聖なる星の乙女と予言の王子
桜海
プロローグ
なんてことないふつうの日
「ステラー、ステラー! ステラシアー?」
広い庭の、日当たりの良い南側に広がる畑で野菜や薬草に水をやっていたステラシアは、屋敷の中から聞こえた声に顔を上げた。
「はいはーい! 師匠どうしたのー?」
答えながら、ステラシアは片腕に抱えたカゴに収穫を迎えた薬草を摘んでいく。それが終わると、こんどは別の区画に移り、今日いっぱいの献立を考えながら野菜を収穫していった。
季節は春たけなわ。先月、一年の始まりを迎えた
ここ、ポーラリア
「さて、と……」
呼びかけたきりなんの音沙汰もなくなった背後の屋敷を見上げ、ステラシアはふう、と仕方なさそうに息を吐いた。
森の中にあるとは思えないほど、大きな二階建ての屋敷。部屋の数は十を超えていて、二人きりで住むにはとてもじゃないが広すぎる。掃除もぜんぶの部屋を一日では終わらせられないので、ステラシアは一日ずつ部屋を決めて掃除をしていた。
一日に掃除を終わらせる部屋は二部屋。十部屋を一週間(五日)で終わらせるには十分だ。それ以外に、水廻りや納戸の掃除もあるのだから、手が足りない。それでも、ここに働き手はステラシアしかいないのだから、やるしかない。別に給料が出ているわけでもないのだけど。
(師匠はまた、服が着られなかったのかなぁ)
薬草の葉の状態を確かめてから立ち上がる。最期に、趣味で植えている花々を少しだけ摘み取って、野菜などと一緒にカゴに入れた。そのまま出入り口へと向かう。そろそろ師匠は、脱ぎ着のしやすい服に変えたほうがいいと思うのに。
ステラシアがいる南側は、屋敷の左側にあった。畑や、薪小屋なんかがあって、冬でも陽が良く差し込む。南北に伸びた屋敷は、東側が出入り口で、西側が裏手。北側には特に何も無いが、まだ少し雪が残っているから転ばないように気をつける必要があった。
「師匠ー! 本当にどうしたのー? こんどはなにやらかしたー?」
屋敷の外壁を周り玄関口から声を張り上げれば、かすかに「やらかしてないよ! まだ!」とくぐもった声が聞こえ、同時に――バフン! となにかが破裂した音が屋敷中に響き渡る。
「
ずいぶんと遠くの方から声が聞こえた。ということは、二階の一番奥……この屋敷の主である師匠の部屋にこの爆発音の犯人はいて、すでになにかをやらかしたらしい。
やれやれと首を振り、玄関ホールを抜けた北側にある一番近くの扉を開ける。そこは機能の充実した、きれいな厨房だった。きれいなのは当然だ。だってステラシアがここだけは毎日欠かさず掃除しているのだから。手前の調理台に持っていたカゴを置いて、ステラシアはさらに続きの扉に手をかけた。ポワ……と光が浮いて、扉が自動で開く。そこにある布類をかき集めると、ステラシアは急ぎ足で階段を上っていった。
「師匠! こんどはなにをしたの!?」
奥の部屋のドアを開けた瞬間、ぶわりと吹き付けてくる煙にケホケホしながら、ステラシアは慌てて窓に駆け寄った。半分だけ開いているソレを思い切り全開にする。
「いやー、ごめんごめん。なんか失敗しちゃった」
「なんかって……」
なんかじゃないよもぉぉ!
手にした布をバサバサ振って煙を外へと追い出す。ついでに真っ白に汚れた師匠の体も顔も別の布で拭いて清めていく。
ふわふわした金髪や瑠璃紺色の瞳がようやく見えるようになり、ステラシアは師匠の頭に布を引っかぶせるとそのまま外へと出ていった。すぐに、ホウキを持って戻ってくる。
「いやー、ちょーっとばかり、性別を変える薬を作ってたんだけどねー」
「せいべ……!? なん……っで、そんなもの作ってるの!?」
必要ないよね!? まさか需要があるの!?
乱れた金髪をグシャグシャとかき回す手を止めさせ、ステラシアは嘆く。
本当にもう、なんだってそんなものを……。
「んー……まあ、ちょっとした――思いつき?」
「思いつきでそんな変なもの作らないで」
鳥の巣のようになってしまった師匠の金髪を、掃除の手を止めて梳りながらステラシアは深く深くため息を吐く。ちなみに師匠、服はちゃんと着ていた。よかった。多少ボタンがちぐはぐなのは目をつぶることにする。
「あんまり変なことしないでよ師匠。師匠がいなくなったら、わたし泣くよ」
ステラシアにはなにも無い。父も、母も、兄弟も。やっとできたと思った友人さえも、ステラシアの手からすり抜けていった。
持っているものは、師匠がくれた大事な名前と、師匠がくれた知識や作法や愛情だけ。小さな頃から一緒にいても、本当の親子にはなれくて、けれど、とても大事に育ててくれたということだけ。
だから、この先なにがあっても、ステラシアは師匠がいればそれでいい。
それしかないのだから、失いたくない。
「泣かれるのはイヤだなぁ……でも、きっとステラにも、もっといい出会いがぜったいあるよ」
「そんなのいらないよ。わたしは師匠がいれば、それで」
そう、それでいい。それだけがステラシアの幸せだから。
だから――、わたしは師匠がいれば、ほかにはもう、なにもいらないの。
「まったく……バカな子だな」
髪に触れる弟子のやわらかな指先の感触に猫のように瑠璃紺の瞳を細めながら、その人は寂しそうに唇を歪めていた。
この二人だけの変わらない日常が崩れるなんて、ステラシアは思いもしていなかった。
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