【第一章】星のない夜にふたりは出会った

 星の堕ちた夜だった。

 入り込んだ魔の森は暗く、黒に染まり、真上に見えるのは暗がりにぽっかり空いた穴のような、真っ白い月だけ。明るいはずのそれは、けれど地上まで降り注ぐこともなく、木々は揺れることを忘れたかのように、辺りはシンとした闇に呑まれている。


 ――いや。


 ボキリ、と音がした。

 次いで、グチュリとなにかが潰れる音。

 ツンと錆びたニオイが鼻をついて、逃げなければ、とステラシアは思う。そうだというのに、地面に転がり投げ出された手足は鉛のように重く、痛みが思考を麻痺させて、気力も意識すらも途切れそうになる。


(だ、め……。逃げなくちゃ。ここでは、死ねない。わたしはまだ、死ねない、のに……!)


 ふと、別れる前の師匠の顔を思い出した。まるで走馬灯のようにぐるぐると頭の中を回って、縁起でもないと歯を食いしばる。

 「逃げろ」と言われた。逃げて逃げて逃げて……生きるためにどこまでも逃げろ、と。最後に見たのは真っ赤に染まった、それでも綺麗な顔で。眼差しだけが強く強く……そして、凪いでいた。だから、だから絶対、自分はこんなところで死ぬわけにはいかないのだ。


「…………っ、く、ぅ」


 意識を刈り取ろうとする痛みに抗い、ステラシアは足掻いた。

 ああ、もう、腹部がありえないほどに痛い。起き上がるために力を込めた爪の間に、掻いた土が入り込む。指が汚れる。けれどそれがなんだという。いつだって自分の手は土に塗れていたじゃないか。だから、そんなこと、今はどうだっていい。

 だって、逃げなければ。

 グチュ、びちゃ、という音がずっと聞こえている。先ほどよりも鉄サビのニオイが強くする。それとは別に、胃が爛れそうなほどの臭気が一帯を包み始めている。耐えられないと思わず嘔吐けば、酸っぱさと錆の味の混じった液体が口から溢れた。


「ぅ……ごほっ……ぐぅ」


 ふと、ステラシアの目にドロリと濁った闇が映った。数歩先に、真っ黒な獣がいる。逃げようと足掻く獲物を嘲笑うかのようにステラシアを見つめ、光のないソレの瞳が細められる。

 ――魔獣だ。

 星の堕ちた後の、闇が立ち昇らせる瘴気から生まれ、人を襲い、喰らい尽くすモノ。体躯は獣のそれなのに、体は腐ったように崩れ落ちる寸前で、四肢は歪に長く、そして太い。顔はきっと狼のようなのだろうが、まとわりつく闇が濃すぎて判別がつかない。口もとだろう箇所に誰かの腕が引っかかっている。闇の中にチラチラ見える白いものは、きっとさっきまで一緒だった子たちの――骨。

 直視したくなくて視線を逸らせば、つい数瞬までステラシアが乗せられていた馬車が、横倒しになっていた。木片の残骸がそこかしこに散らばっている。御者台に繋がれていた2頭の馬は、逃げることもできなかったのか肋をあらわにして不随意に痙攣していた。その後ろに、まだ蠢く闇がいくつもある。胃がひっくり返ってしまいそうな臭気が、どんどん強くなる。


「っ、は……や、だ……来ないで」


 自分にもっと力があれば良かったのに。あの魔獣を消し去ってしまうほどの強い力が。そうすれば、あのとき師匠を見殺しにしなくてよかったはずだ。こんなところで、言いつけも守れず死ぬこともなかった。


 ――なんでわたしの「力」はこんなにも微弱なのだろう。


 幾度となく繰り返した問いが、こんな状況でもまた湧き上がる。


(ああ、やだ……死にたくない。でも、もう……っ)


 ごめんなさい、師匠。

 そんな懺悔の言葉がステラシアの脳を巡る。きっともう、後がないとわかっているのだ。怪我がひどい。血を流しすぎている。万が一にも魔獣をどうにかできたとして、そのあと自分はどうなる? 生き延びられる可能性が、とてもじゃないがあるとは思えない。

 ――それでも。

 わかっているのに、やはり諦めることはできず、ステラシアはずり上がるように地面へ突いた肘に力を込めた。恐ろしさに強張ってしまったのか、目を閉じることはどうしてもできなかった。

 手負いの獲物を嬲るようなつもりでいるようで、魔獣の動きは緩慢だった。ゆっくりとステラシアに近寄った口もとがニィ……と笑った気がした。目の前で、カパリと顎が開く。暗い暗い深淵が迫ってくる。隙間からこぼれたなにかが、地面に触れてジュッと音を立てた。


「……ぁっ」


 ステラシアがヒュッと息を飲んだ瞬間、わずかに木立を揺らして、真上から星が降ってきた。


「ギャアアァァッ!」

「うるさい。黙って死んでおけ」


 キラリと、地上まで差し込まないはずの月の光を反射して、銀のきらめきがステラシアに覆いかぶさる魔獣を切り裂いていった。そのまま焔を纏ったように見える剣がひるがえり、一体、二体、三体……あっという間に、湧き出し続けていた魔獣を屠っていく。

 動かない体を叱咤して首を巡らせたステラシアは、その様子を眺め、ほっと息を吐いた。


(助、かっ……た?)


 誰だかわからないが、空から男が降ってきて、あっという間に魔獣が跡形もなく消し去られたのだ。これできっとだいじょうぶ。そう安堵した束の間。意識を手放そうとした途端目の前に突きつけられた剣先に、ステラシアは目を瞠った。


(あ、あれ? なにこれ……助かって、ない……?)


 なんで? どうして? 意味がわからない。

 お腹がどうにも痛いのだから、さっさと助けてくれると嬉しいのだけど。どうせならお医者様に担ぎこんでくれてもいいのだけど……?

 助かると思った安心から少々気が抜けたのか、腹部の痛みが先ほどよりも耐え難くなってきた。首を少し動かすだけで腹に響くのだ。

 ぐるぐる考え込みながらステラシアは視線だけを上に向ける。

 眼前の切先から、剣身、柄を握る手はなににも覆われていない。腕は装飾のなさそうな黒い袖に包まれているようで、そこから上は外套でよくわからない。だが、そろそろと見上げた先に見えた色彩に、ステラシアは息を呑んだ。


 そこには、煌めく星が、あった。


 流れるような淡い金髪が、空に戻り始めた星の灯りに照らされていた。こちらを見下ろすアメシストの瞳は銀色の煌めきを宿している。それを縁取るまつげもまた、淡く輝く金色だ。顔立ちは端正で甘いが、眉間に寄せられた眉の太さが、男らしさを強調している。ステラシアの生きてきた十六年で、まず見たことのないほどの美形だった。


「……おい。生きて、いるのか?」


 美形は声もすばらしいらしい。低すぎず、高すぎないアルトは、するりとステラシアの耳に滑り込む。ほけっと聞き惚れたのを男に訝しげに見つめられ、ステラシアは慌てて微かな息を漏らした。

 声にはならなかった。けれど、頷くには眼前の剣先が危なっかしすぎた。ちょっとでも動いたらきっとサクッと刺さっていたに違いない。


「ひどい怪我だな」


 スッと剣が引く。それだけで、詰めていた残りの息がはふっと漏れ出ていく。途端に痛みを思い出して、ステラシアは顔全体を顰めてしまった。

 そう。どこからどう見ても、ひどい怪我をしているはずなのだ。わかっているなら早く助けてほしい。だってステラシアは、こんなところで死にたくないのだから。

 なのに、この星のような男はそんなステラシアをじっと見つめるばかり。


(なになになんなの? お願いなんでもするからこの痛いのどうにかこうにかしてくれないかな!?)

「湧いていた魔獣は倒した。が、いま息のあるのは――、……おまえだけのようだ」


 グルリと辺りを見回して、一瞬だけ目を細め、星のような男は悠長にそんなことを宣う。

 そんなことわかってるわ! と、叫べるものならきっとステラシアは叫んでいた。あの状態で生きている人間がほかにもいたら、それはそれで奇跡と呼べるはずだ。

 そんな奇跡……あったら嬉しいけれど、そんなことより今はこの怪我だ。


(こ、これ以上痛みが長引くと、本当に――マズイ、かも……)


 なんなんだろうこれは。助けてくれる気はないのか。それともこのまま死ぬのを待っていたりするのだろうか。拷問? 拷問なの?

 いやいやいやいや冗談じゃない。せっかく魔獣から逃れられたのに、今度は星に殺されるとかそんなのこれっぽっちもお呼びじゃない。


「どうする? 苦しいなら、俺がこのままおまえを楽にしてやるが」

(……なっ!)


 なあ、と呼びかけられて目線で問うた答えは、淡々と口にするにはあまりにも非情だった。霞み始める視界をむりやり押し広げて、ステラシアはキッと真上から覗き込む男を睨みつけた。いつの間にか傍らに膝を突いていた男の外套を、震える指先を持ち上げて掴む。

 冗談じゃない、と再び思った。本当に、冗談じゃない。こんなところで死ねない。だってステラシアはまだ、生きていたい。なんで生きていたいかなんて、そんなこといまはなんだかもうわからないけど、でもこんなところで死ぬのは違うと思うのだ。ああそうだきっと、師匠が「逃げ続けてでも生きろ」と言ったからなのだろう。だからこそ、ステラシアは死にたくなかった。


(それに、師匠を……。わたしは師匠を、探さなきゃいけない)


 あのとき、魔獣に襲われて逃げるしかなかったステラシアは、幼い頃から育ててくれた師匠を見殺しにした。逃げろと言われても、たとえ力が弱かろうとも、戻って一緒に戦えばよかったのに、ステラシアはそれができなかった。怖くて怖くて、自分だって怪我をしていたはずなのに「逃げろ」と笑って退路を確保してくれた師匠に、甘えてしまった。それなのにこんな醜態を晒している。

 だったらここで死ぬんじゃなくて、生きて師匠を探して謝って、また二人きりの慎ましいけれど賑やかな生活に戻りたい。


(殺すと言うのなら、その反対だって……。それが、この人にできるというのなら――)

「どうした? 最期の言葉なら聞き届けてやるぞ」

「い、やだ」

「――は?」

「わたしは、死にたく、ない。わたし、は……わたしは、生きた、い……! どんなことを、してでも……っ」


 一音一音を発するごとに、傷が疼く。喉に血が絡んで酷いしゃがれ声だ。けれど、ステラシアは男を睨みつけることをやめなかった。外套を掴んだ手は白くなるけれど、構わない。がむしゃらに引っ張りながら、むりやり身を起こす。


「お、おい……!」


 焦ったような声が聞こえるが、知ったことじゃない。まだ生きているのに、こんなところで勝手に終わらされるなんて、まったく本当に、冗談じゃない。


「お願い……死にたくない。生きていたいの。――だから、たすけ、て」


 わたしを助けられる力があなたにあるのなら、わたしはわたしを殺そうとしている男にだって、わたしの命を乞うわ。

 短く息を吸う音が聞こえた。むりやり起こした体が、ぐらりと傾いでいくのがわかる。本当にもう、限界だった。

 それを抱き止めたのは、星のような男の長い腕。案外ガッシリとしているそれに、ああ男の人だ――などとどうでもいい感想を思い浮かべ、ステラシアの意識は急激に落ちていく。


「――っ、……そう、か。わかった」


 一拍を置いて感じた光の温かさは、ステラシアにとても馴染みのあるものだった。


***

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