潮騒の唄

椎那渉

邂逅

潮騒が聞こえる。


 細かい砂粒が頬に張り付き、不愉快そうに彼は顔を顰めた。見渡した景色と音から察するに、どうやら波に呑まれ砂浜に打ち上げられたらしい。

 それまでの記憶を思い出そうとすると頭の芯がずきりと痛み、朧げな道のりをぼんやりと脳裏に浮上させる。彼の乗っていた船が嵐に巻き込まれ沈没しかかって、ただひたすら広い海に投げ出された。息苦しくなり浮上して、かすかに聞こえる波の音が次第に鮮明になってくるあの感覚。誰かに引き上げられたようでいて、自分で必死に藻掻いたような全身の倦怠感もあった。あのまま死んだ方が良かったのかも知れないと、海に投げ出され何も感じない筈の頬に当たるザラザラとした感触が、皮肉にも彼に生を感じさせた。燃える様な赤い髪と同じ色の睫毛が揺れて、彼は次第に目を覚ます。色の薄い紫が揺れる。

 最初に視覚情報として入ってきたのは、一面の白だった。

 気づいたら全身に傷みが奔り、痛みに顔を歪めながらも上体を起こす。目の前に広がるのは一面の砂浜。自分の置かれている状況と近くに散らばる木片の残骸から察するに、何処かの海辺に漂着したようだ。両手は砂の山を掴むだけなのに、誰かに手の平を掴まれた感触が未だに離れない。


「……ここは…?」 


 見覚えのない景色、嗅いだことの無い匂い、感じられない生き物の気配。

 すべて無機質な存在である。

 少なくとも彼にはそう思えてしまうくらい、自分の周りには『何も』無い。 

 辛うじて一緒に浮いてきたのであろう木片と、足に絡みついた海藻、そして腰に携えていた短剣が目に入っただけだ。重い腰を上げ、ぐっしょりと濡れたブーツに絡んだ海藻を引き剥がして立ち上がる。

 足の感覚があると言うことは、この場所は少なくとも天国ではないようだ。生きている実感が湧くと急に空腹を感じて、当てもなく歩き出す。ブーツの中に染み込んだ海水が音を立て、気持ちの悪い音と感触がする。彼はブーツを脱ぎ、濡れて重たくなった靴下も脱いだ。手で絞ると染み込んだ海水がぼたぼたと落ちてきて、少しばかり軽くなった。

 確かあの船には何人か乗っていた筈だ。自分が無事なら誰かも辿り着いていないだろうか。改めて周りを見渡しても、砂と岩と干からびた海藻が目に入るばかりで背後には自分のつけた足跡しか残らない。海岸の隅の方で発見した、漂着物らしい錆びた宝箱には既に宝物など入っておらず、波に巻き上げられ中に残った名の知らぬ魚が数匹入っているだけだった。動きは恐ろしく愚鈍で、直ぐに掴まえられそうだった。

 それでも何も食べないよりはいいと、手のひらほどの大きさの魚を手掴みで拾い上げて近くの岩場に叩きつけた。息絶えた魚の腹を短剣で裂き、海水で洗って開きにする。火を起こせるものを探してみるが、先程見つけた木片は海水に濡れて使い物にならないだろう。仕方なく開いた魚の身を削ぐように薄く切り、そのまま口にした。少し生臭くて触感は歯ごたえがありコリコリとしているが、空腹が紛れるよう少しずつ力を取り戻した奥歯で噛み締めた。

 今は少しでも食べられるものが、彼にとっては何よりの宝だった。沈没してしまった船で、自分を拉致した船乗りから半ば無理やり干し肉を奪い、数口齧って以来口にする久方ぶりの食事だった。干し肉と生魚、極端な食事にせせら笑うが今は贅沢を言っている場合ではない。他に食べ物はなく、あとはこれから向かう海岸にめぼしい物が落ちていることを願うばかりだった。

 歩みを進め、砂浜に色濃い影が落ちてくる頃。


『その骨を寄越せ』


 突然自分以外の声が聞こえてくる。

 自分の心の声でも漏れたのかと錯覚するが、脈絡もなくそのような言葉を発するとは思えない。そして声の主は自分とは違う、男のもののようだった。低く通るその声は波の音のようにも風の鳴き声のようにも聞こえる。しかし続く言葉はなく、気のせいかと再び耳を澄ませる。

『おい。聞こえていないのか』

「…!」

 気のせいではなかった。確かに自分以外の誰かがいる。そう思った時には、声の聞こえてきた太陽の傾いている方向へ裸足で駆け出していた。幸い日没までには僅かな時間がありそうで、会うことができれば話せるのではと逸る心を抑えつつ岩壁まで辿り着く。孤独な無人島かと思いきや、先客がいたようだ。波に侵食され削られている遺跡のような痕跡を見つけて、砂岩で塞がれている壁に手を伸ばした。

「誰だ!ココは何処だ⁉骨なら幾らでもくれてやる!」

 彼は手に持ったままの魚の亡骸を突き出した。すると何かの気配が次第に近づいてくる。視認することのできない何かが目の前を掠ったと思いきや、手にしていた魚は跡形もなく消えていた。そしてその何かが向かった方向にあるのは、黒曜石らしき黒光りする鉱石でできた大きな門だった。

 先程までその門は無かった筈だ。唐突に現れたそれを見て、本能で背筋に怖気が走る。一体何がこの先に待ち受けていると言うのだろうか。

 

 重厚な造りでどっしりと構えているその門に近づくと、人がひとり通れるか否かくらいの穴しかなく、それ以外は閉ざされた壁のように黒く塗りつぶされている。青年は門の向こうに辿り着くために無我夢中で穴の周りを掘り始めた。黒曜石だと思った鉱石は黒雲母で、短剣の切先で触れればぱりりと剥がれ落ちた。しかし幾重にも重なった層はすぐに切先を貫通しない。ここで『彼』と会うことができなければ、一生後悔するだろうとさえ思えてしまった。大きな生き物の気配がないこの島で、最初の人類に出逢えることを願う。短剣を振るい最後の一凪ぎでようやく貫通すれば、あとは削ぎ落すように黒雲母が剥がれた。ようやく人ひとり通れるようになった門の向こうへと、視線を巡らせる。


 彼の眼の前に広がっているのは、一面の紅だった。


 水平線に沈みかけた夕陽に染められて、空も海も砂浜も何もかもが深紅に染まっている。

 その中に先程垣間見た黒い影を見つけ、声も出せずただ惚けたように立ち尽くした。海に迫り出した岩の上に佇むそれが人のかたちをとり始め、ただその様子を見つめている。

「おい。此処は何処だ。もしかして、人間が言う天国って奴か?」 

 聞こえた男の言葉に空を仰ぎ見て、再び影の方に目線を落とす。そんなことは自分の方が聞きたいと思いながら、もしや天国ではないと思ったのは自分だけだったのだろうかと思案する。雲間から差し込む光の帯を、天国への階段と揶揄する言葉を思い出す。もしくは彼が地獄の門番で、今しがた自分で掘り進めたのは地獄門ではないのだろうかと背後を振り返った。

 先程まで頑なに構えていた黒い門は、跡形もなく消えていた。

「なんでだ?確かにさっきまでここにあった筈なのに…それに此処が何処なのかは俺が聞きたい。あんたは一体、何なんだ?」

「ゴーレム、悪魔、ホムンクルスのいずれか。あるいは『門番』」

 謎かけのような回答が返ってくると、彼は諦めたように首を横に振った。宙の向こうが天国なのか、今居る場所が天国なのか。どちらにせよ自分には分からないが、少なくともこの場所の居心地は悪くなかった。即ち地獄ではない、という事だけは理解できる。

「それから。さっきの骨、もっと寄越せ」

 男はこちらに気づいたのか、大きな声を掛けてきた。相変わらず低くてよく通る声だ。しかし呼び掛けられた言葉の後半、何と言ったのかは風の音で聞き取れなかった。男は岩から飛び降りた途端、こちらを目掛け走って来る。地獄の鬼に見える角、悪魔の遣いになれそうな黒い羽根が見えた。この地の住人なのだろうか、それともヒトではない何かなのか。彼は恐る恐る、目の前の彼を見た。

「……」

 近づいてきたのは、特徴的な髪型をした青年だ。螺旋状に巻かれた前髪がうねり、翼に見えたものはたっぷりとした後ろ髪が走ると同時に広がった姿だった。一見すると普通の人間のようだ。瞳は沈みかける夕陽のような緋色。衣服は身につけておらず、華奢で透き通るような白い肌を露わにし、腰部に赤い布が巻かれているだけだった。食い入るように観察すると、その青年もまじまじと彼を見た。

「骨はどこだ?どうやってここにきた」

「…無理やり乗せられた船が難破して、波に流されてここまで来た。誰かに引き上げられたような感触もあったけど、気が付いたら砂浜にいたんだ」

 砂を噛み傷だらけの手を固く握り、再び開くのを2回程繰り返した。あの力強さは偶然何かに引っかかったのではなく、何かに…いや、誰かに引っ張りあげられたものだとしか思えなかった。

「誰かにって誰だ?」

「それは分からん。殆ど意識がなかったから」

「そうなのか…それで?おまえはなんだ?」

 矢継ぎ早に質問を投げかけてくる青年にたじろぎながら、小さい声で自分は剣師だ、と言葉を返す。

「…俺はジェイド。剣師のジェイドだ」

「じぇいど?」

「ああ。おまえは……」

「おれは何者でもない。多分、ヒトでも魚でも星でもない。ジェイド、剣師って何だ」

 首を傾げて更に問う姿は成人のそれとは思えず、見た目の割には何も知らないようだと悟る。言葉選びに迷いながら、誰かを護り己を高める職業だと伝えた。ジェイド自身、剣師の生き方はそれでしかないが、いつかそうなりたいと願っていたからだ。

「そうか…誰かを護る、か。よく分からんが、まぁいい」

 納得したのか理解不能と諦めたのか定かではないが、彼はそう言うや否やいきなり走り出した。あっという間にジェイドから離れてしまうのを一呼吸置いて、彼も走り出す。

「おいっ……!待て!」

「おれの名前はオニキスだ」

 さっきまでの険しかった表情が一変したオニキスの笑顔と、差し出された手にジェイドは目を見開いた。何処かで見覚えのある黒い爪先に、ひとつの可能性が頭に浮かぶ。オニキス、と彼の名前を小さく反芻した。

 自分の手を引っ張ったあの感触、光景の中に、黒い爪が見え隠れしていたのを思い出す。

 燃えるような紅い色の夕焼けに、夜の訪れを感じさせる闇色の空が混じり始めている。まるでオニキスと自分の髪色みたいだと立ち止まるジェイドを、前方でオニキスが呼んでいた。


 ヒトとヒトならざるモノ、ふたりの唐突な出会いと「この島」の始まりは。

 今、この瞬間に産声を上げた。

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