第11話
素敵な冬の一日
結局、正様は離籍することになりました。本当は離籍しなくてもいいのでは、と思われていたようですが、本家の戸主が「決めた人と結婚しないのなら、離籍だ」と言ったそうです。
正様のご両親はそこまでしなくても…と思っていたようですが、どうやら、本家の戸主は自分の息子の出来が良くなく、ゆくゆくは正様に譲ろうかと考えていたようです。
ですから離籍した時の正様は「よかった。背負うものがユキさんだけになって」と言われました。
「背負われるだけでなく、私も正様のお力になりたいです」と言って、少し笑われてしまいました。
私の家の方は離籍は関係なく、正様のお人柄とそしてお医者様ということもありまして、結婚には反対ではありませんでしたが、台湾行きは難色を示しました。ですから、台湾にはやはり先に正様が行って、そして私の台湾行きは落ち着いてから…ということになりました。
季節は冬に入り、年明けには祝言をすることになりました。ハナちゃんの旦那様も帰ってきて、無事に第二子を出産されたようです。冬休みになったら、お顔を見させて頂く予定です。正様は家を出て、病院の近くの知り合いの家で間借りしております。私も元気に女学校に教えに行き、そして来年には結婚することを親しい田中先生には相談しておりました。
「まぁ、突然ですこと」
「一年ぐらいで…台湾に行くかもしれません」と言うと、驚いたように目を丸くされました。
「台湾って…。あなた…」
「私はそこで先生となるつもりです」
田中先生は少し眉間に皺を寄せて、「…吉水先生は真面目だから。あのね…台湾は元々、日本の国じゃないのよ。だから…大変なこともあると思うの」とおっしゃられました。
「はい。でも私は日本人も台湾の人にも同じように教えたいと思ってます」と言った時はきっと目を輝かしていたと思います。
「…ご両親は?」
「それは少し反対していて…」
「そうでしょうね」
「でも私は行きたいんです」
「良い? この話は私以外にしてはダメよ。まだここでしばらく働くのだから。分かった?」
「誰にもですか?」
「誰にもよ。誰か話したい人がいるの?」
「ハナちゃんです。結婚されて辞められた」
「あぁ…入江さんね。それならいいわ。でも学校の先生に言ってはダメよ。すぐに後釜を探すんだから。…それに台湾は…安定していないから、お相手の方も本当に一年で生活を整えられるか…分からないわ」
私は少し首を傾げましたが、田中先生のおっしゃることですので、とりあえず先生方には話すのをやめておきました。それが何を意味しているのか、さっぱり分かりませんが、尊敬する田中先生の言うことは聞いておこうと思っていました。
そして待望の冬休みになりましたので、毛糸で作ったクリスマスプレゼントを抱えて、私はハナちゃんのお家に向かいました。正様も後から合流するそうです。小さな赤ちゃんを楽しみにこの日を待っていました。毛糸の帽子を赤ちゃんへ。手袋は一郎様。ハナちゃんにはマフラーを。全てを包んで参りました。大原邸は冬は冬で趣があります。柊で円型の飾りがドアにかけられております。
「今日は」と声をかけると、久しぶりに清様が出て来られました。
「お久しぶりです」と慌てて頭を下げます。
「お久しぶり。正と結婚するんだって?」
「はい…。あの滅相もないことでございます」と言うと、清様は軽く笑います。
また変なことを言ったのだろうか、と思いましたが、部屋の中に案内されました。応接室でもリビングでもなく、客間のようです。そこに小さなベビーベッドが置かれ、一郎様がよじ登っていて、その側でハナちゃんが生まれたばかりの赤ちゃんを抱いておりました。
「まぁ」とその小ささに思わず声が出ます。
「一郎」と清様がベビーベッドに登っているのを咎めます。
「今日は。一郎様。ユキがプレゼントを持ってきましたよ」と言うと、叱られて落ち込んでいた一郎様に笑顔が戻ります。
「ユキたん」と駆け寄ってくれます。
「クリスマスですから。これから寒くなりますので、この手袋をお使いください」と小さな手に渡しました。
「ありがと」と嬉しそうに手袋を早速つけてくれます。
「ハナちゃん、おめでとう。今度は大丈夫だった?」と近寄ると、ハナちゃんは「二回目は楽かと思ったのに、産んだ後の痛みも凄くて…」と言います。
「そうだったんですか」と清様が私の言う台詞を持っていきます。
そう言えば、大騒ぎして、ハナちゃんとの縁談を進めてたという話を思い出しました。…なるほど。やはり強い愛を感じます。ハナちゃんがなんとか清様を取りなしている間に、私は赤ちゃんの顔を覗き込みました。何という愛らしいお顔でしょう。少しハナちゃんに似て愛嬌のあるお顔立ちです。私はそれを確認すると、一郎様と目線を合わせるようにしゃがみました。
「あの赤ちゃんは一郎様の弟です。私が頂いてもよろしいですか?」と聞くと、大層驚いた顔をします。
「…進、ユキたん…欲しいの?」と今にも泣きそうな顔をされます。
「いいえ。一郎様のものですから、一郎様がいらなければ…で良いです」
「進は僕の弟だから…。僕が可愛がるから…。ユキたんはたまに抱っこさせてあげる」
「まぁ、抱っこさせていただけるのですか?」
「うん。たまに。少しだったらいいよ」
弟が出来て、小さなお兄さんはきっと大変なのに可愛がると言ってる姿が意地らしいです。
「じゃあ、一郎様をたまに抱っこしても良いですか?」
「うん。それはいつでも良いよ」と言うので、その場で抱き上げました。
「一郎様…ユキは幸せです」と言って、本当はほっぺたにチュウをしたいくらいでした。
「ユキたんは良い匂いがするから」と言って、首に手を巻き付けてくれます。
柔らかい小さな暖かさが首にまとわりつきます。
「ねぇ、本当に可愛いですわ。私…一郎様大好きですよ」と言ったら、扉が開いて、正様が来られました。
「あのユキさん…」
「あ、こんにちは」と私が言うと、「おじちゃん…ちはー」と可愛い声で私の腕の中の王子様が挨拶されます。
「…はい。こんにちは。一郎くん、僕が抱っこしよう」と言って近づきますが、今日は私にべったりです。
「じゃあ…肩車してあげよう」と手を出します。
しばらく考えて、ようやく手を伸ばします。肩車には私の抱っこは敵いません。ご機嫌よくなった、一郎様を見て、私は笑っていたのですが、ハナちゃんはクスクス笑います。
「ちょっと一周してきます」と正様がそのまま出て行かれたので、その間に私は赤ちゃんを抱っこさせて頂きました。
「まぁ、まぁ、本当に可愛らしい」と言って柔らかい赤ちゃんの匂いまで堪能させて頂きます。
「正は一郎に嫉妬してたね」とハナちゃんに清様が話しかけます。
「えぇ。ほんと」と言って、クスクス笑います。
「え? そうだったのですか? 私は一郎様を取られて少し寂しかったのですけど…」と言って、赤ちゃんのお顔を覗き込みます。
黒いお目目が私を見ているような気がしました。
「ユキですよ。初めまして」と挨拶をすると、ゆっくりと笑われました。
「見て、ハナちゃん。笑顔」と慌てて教えます。
「そうなの。愛嬌のある子で…。優しい子になると良いわね」とハナちゃんは言いました。
「きっとなるでしょう。ハナに似てますから…」
「そうだと良いですけれど…」
二人の世界をたっぷり堪能させて頂いて、私も正様のように赤ちゃんを抱いて一周するべきかと思いました。
「正があそこまでするとは思わなかったですけれど…。僕はいつでも力になるので」
「あの…台湾でお医者様として働くとおっしゃってますけれど…、大丈夫でしょうか」
「台湾…」と言って、清様も少し眉間に皺を寄せます。
「日本とは違うのでしょうけれど…」
「正直、まだ揺れています。完全に日本になったわけではないので…。僕は行かせたくありませんけど」
「そうですか」
「ですが…彼は行くでしょう。穏やかですが、意志の強い男ですから」
そうです。正様は強いお心をお持ちの方です。ですから、どんな苦労も受け入れるでしょうし、それを私もお支えしたいと思います。
「詳しく聞いておきましょう」
「ありがとうございます」
女中様が良い匂いの紅茶を持ってきてくださいました。赤ちゃんは少しベビーベッドの上に置かせて頂きます。清様はそのタイミングで出て行かれました。女二人にしてくださって、気楽な時間でございます。
「一郎を肩車する正様は本当にユキちゃんのこと、大切に思ってらして…。それを見て、私、なんだか旦那様を見てるみたいで可笑しかったの」とハナちゃんは思い出し笑いをします。
「あ、あの笑いはそうだったんですか?」
「えぇ。従兄弟も似てるのねって」
なんとなくおかしくて、私たちは顔を見合わせて笑います。私は赤ちゃんとハナちゃんへの贈り物を出しました。
「まぁ、可愛らしい」と喜んでくれます。
そして二人で紅茶を飲んでいると、一郎様と正様、清様も戻られました。
「リビングでケーキを用意したので、移動しませんか」と声をかけてくださいます。
赤ちゃんは女中さんが見てくださるというので、大いに安心して、私たちは会話を楽しみました。素晴らしい冬の休日です。リビングには暖炉があって、薪が燃えております。絵本で見た、外国のようなお家でございます。久しぶりにハナちゃんと私は歌います。
豊かで平和な時間が流れておりました。
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