第10話
愛情と性教育
午前中に湖の辺りを散策します。一郎様は正様に肩車をされて、嬉しそうです。背の高い正様ですから、きっと見える世界も随分違うことでしょう。
私とハナちゃんは二人で並んでその様子を見ています。大原のお姉さんはどうやら秘密の恋人を呼び出したようです。画家らしく、スケッチをするために二人で出かけました。ハナちゃんに相談するなら、今しかありません。私は意を決しまして、前を歩く正様に聞こえないような声でハナちゃんに言いました。
「…ハナちゃん。実は…私…昨日…その…何もできなくて」と小さな声で相談しました。
「え? あ…。そうなの」とハナちゃんは目だけを大きくして、小声で返事します。
「どうしたら…いいかしら?」
「えっと…それは…力を抜かなきゃ…。でも…分かるわ。怖いわよね」
ハナちゃんがいてくれて、よかったと私はため息をつきました。
「とりあえず、深呼吸をして…力を抜かないと…」
「試してみます」
「そうね。…でも赤ちゃん出来たら…どうするの?」
「…それは」
ハナちゃんが私の手を取って「赤ちゃんは可愛いけど…今…出来たら、困らない?」と言います。
「困ります」
「やはり。…では私から正様に言いましょうか?」
「いいえ。そんなこと…」
「お医者様だから、きっと分かってくれると思いますけど…。それと…ご両親は大丈夫かしら? 台湾に行くこと…。もし説得に必要なら、私も口添えしますから」
ハナちゃんは私以上に心配して、手をぎゅっと握ってくれます。
私が何か言おうとしたら、正様が振り向いて「ユキさん」と呼びかけます。
ひそひそ声が気になったのでしょうか。
肩車されている一郎様も「ウキたーん」と言いながら、正様の髪を片手でギュッと手で握りながら、片手を上で振ります。なんて愛らしい、と私は感動しておりましたが、
「あ、こら、一郎さん」と慌ててハナちゃんが駆け寄りました。
「おかーたま」と可愛い声で返事します。
「お手て離して。髪の毛痛いから」とハナちゃんは焦って一郎様に手を伸ばします。
可愛い笑い声が上がり、手が離れました。そして一郎様を私が抱っこします。可愛らしい重みと少し汗の匂いと甘い匂いがしました。
「すみません。三条様、大丈夫ですか?」
「毛は多い方なので…多分、大丈夫…かな」とかなり不安そうに言われました。
私もハナちゃんも顔が青くなります。一郎様は肩車が楽しかったのか、またせがんでいますが、ハナちゃんが許しません。
「冗談ですよ。うちは目が細くて、毛の多い家系です」と言って、ハナちゃんに笑いかけつつ、私から手を伸ばしていた一郎様を受け取り、抱っこしてくれました。
「毛がなくても…美形です」と私は思わず言ってしまいました。
言ってから、なんてことを言ったのだと恥ずかしくなってしまいます。
「びけ?」と正様の腕の中で可愛い声が復唱します。
「男前ということです」とハナちゃんが教えて差し上げます。
「びけ、おじちゃん、びけ」と繰り返します。
これにはみんなが笑いました。笑われて不服なのは一郎様だけでしたが、一郎様も最後は一緒に笑い出します。空気が綺麗なだけ、心も軽くなるのでしょうか。色々思い詰めていたことをすっかり忘れてしまいます。
昼食後は一郎様が眠たそうにしているので、ハナちゃんは部屋で少し昼寝をさせて来ます、と言って、私たちと別れました。
「可愛いですね」と私が言うと、正様も頷きます。
「…僕は…すぐにでも子供が欲しいです。清が羨ましいです」
「えぇ。本当に可愛いです」
「…でも、僕のせいで」
「それは私も同じです。今は…無理です。あの本当に離籍なされるのですか?」
「…はい。お相手の方に会う前に離籍しようと思っています。僕は幸いなことに、分家の方ですし…まだ弟もいますから。それに誰も知らないところでやってみたい…っていう気持ちも大きくて。それにあなたを付き合わせるのはどうかとも思いますけれど」
「いいえ。私も一緒に挑戦してみたい…と思っております」
「そうですか。それはよかったです」と笑顔が見られます。
女学校でなくても、小学校でも、台湾でもどこでも私はやっていける、となぜか不思議と自信が湧いて来ました。そして顔を上げて、正様に向けて、両手をグーにして頑張りますとポーズをつけてみせます。その瞬間、正様に抱きしめられました。
「どうして…」
「どうして?」
「そんなに可愛いのですか?」
そう言われて、返事ができるはずもございません。
「やはりすぐにでもあなたとの子供が欲しいです」と言われて、ますます声を出せなくなりました。
「昨日は僕が不甲斐ないせいで…」
「いいえ」とそこは反対しておきました。
私が緊張しすぎていて…体が固まってしまったのですから。でも…私は素直に疑問になったので、正様はお医者様でもあられるので、聞いてみました。
「あの…。昨夜の…あれが…その…子孫繁栄ということですか?」
驚いたような顔を見て、私はまた何か失敗したと思いましたが、出してしまった言葉は消せないのだと…少し切なくなりました。
「それは…。あの…ユキさんは…その子孫繁栄の方法について…ご存じですか? 具体的にですけれど」
それを言われて、私は初めて気がつきました。そのシステムは習いましたけれど、具体的にどうするかは何も知らないということを。ただむやみやたらに男性と接触してはいけないとは聞いておりましたが、子を成す具体的方法となると、聞いたことがございませんでした。
「やはり…何もご存じないのですね。…人間も植物と同じで、受粉のように受精をしなければいけないのです」と植物の話から始まって、具体的にどこがどうなるかを、正様が地面に木の枝で描いて教えてくれました。
言葉になりませんでした。
「ただ人間は植物と違って…愛しい人と触れ合いたい…という思いが、そうなるのです」
「…触れ合いたい?」
「そうです。深く繋がりたいと思う気持ちです」
「…それなら分かります」
「その思いが、愛情が、行為につながる…ということです」
私が聞きたかったことを説明してくださるのに、親切にも恥ずかしいことまでしっかり教えてくださいました。
「愛情行為?」と私が聞き返すと、すごく照れたように笑いながら「まぁ…男は…他にもありますが」と言うので、しつこく聞いてしまいました。
うっかり好奇心旺盛なところが、また失言を生んだようです。男性は女性ほど愛情を持たなくてもできる、と言いながら困った顔をされるのをじっと見てしまいました。
「…ユキさんのことは…本当に…大切にしたいと…思ってます」
「…はい」と返事をしつつ、覚悟をしようと思います。
「でも…今日はゆっくり休みましょう。明日は帰る日ですし」
「え?」と私は思わず聞き返しました。
正様の方が驚いた顔をして私を見ました。それはそうでしょう。昨日はあんなに固まってしまった私だったのですから、今日はもう手を出す気はなかったようです。でももう今日でなければ、こういった機会はもうないと思いました。首を横に振る私を見て、正様がきっぱりと言いました。
「ユキさん…。やはり…すぐにでも結婚しましょう」
私は台湾の話も何も決まっていないのに…気持ちだけは確かでしたので、「はい」と言ってしまいました。
その日、大浴場へハナちゃんと大原のお姉様と向かいました。一郎様は正様とお風呂に入られたようです。私は早速、脱衣場にて諸先輩方に今日の話を相談しました。
「あら。決心したのね」とお姉さんが言います。
「…はい。でも…きっと認めてもらえそうにないことが不安で」
ハナちゃんは喜ぶべきなのか、少し考えているようです。お腹が膨らんでいて、この中に命が…と思うと本当に不思議ですが、美しく思います。素早く裸になって、浴場へ移動しました。
お客さんはまばらにしかいませんが、隣が男性のお風呂場なので、少し声を小さくして話ます。掛け湯をしながら、お姉様が教えてくれました。
「たあちゃんは小さい頃から大人しい子で、大きくなってからも穏やかで…でも結婚もなかなかだから、そろそろ周りから…ってなってたのよ。でもうちの母が…たあちゃんにはユキちゃんみたいな真面目で、しっかりした子がいいんじゃない? って言ってね」
私とハナちゃんは洗いっ子をしていて、ハナちゃんが背中を洗ってくれましたが、それを聞いて、思わず背筋が伸びました。
「一応男だから、遊んではいると思うのよ。それは弟にも聞いてたし…。でも浮いた話は一つもないから、どうかなぁって私も思っていたし、私はなんなら、女に興味ないのかと思ってたから」
遊んでいたということはどういうことでしょうか、と思いましたが、口をきつく閉じます。気が緩むと好奇心のせいで、失言しそうです。
「そしたら…ユキちゃんと会って、翌日かしら? 私のところに来て、どのカフェに連れて行けばいいか、とか女性が好きそうなものは何か、とか色々聞いてきたのよ。私、驚いてしまって。『名前の通り白い肌と黒髪と目が可愛かった。前髪は真っ直ぐ眉の下で切り揃えられて、横髪は耳の横で切られて、後ろは長くて…。唇は桜坊のように赤くて』って」と笑い出してしまわれます。
「…はぁ」と相槌を打ちながら、今度はハナちゃんの背中を洗います。
別段私が特別白いわけではございません。ハナちゃんの肌も白くて綺麗です。
「そして『何より素直に笑う笑顔が可愛らしかった』って…。たあちゃんが一目惚れしたのが不思議だったのよ。だって、一応、看護婦さんとか女性が多い職場だから…。その中では全く一度もなかったのよ」
「きっとお仕事では気を張っていらっしゃるのかもしれません」と私は言いました。
「でもお姉様…。私はユキちゃんが本当に幸せになれるか心配です。認められない結婚をするなんて」
すると、お姉様は洗い終えた体にお湯をかけると
「案外、認められない方が楽かもしれないわよ。二人きりで。親戚付き合いもなくて」とおっしゃいます。
お姉様と恋愛をされている方は結婚という形を取らずに過ごされているから、出た言葉でしょうか。どちらにせよ、私も家から勘当される覚悟でいることをお伝えしました。
「まぁ、ユキちゃんまで」とハナちゃんは心配そうに言います。
「大丈夫よ。二人でも生活はできるでしょう」とお姉様は気楽におっしゃいました。
その気持ちでいようと思います。女三人で湯船に浸かりながら、星を眺めます。都会で見るよりもずっとたくさんの星が浮かんでいます。
ハナちゃんが「清さんとも一緒にこの星を見たことがあって。また来たいな」とおっしゃってました。
「そんなこと清が聞いたら、大喜びするわよ」とお姉さんが笑います。
ハナちゃんの中ではしっかりと清様への愛情の領域があるようです。素敵な旅行になりました。友達と好きな人と…。そして私は幸せで…、少し湯気のせいか視界が揺れました。この幸せが消えてしまったとしても…私はこの日を忘れないと強く思います。星の一生に比べると、人の人生はなんと短いものでしょう。それなのにいろんな出来事が起こります。辛いこと、悲しいこと、嬉しいこと、楽しいこと…。毎日、毎日、繰り返して…そしていつかは私も星になるのでしょうか。そんなことを考えているとのぼせてしまったようです。
その晩は行為はありませんでした。ただのぼせた私を気遣って、ずっと抱きしめながら、頭を優しく撫でてくれました。私は正様の匂いに包まれながら、一つになれたら、どんな気持ちになるのだろう、と思いながら眠りについていたようです。穏やかな鼓動を聴きながら、心地いい温もりに包まれておりました。
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