはあなたが大好き、指いれてみて」

 わお、まぁ素敵。ボクの女性に対する考え方は母が歪めたと語っても過言ではない。過言だ。


 学校からは給食費の催促、近所からは苦情、同級生からは虐め、服がいつも同じだったから。母が稼いだお金は酒とたばこに消えてゆく。母はどうしてそれが嫌じゃないの。母は父が世界で一番素敵な男だと信じていた。


 世界で一番素敵な男になぜ稼ぎがないのかな。

 あれぇ、ぼくがおかしいのかなぁ。どうかしちゃったのかなぁ。

 唯一近所に住むばあさんだけがボクの味方だった。家に入れてくれた。みたらし団子と豆大福にお茶をくれた。


 世界を内からじゃなく外から眺める事を教えてくれた。

 自分の家族がやばい事実を教えてくれた。

 お金がないから勉強した。いつも図書館で勉強した。お金がなくても、家がこんなでも、まともになりたかった。お金を稼げる男になりたかった。


 腕力だけがすべての男になりたくなかった。

 母のような女性が、こんな風にならずに幸せになれるようにしてあげたかった。傲慢で無知なのに、気づけなかった。

 ボクは、ボクは高校生になった。

 日陰だ。楽しそうなゲームの話も、楽しそうなテレビの話も、ボクには無関係だった。本を読むか、勉強するか。


 自分に近づいてくる人間が、家族に巻き込まれて何か起こるのではと考えると、親しくなれる友達など作れなかった。

 クラスでは派閥ができて、ガキ大将気取りの奴が大声で叫ぶ。

 また腕力か。結局は腕力なのだろうか。


 清潔感のある男を中心に、イケメンが茶髪の女性達と仲良さそうに談笑していた。イケてるんだって。

 髪を染めなければイケてないの。


 そしてイケてない男子たちがゲームやアニメの話をしていた。

 そんなイケてない男子たちからもハブられて、友達もいなくて可哀そう、あいつ生きる意味あるのって立ち位置にいたのがボクだった。


 そんな嫌な顔するなよ。イケてないグループの男子、傷つく事がわかるのならボクの心も気遣ってくれないかい。 そういうことはできない。あっそう。

「きっもマジきもいんですけど、あいつら、絶対私らでかいてるよ」

 そんな事言われて傷付く彼らだけど、ボクが傷付く事とは無関係らしい。

 あと女子、母のせいもあって妙に大人ぶりたい女子を眺めると吐き気を覚えてしまった。全ての女子がそうでもないし、別にぼくには関係ない。関係ないとわかっているのに。


 経験人数とか裏で携帯を用いて行われるやり取り、誰と誰に肉体関係があるとかを見たり聞いたりすると、ぼくには辛かった。

 自分を大切にしてと考えるボクはイカレテいるのだろうか。

 お前には関係ない、そうだね。関係ない。

 性行為に自分を大切にするかしないかは関係ない。そうだね。

 自分が嫌なばかりに他者にそれを強要させる。まるで父親と同じみたいで吐き気がした。


 女の子たちが嫌そうな顔をする。そんな嫌そうな顔しないでよ。傷付くよ。

 生きていてごめんね。

 女がみんな母親とダブる。最近は美貌も衰えた。と告げたいところだけど衰えてない。色気が増した。父親は今度はパチンコとそこで知り合った女にはまって出ていった。母親も出ていった。


 残った家にはボク一人だ。

 半分は嬉しかったが、金が苦しかった。

 父親が作った借金、そして作った借金取り達が金を払えとボクを殴った。


 いや、殴ってもお金はない。母親は何処だと聞かれても知らないと答えるしかない。連絡先も残していかなかった。なけなしの金をむしり取るとまた来ると告げられ出ていった。

 家賃なんてない。払えない。どうするのってどうしようもない。


 家を出るしかない。保証人もいないからバイトもできない。お金が稼げない。隣のおばあちゃんに迷惑などかけたくない。

 お金が苦しい。

 お金で命は買えないの。

 お金がなくて、プライドも意地も元から無いけどへこみそうで、プラスを通り越して天国へ到達、そのまま上って地獄に突き出た気分だった。

 つまりマイナスってこと。お金なくて死にそうだった。


 なんとか集めたお金で、最後の思い出つくりに修学旅行に行った。

 そして死んだ。

 クラスメイト全員。


 気が付くと、空港の受付みたいな場所にいた。みんな並んでいた。少し照明が暗すぎる。

 ボクの後ろに並んだ男が、スーツ姿の男に別の列へ連れていかれた。

 ボクはこの時、自分の記憶を失っていた。ボクと告げる意思しかなかった。ボクと告げる個性のみがこの場に存在していた。何か話をしていた。

「ここは日ノ本人が並ぶ場所だからねぇ、日ノ本人以外ははじかれるのさ」

 スーツ姿の女が話しかけてきた。金髪に、くたびれた表情、綺麗だ。崩れた化粧がどこか似合っていた。ボクより背が低い。

「あの男は、差別だって叫んでいるのさ」

 暴れている。どうにかしてこちらの列へ混ざろうとするけれど、どう頑張ってもこちらへは入ってこれないようだった。

「差別なの?」

「そうじゃないよ、そうじゃない。ちょっとこっちで話さないかい?」

 なんとはなしに脇へとずれた。

 脇へそれた途端、向いあった机と椅子があり辺りは暗くなった。

「少し長くなるんだが、聞いてくれないかい?」

「一つ、逆に聞き返していい?」

「あぁ、私が答えられる範囲ならいくらでも」

「ここは?」


 彼女は眼を閉じて息を吐き出した。たばこでもあれば様になりそうだった。

「行きつくとこさ、行きつくとこ、つまり死んだのさ、君は、君達は。不幸な事故でね」

「そう」

 わりとあっさりとしていた。あっさりとしすぎていた。痛みとか苦しみとかさよならとか、良かったとか、悪かったとか、落ち込んだとかそんなこと全然無くて、ただ、そう、あぁ、そうなのだと、他人事みたいに感じていた。

「実感がないだろう? 死ぬと生きている時に必要だった感情がごっそりと無くなるのさ。肉体が保持している記憶を失い純粋な精神のみとなる。苦しいとか憎いとか、どうして? とか、肉体がある時は、必要なものだったものが必要無いから無くなるのさ。恋とか愛とかもね。だから見ただろう? みんな同じ表情をしている。一番平和で、一番静かで、一番穏やかな場所がここさ」

「さっき暴れていた人は?」

「それは、まぁ、そうさな。私の話と合わせて聞いておくれよ。まずは記憶を戻すわ。記憶がなければ何を言っても理解できないものね」

 優しくて何処か胡散臭そうで、でも彼女の声は良く通り良く聞こえていた。

「正直言うとねぇ、私はね日ノ本人の担当じゃあないんだ。あぁ、なんて言ったらいいのか、死神的な立場でね、そうさね、悪魔だと思ってくれればいい。まぁ実際そう……なんだがね」

 うかつだったかもしれないと少し唾を飲んでしまった。

「おっと、勘違いしないでくれたまえよ? 魂を刈るとか持って行くとかそう言う類の物じゃあないんだよ。説明させておくれよ」


 両肘をテーブルへとついて、ずいっと彼女は前へと乗り出して来た。視線はまっすぐに、目が赤くて動脈の血液がそのまま瞳から滴り落ちていきそうなほど儚げでもあった。

「人は死ぬと、生まれ変わるんだ。何にって? まぁ生まれ変わるのさ。生物ってやつにね。じゃあどうやって生まれ変わるのか? って話さ。そうさねぇ、生前生きていた時、神様とかっていただろう? ほら神社とかでさぁ、お参りとか、したろう? 実は管轄の神によって管理されていてねぇ。ところで……日ノ本て言うのはねぇ。いい国なんだよねぇ。娯楽も多くて平和で、日ノ本へ生まれたいって人は多いんだよ。日ノ本人以外も含めてねぇ。ところが、だ、ところが、日ノ本っていう国は特殊でねぇ、まぁなんて言ったらいいのか、独立してるものでねぇ、日ノ本人は日ノ本に生まれるって事なんだよ。言いたいこと、わかるかなぁ?」

「日ノ本人は死ぬと日ノ本に生まれるって事?」

 彼女が何を言いたいのか、今一要領が掴めなかった。

「そうなんだよ。日ノ本の神様は優秀でねぇ、だから他国の神様達が布教してるんだけど、全然うまくいかなくてねぇ。日ノ本人の大半はまた優先的に日ノ本に生まれるのさ。さっきここで暴れていた人間がいただろう? 彼は日ノ本人に生まれ変わりたいのだけど、日ノ本人じゃないから管轄外って事なんだよねぇ、つまり彼は日ノ本には生まれられないんだ」

「結構、しっかり別れてるんですね」

 それをボクに話す意味はなに。

「そうだねぇ、日ノ本にさへ生まれられれば人になる可能性だって出てくる。次の話をするよぉ? でねぇ、じゃあ次に何に生まれ変わるのかって話をするよ。人間だから人間に生まれるってわけじゃあないんだよねぇこれが。これはねぇ、善行によって決まるんだよねぇ」

「善行?」

「そうそう、生物って言うのはどうしても他者の命を糧にしないとダメだろう? 生まれた時からポイントが付くのさ。キャンペーンみたいにねぇ。善行を重ねるとねぇ、魂にプラスされていくのさ。だから良い行いをした者ほど、次の転生に有利になるんだ。簡単に考えてもらうとねぇ、人間に生まれ変わるポイントがあって、善行でさらに金持ちになったり美形に生まれ変わりたりするのさ、逆に悪行を行うとポイントがマイナスされてねぇ、どんどんダメになっていく。ほら、生まれた時から平等じゃなかっただろう? それはこう言った差で出来ているのさ、金持ちって言うのは有利だよ? 多額のお金を募金するだけでも沢山の人間が救われて善行になるからねぇ。でもそのお金が兵器に代わって沢山の人が死ぬとマイナスなんだけどねぇ、ただ漫然と生きているだけでもダメなんだ。生きているだけで常にマイナスされていくからねぇ」

「あの世のシステムはわかったよ、それで貴方はボクにそんな話をして一体何がしたいの?」

 彼女はボクの言葉を聞いてまた深く息を吐き出した。

 良く見ると少しくたびれていた。あの世の仕事も激務なのだろうか。

「つまりねぇ、君たちの国が人気だって言いたのさ。日ノ本人は滅多に移動したがらないから、入れ替わりもなくてねぇ、そこで……だ。君に、代わって欲しいのさ。日ノ本に生まれ変わるという権利を」


 言いたいことはわかった。つまりボクに、ボクに日ノ本に生まれ変わる権利を譲って欲しいと告げているのだ。

「本気で言っているの?」

 ボクにとって、何かメリットがあるのだろうか。

「あぁ、本気だ。この子と代わって欲しくてねぇ」

 彼女が指を鳴らすと表情のない浅黒い肌の少女が唐突に現れた。


「この子は、もう18回生まれ変わったけれど、すぐに死んでしまってね。だから……だからねぇ。変わって欲しいのさ」

「聞いていい?」

「あぁ、答えられる範囲でなんでも」

「ボクのメリットは?」

 彼女は息を吐き出す。

「善意として、譲ってはくれないか」

 少女は可哀そうだ。確かに可哀そうだ。だけれどここで譲るのが正解なのか答えに困ってしまう。騙されている可能性も捨てきれない。答えなかった。答えは沈黙だ。イエスでもノーでもない。


 何かしゃべって、喋って、何か、聞かせて。何を考えてるいのか聞かせて欲しい。

「君はなかなか面白いよねぇ」

 父親は馬鹿だった。馬鹿だから喋っていると辻褄が合わなくなり暴力に訴えた。声より先に手がでるのは、言葉では諭せないから。それは弱さの証明じゃないだろうか。

 一つ、疑問を脳裏に思い浮かべる。そして脳内で構成し少しずつ言葉を紡いだ。

「一つ……聞いていい?」

 まっすぐにスーツ姿の悪魔はボクを眺めていた。

「肯定と取るね。その子が、日ノ本に転生するのなら、ボクは、その子のいた国へ、転生する、そうじゃないの?」


 悪魔はにやりと微笑んだ。首を傾げて両指で三角形を作り右目だけで強くぼくを眺めていた。

「ふふふっ……私ねぇ、頭のいい子は好きよ。貴方の事、気に入りそう。普通の人はね、ここまでくると、ノーって言うのよ。選択の余地もない。ノー。でも貴方は質問を返してきた。つまり、選択の余地がある。私からもっと情報が欲しい、一つでも有利になりたいと、そう思っているのよねぇ」

 正直そこまでは考えていない。純粋に楽しいのはある。スリル。悪魔と話してみたかった。

「メリットはあるわ……そうね。メリットはある。あなたの事を調べたわ。何処で生まれてどう育ったのか、どういう性格で何が好きなのか」

 そのセリフ、嫌いじゃないよ。


 神によって生まれ変わる場所が管理されている。善行によるポイントで転生が決まる。虫になるのか植物になるのか動物になるのか。きっと善行がプラスになるのなら悪行はマイナスになる。マイナスが過ぎれば人間には転生できず、虫等になってしまう。

「本当はねぇ宗教っていうの? 神様を信奉する者の多くは自らの魂を磨くためにあるんだけどねぇ。一部の人間が歪めてしまったものだから、大半宗教と聞くと嫌な顔をするのさ」


 うまく出来ている。と語っても良いのだろうか。

 あまりのポイントがあれば金持ちになる、美形に生まれる等の特典が付く。ポイントが足りなければ……足りない分人間に転生できてもグレードが下げる。

「ここに新しい世界がある……。あなたには変わりにこの世界へ転生してほしい」

 なぜ新しい世界なのか。きっとこの身代わりという行為は正当な手続きのものじゃない。つまり危ない橋だ。

「私があなたに提示できる選択肢は自由よ」

 本当の自由なんてものはない。

「私のできる限りで、あなたに人間として生まれる特典と能力をあげる。だからお願い、お願いするわ。あの子と代わってあげて」

「なぜそこまで少女を転生させたいの?」

 言わないとダメか。という顔をした。嫌な顔だった。でもボクはその顔が好きだった。

「私は、この少女を、担当していた。のべ18回だ。18回ともろくな死に方じゃなかった。私が、耐えられなかった。耐えられなかったのさ。私が、はははっ」

 この契約には致命的な弱点がある。うまく転生できる保証がない。つまりデメリットしかないのだ。でも飲んであげてもいい。表情が、ボクに少し似ているから。


 あきらめ。

 あきらめにも似た何処か切ない表情をしていた。

 生贄が必要だ。例えば学校、クラスがうまく行くのに、一人を犠牲にするやり方は効率がいい。ボクがクラスの最下層だったから、ボクより上の人間はイジメられなかった。

 でも現実に、頭の良さ、運動神経、金銭、容姿には差が生じる。綺麗事をいくら語った所で、この差は縮まらない。自分のプライド、尊厳を守るために、自分より下の人間を眺めて平静を保つ。自分よりダメな奴がいる。自分より馴染めない奴がいる。自分より劣っている者がいる。それに安堵する。


 クラスメイト全員に線引きをし、普通という線を作る。普通より上なのか、普通より下なのか。普通より上の人間が、普通より下の人間をいじって楽しみ、自分がいじられないように、下の人間は共感するように笑う。自分はこっち側だと、あるいは自分には関係ないと。


 劣っている人間は、より劣っている人間を見て安堵する。

 見上げればと劣等感を感じるから、下を眺めて安堵するのだ。

 あぁ、コイツよりはマシだって。

 違うのかもしれない。ただ一人が耐えられればクラスはうまくいく。

「お前にも見せてやる」

 いきなり目の前が赤い大地へと変わった。

 耳を劈く空気の音、思わず耳に手を当てて頭を下げる。

 少女がいた、女の子だ。走っていた。目の前を――そして炸裂した。右足、左足、右足を交互に振り頼りなく走る少女の足が地面を離れた途端、炸裂した。

 少女の足を、は、吹き飛び、赤い血肉が宙を舞う。ゴミクズみたいにグルグル回る。零れ落ちて涙と鼻水、血潮にまみれ泣き叫ぶ少女を視界に収める事しか出来なかった。

 生まれた。目の前で赤子が生まれた。でも、でも生まれたばかりの赤子は力なく放置され、やがてぐったりと動かなくなった。産声さへなかった。

 やせ細る少女を眺めた。食べる物が無いからやせ細りやがて亡くなった。

 犯される少女を視界に収めていた。まだ年端もいかない少女だった。なぜこんな目に合わなければならないの。心を抉るような衝動に囚われて伏せたいのに瞼を伏せられなかった。


 それは日ノ本でもある。あるけれど、ここまでひどくはないと、そう感じる程にひどかった。男達は処女で死ぬのが最大の不幸だと笑っていた。やってから、殺す。

 暴言を吐き、自分にやられることが最大の幸福だとでも言わないばかりに。

「もういい、わかったから、もういいからやめて」

 吐きそうだ。吐きそうだよ……。

「でも答えはノー……」

「そう……わかったわ。ごめんなさい、時間を取ったわね」

 ボクは女の手を取った。

「この勧誘に何人乗った?」

 彼女は疲れた顔を綺麗に歪めた。ボクの答えなんて最初から分かっている顔だった。

「やっぱり……頭がいいのねぇ」

 最初に悪魔だと名乗った。

「のべ665人よ。665人。みんな強制的に快く乗ってくれたわ。一部、貴方と同じように疑問を浮かべる子もいたけれど」

「他にもいるの?」

「えぇ、この世界ではない別の世界で好き勝手やっている女神が一人、10人勧誘したわ。特殊な力を与えてね」

「君にメリットはあるの?」

 彼女は少女の方へと一瞬だけ視線を向けた。このどれもがどの仕草もが、心の隙間を付く作戦なのだと考えると吐きそうだった。

「ある……あるわ」

「一つ、条件がある」

 ボクは、ボクは修学旅行が終わったらどちらにしろ日ノ本にはいられなかった。借金を返すために過酷な労働に駆り立てられる。それか犯罪の片棒を担がされ、もしくは臓器を売るしかなかった。


 お母さんの事、嫌いじゃなかったけれど、正直言うとね、女の子が信用できなくなっていた。テレビで流れる不倫報道ですら吐き気を覚えるほどだった。

 愛ってなに。恋愛ってなに。貞操観念ってなに。

 女性を視界へ収めると母がダブり映り込む。何処かでは雌の顔をしていると考えると、そんなわけないのにね。好きな人がいても他人に体を許すという強迫観めいた何かが心を苦しめてきた。


 男だってそうだ。好きな女性がいながら誘われれば別の女性を抱く。なぜなの。人を好きになった事のないボクの心の中で蛇がとぐろを巻いていた。

 気持ちいいよね。他人を出し抜くのは気持ちいい。愛するその誰かより自分の方がいいと。その雌の顔が証明している。心が傷付く事に感謝する。傷ついている。良かった。もし傷付かないのであれば、何処まで許され、何処からがダメなのか、きっと判断できないから。


 すべての人がそうじゃない。そうじゃないよ。

 そう理解しつつも、眼鏡をかけるように変な色眼鏡がボクの視界に映って苦しかった。


 こんなに弱くてどうするの。

 頼るべき仲間も、友達も、何もなかった。相談できる相手もいなかった。

「なに?」

「ボクの望む条件は一つだけ」

 彼女は眼を大きく見開いた。

「やっぱり……保証が無いのに感づいたのね。この口約束には何の保証もない。実際に行ってどうなるのか、本当に特典が付くのか、もっとひどい目に合うのではないか」

「譲ってもいいよ」

 ボクはもう、人間として生きていなくても良いと考えていた。ただボクと同じ顔をした目の前の女性を眺めていた。

「くくくっあははっいいわ、いいわよ。悪魔と契約すると言うのね? その魂をかけて‼ いいわよ‼」

 彼女が机に爪を立てた。

 べりべりと剥がされたそこには契約書が一つ。

 彼女は右手の手の平を左手の爪で切り裂いて、契約書にでかい手形を穿った。

「私はね、本当は天使なのよ? あなたの国、幸せでいいわねぇ。毎日毎日お猿みたいに暮らしてるのよねぇ? 幸せが何かも知らずにのんきに暮らしてるのよねぇ? だるいだのなんだの言って怠惰に暮らして、育てられないから子供をおろしているのよねぇ? 生まれなかった子供はどうなると思う? 恋愛はいいものよねぇ? クリスマスにはパーティをして、恋人と二人きり、いいわねぇ甘い一時。でもねぇ、貴方達が幸せな時間を無駄に過ごしてる間、貴方達の国では普通の事で幸せを感じる人達が、何人も何人も何人も何人も死んでいるのよ? だから‼ 落としてやったのよ‼ 代わりに‼ いいわよね‼ 別に‼ 今はどうしてるかって? たまに戻ってくるのよ。もう覚えてないけれど、死んだ目に希望を抱いて‼ 今度生まれ変わったら‼ 今度生まれ変わったらってね‼ ほらさっきの男みたいに、ちょっと記憶を戻してやるだけで泣き叫ぶの‼ 戻してくれって‼ あはははははっ‼」

 さっきの男性も、ボクの心をグラつかせるためのブラフだったのだ。


 彼女の手が黒く変色していった。まるで脅しだ。脅してきた。

「反論はあるのよねぇ、そんなのは知らない。自分たちの国なのだから自分たちでなんとかしろって。まぁそうよね。子供を育てられないのに生むお前たちが悪い。まぁそうよね。僕達には俺達には関係ない‼ まぁそうね‼ じゃあ私が‼ お前らを地獄に落としてやれば‼ 関係あるのよね‼ 見てこの羽‼ 今じゃもうこの最後の一羽、この一羽以外はみんな真っ黒‼ 見てよ‼ お前らが笑ってる間に痛めた羽を見て‼」


 その目は赤く輝き、怒りを帯びて金色になっていく。

「人間を愛せって言うのよ‼ 父がね‼ 人間を愛せって‼ お前らの何処に愛すべき要素があるというの‼ 頭が性器でできてるお前らの何処を愛せというのよ‼ お前らを愛したせいで‼ 私の羽は真っ黒だ‼」

 ボクは彼女を眺めていた。激しくて荒々しい。それでいて滑らかで空気を撫でているかのように優しい。

「ごめんね。おびえてしまったかな? ついつい吐露してしまったよぉ、君が悪いわけじゃないのよぉ」

 正直を告げれば怖かった。殺されるかと感じた。

「どうしてボクなの?」

 彼女は瞼を一度伏せてゆっくりと開いた。舐め上げるみたいに。ソフトクリームを舐め上げるみたいに。

「お前の家の隣に、おばあさんがいただろう。あのおばあさんがねぇ。次のお前の母親なんだぁ。ずっと心配していてねぇ。死んだ後もずううううっと。ずっとずぅうっとお前の事をずっと心配してて。そして生まれ代わったら三人の子供を産むのさ。三人兄妹の一番下がお前だよ。普通の家庭に生まれて、普通に生きて、前世でどんなだったかも知らずに、幸せに生きて死ぬのさ」

 その言葉を聞いて、彼女がなぜボクを選んだのかが良くわかった。

「私がねぇ、貴方を選んだのは、きっとこの話を聞けば、お前は譲ってくれると思ったのさ」

 ただ友達と談笑したり映画を眺めたり普通に楽しい事がしたかった。普通に、普通の、そしてそれを手に入れてしまったらきっと、ボクが壊れてしまう事もわかっていた。

 あぁ、こんなものなのか。

 手に入れると何時も後悔する。


 ボクは無言で手を契約書に置いた。

「約束だよ。名前教えて」

「ルシィファ、ルシィファ・リリス・エーテリカ」

 ただ傍に寄り添ってほしい。何よりも誰よりも傍に、ボクと同じ目をした君に。強さへの憧れでもあった。

「本当はねぇ、ずっとお前に目を付けていたんだぁ」

 天使は心を痛めていた。愛が深すぎて、心を痛めてしまう。

「貴方にあげるわ。最後の羽よ。私の魔王」 

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