第1話
花の香り
バラが咲き乱れる入り口を通って、多少緊張した面持ちで玄関をノックしました。大原邸はとても大きくて、瀟洒な洋館でしたので、少し怖気付いたものの、お嫁入りされたハナちゃんにお会いできるのが楽しみで参りました。
「いらっしゃいませ」とハナちゃんが明るい笑顔で迎えてくださったので、とりあえずはほっとしましたの。
私は吉水ユキと申します。本が好きで、本ばかり読んでいる内気な性格でしたが、女学校でハナちゃんが何故か仲良くしてくださって、私、彼女が大好きになりました。
女学校時代は二人で少女雑誌を楽しんだり、付録を見せあったり…時には交換したり…本当に仲良くしてくださいました。
彼女は活発で、クラス委員を務めるような方でしたから、誰からも頼りにされておりました。私もハナちゃんにいつも引っ付いて金魚のフンのごとく、くっついて歩いてました。
ですから、ハナちゃんが婚約者がある身ながら、恋をしたと聞いた時は、何がなんでもお力になりたいと思いましたの。あの元気で溌剌とした彼女が涙を流した時には…なんと言いますか、私も胸が詰まる思いをしました。
けれども恋をしたことのない私が一体どんなふうにお助けするかは、あるいは…できるかは全く思いもつきません。ですから、ただ…話を聞いて、ハナちゃんに寄り添う他はありませんでした。
しばらく話を聞いていたら、さっき甘味処でお会いした男性が戻って参りまして、どうやらこの方がハナちゃんの思い
ですが夏休みが終わって始業式に久しぶりに再会した時、思いを断つとおっしゃられて…。夏の間に何があったのかさっぱり分かりませんが、私は「お辛いでしょう」としか言えませんでした。なんとも役に立たない自分が悔しくもありました。そのままお別れしましたが、その日が、あの関東大震災の日でしたので、それからしばらく会えませんでした。
学校も再開されて、ハナちゃんは時折、悲しそうなため息を漏らしておりました。別段おかしいことはございません。その時はみんなそれぞれ悲しみを抱えておりましたし、明るい様子をするのも憚られるような時期でしたから。
ある冬の日、ハナちゃんがそっと私に今までの少女雑誌の付録をくださいました。
「これ…よかったら」
「え? でも…」
「年を明けて…梅の咲く頃にお嫁入りが決まったの」とハナちゃんが言うのです。
それが少し悲しそうで、私はおめでとうございますが言えずに、包みを受け取ってしまいました。
「ハナちゃん…。遊びに行っても大丈夫ですか?」
「もちろんよ。きっといらしてね」とすぐに明るい笑顔を見せてくださいましたけれど、心中察すると…なぜか私が涙をこぼしてしまいました。
「あら、どうして、ユキちゃんが泣くの?」
「だって…ハナちゃんと…学校で会えなくなりそうで…。それに…あの方は…」
「あの方は違う方と結婚が決まったのよ」と寂しそうに微笑まれました。
ハナちゃんが結婚に向かっていくもう一つの理由になったのでしょうか。
悲しみが私を襲いますが、ハナちゃんは気丈に振る舞って「そうなる運命だったのよ」と言いました。
そう私たち女性には生き方を選ぶことはできませんでした。親の言う通り、結婚し、そのあとは夫の言う通り過ごさなくてはいけないのです。私などはとても愚鈍な人間ですので、誰かの言う通りに生きなくてはいけないかもしれませんが、ハナちゃんはしっかりして、リーダーシップを発揮できる方でしたのに、と何だか悔しく思いました。
「ユキちゃん。色々心配下さってありがとう。そして…とっても嬉しかったわ」
「いえ。少しもお力になれなくて…。ごめんなさい」
「そんな…ユキちゃんは理性的だし、私のないものを持ってらっしゃるから、尊敬しているのよ」
まさかハナちゃんにそんなことを言われるなんて思いもしなくて、私は思わず見つめてしまいました。
「いつも落ち着いてらっしゃるし…。本をたくさん読んでらして、知識も豊富ですし…。どうか…これからもいいお友達でいてください」
そんな風に言われて、私は言葉にならず、涙を流すばかりでした。
ですから婚礼後、しばらくして「遊びにきてね」というお手紙が届いた時には一も二もなく伺うことにしましたの。
「久しぶりで、とっても嬉しいわ。皆さん元気にしていらっしゃる?」とハナちゃんが明るく言いますが、少し綺麗な、少女と言うよりは女性になったような美しさを感じました。
「えぇ。相変わらずですわ。でも…ご結婚が決まっていた千代ちゃんがいよいよ学校をお辞めになるって。夏前に結婚されるらしくて、正子さんが少し寂しそうですわ」
「まぁ、千代ちゃん…。銀行の方でしたっけ?」
「そうです。あの…口づけの」と私が言うと、ハナちゃんは明るく笑いました。
「そうね。千代ちゃん、驚いたでしょうね」
「私だって、きっと驚きます」と言いましたが、もうハナちゃんは奥様ですので、そう言ったところはやはり話が少し私たちとは違っていました。
玄関口で立ち話をしていると、綺麗な女性が現れて「ハナさん、お友達もお疲れでしょうから、応接室へご案内して」と言いました。
私は慌ててご挨拶をすると、涼しげな目で微笑んで「どうぞ、遠慮なさらずに、ごゆっくり」と言って、去っていった。
ハナちゃんは舌をぺろっと出して「お母様なの。後で注意されちゃうかな」と言った。
「ごめんなさい」
「いいえ。違うのよ。お客様を玄関で立たせてっていうこと。今日、お友達が来るのは構わないって仰ってたから」と言って、応接室に移動しました。
見たことのないような調度品に囲まれて、ソファというものに腰をかけることになりました。
「素敵ですけど…慣れないですわ」と私が言うと、ハナちゃんも「そうなの」と困ったような顔をする。
私もハナちゃんもずっと日本家屋に暮らしていて、私の父は教師、ハナちゃんは警察官という一般的な家庭です。
「慣れないですけれど、ゆっくりしてね」とハナちゃんが言うので、ふかふかの椅子の上でなんとかお話をしました。
しばらくすると女中さんが紅茶という飲み物を運んできてくれました。小さなビスケットも付いております。その横には可愛らしい小瓶にジャムが詰められておりました。
「綺麗な色といい香り」と目を丸くしておりますと、お砂糖やミルクを入れて飲むものだと教えてくれました。
お茶にミルクと砂糖とは奇妙な気もしますが、いつものお茶ではないのですから、やってみることにしました。すると今まで飲んだことのないような、これは天使が飲むような飲み物だと思いました。
「素敵な飲み物ですね」と私が言うと、ハナちゃんはにっこり笑いました。
「私もこちらで初めて頂きましたの。ぜひユキちゃんにも…と思いまして」
どうやらハナちゃんは友人を招くことも、もてなす事も許されているようで、婚家から大切にされていることが分かります。
「今日はね…お話があるの。いつもいつも、ユキちゃんにだけお話ししてるんですけど…」
「えぇ」と言って、聞きましたら…、あの方が結核になられたということで、最後にお会いしたらしいのですが、相当具合が悪いそうです。
「でも…お会いできてよかったですね」
「そうなの。…夫が…会わせてくださいまして」
私はびっくり驚いて言葉を無くしました。一体、この世の中に妻の思い人に会わせる旦那様がどこにいるのでしょうか。
「それは…また…旦那様も…」
「えぇ。だから…本当に…私…」
二人して黙り込んでしまいました。でもハナちゃんは自分の気持ちは切り替えて、旦那様を大切に生きることに決めたそうです。そしてお腹に赤ちゃんがいることも教えてくださいました。
「まぁ、それは本当におめでとうございます。気分は悪くないのですか?」
「えぇ。それが…気づかなかったの」と二人で驚いて、笑います。
「ハナちゃんに似てる女の子だったら可愛いだろうし…男の子でも素敵な子になりますね」と私が言うと、ハナちゃんは嬉しそうに笑ってくれました。
そんな時にドアがノックされて、切長の目をした綺麗な男の人が入ってきました。
「今日は。楽しそうな声が聞こえてましたよ。お友達が来てるというから…」と箱をハナちゃんに箱を渡してくれます。
あの美しいお姑様によく似ていらっしゃるので、ハナちゃんの旦那様だということが分かります。私は慌てて立ち上がって挨拶をしました。あの方とは違って、日本人らしい清々しい美しさをお持ちの男の方でした。
「ユキちゃんは読書家で、お勉強も良くできて…とっても思いやりのある方なの」と紹介してくださって、顔が赤くなります。
「そうですか。いつでもいらしてください」
「いいんですか?」とハナちゃんが聞きます。
「もちろん。ここはハナさんの家でもあるんですから」
二人を見てますと、少々距離はあるものの、幸せな形を作られそうで、安心しました。
「ユキちゃん、いつでもいらしてね」
「ありがとうございます。あの…赤ちゃん、おめでとうございます」
そう申しますと、少し顔が赤くなりまして、お礼を言われました。あの方ではございませんが、きっとハナちゃんは幸せになるだろう、と私は思いました。ハナちゃんが箱を開けると見たこともないお菓子が入っておりまして、シュークリームというものだそうです。わざわざ私のために、いえ、友達を招待したハナちゃんのために用意されたものだということが分かります。
私たちがシュークリームを見て、黄色い声をあげていますと、居場所がないのを感じたのか、旦那様は部屋から出て行きます。
「どうぞ、ごゆっくり」と涼しい顔でおっしゃいますが、ハナちゃんを見る時だけは少し柔らかくなるのが分かります。
「こんなお菓子を買ってきてくださるなんて、本当に素敵な旦那様だと思います。私はそんな素敵な旦那様を見つけられそうにないので…」
「ユキちゃん?」
「女学校の先生になろうかと考えていますの」と私は思い悩んでいたことを言いました。
「まぁ」と口を開けて、そのまま固まるハナちゃんが次の瞬間、私の横に飛んできます。
「素敵、素敵。ユキちゃんが先生なら、きっと学生さんも喜ぶわ。だって…私の話も聞いてくださったし…。私、ユキちゃんにとっても助けられたのよ。本当に、本当に」と言って、私の手を握りめます。
そんな風に言ってもらえて、私も少し胸が詰まりまして、思わず涙目で見つめてしまいました。
ちょうどその時、ノックされたかと思うと、ドアが開いて、旦那様が
「あ、そう言えば…」と戻ってきて、私たち二人が手に手をとって涙目で見つめ合っている姿を目にして、固まってしまいました。
私たちは特に何も思わなかったのですが、うっかり女学校のノリになってしまったようですけれど、それは男性にとっては少し刺激が強うございました。
「…大変失礼しました」と言って、固まったまま出て行かれました。
そして私たちは笑いが止まらなくなりまして、本当にいつぶりだろうかというくらいにはしゃいで楽しい時間を過ごさせて頂きました。シュークリームも夢のようなお菓子でしたし、私たちは楽しい思い出を語り、お暇することになりました。
美しいバラが咲く入り口まで見送って頂いたのですが、さよならをする時はどうしても胸が潰れそうになります。バラの香りが優しく漂う玄関で、私はハナちゃんに大きく手を振りました。きっと先生になるという夢を叶えて、またハナちゃんのところへ遊びに来ようと思ってました。
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