第5話 優香、六本木のマンションを退去する 

 高之が昼食を摂って社長室に戻ると、専務の秋田が忙し気に入って来た。

「公用か、私用か、何方や?忙しそうに・・・」

「今は昼休みですさかい、私用の方ですがな」

「何や?一体?」

社長室に設えられた応接セットの椅子に腰掛け乍ら高之は話を促した。

秋田は向かい合って座り、性急に話し出した。

「実はえらいことになりました。奥さんが弁護士の差し金で、優香さんのことを興信所に調査の依頼をしはったようです」

「ほんまかいな?」

「ああいう調査というのは、私も憶えがありますけど、凄いもんでっせ。女の住いは勿論のこと、何月何日、何時から何時まで、何処で二人が逢うていたとか、まあ、虱潰しに良ぅ調べ上げるもんですわ」

「綾乃はそんなに思い詰めているのかいな」

「まあ、そろそろ、潮の引き時と違いますか?」

「そうかも知れんなぁ。近頃の優香はちょっと扱い難くなって来たからなぁ・・・」

「有名なファッション・デザイナーの事務所にも勤めはったし、週一回の料理教室ももう直ぐ終わりやし、優香はんも独り立ちを懸命に考えてはるのと違いますか?」

「そうやな、彼女はもともと着物デザイナーを望んでいたんやけど、儂がその夢を潰してしもうたからなぁ。もう一遍、やる気を起こして居るんやわなぁ、きっと」

「そうでっせ、みんな社長の所為ですわ。けど、別れるとなると、手を焼くことになりますなぁ」

「ちょっと惜しい気もするけどなぁ・・・」

 

 その頃、綾乃は自宅のリビングで母親の志乃と向き合っていた。

「興信所を使うたりして、えげつないと思うか?お母さん」

「そうやなあ・・・?」

「お母さんだけにはうちの気持を解かって欲しいと思うて居るんや。うち、思い切ってやったんや。そんなことをしたら夫婦の信頼も情愛ももう在らへんけど、最後や、よう解っている。そやけど、うち、皮斬らせて骨を斬ったる気持や。もっともっとあの人を憎みたいんや」

「然し、心の底ではあんた・・・」

「あの人の悪いところも情けないところも、みんな許さずにはおれんほど、うちはあの人を愛している。けど、そんな自分に甘えたらあかんと思うて居るんや」

「そこまで、あんた、思い詰めているのかいな」

「ほんまのこと、別れることになるのかどうか、うちにはそれもよう解らへんのやわ」

「綾乃、ちょっと時間を置いて、もう一遍、高之さんと良ぅ話し合ってみぃ。結論を出すのはそれからでも遅うはないやろ、な」

「・・・うん・・・まあ・・・」


 数日後、優香のマンションで専務の秋田が彼女と向き合っていた。

優香は艶やかな和服姿であった。

「初めて見たけど、あんたはんは着物も良ぅ似合いますなあ」

「・・・・・」

「流石は社長や、良ぇ見立てや」

優香がズバリと答えた。

「これは、私が選んだんです!」

「は?あっ、そう・・・ところで、先程から言っているように、奥さんが興信所を頼んであんたのことを調べさせて居はります。焼き餅だけは理性の外やさかい、もし見つかったら豪いことになります。それで、此処は危険やから引っ越して貰えたらと」

「そんなこと急に言われても、犬の子や猫の子を移すようにはいかないわ。私だって、一応、此処で生活の根をおろして居るのですから・・・」

「それは、もう、良ぅ解かっとります。なにも今日という話ではおへん。儂の知合いの離れ家が一週間ほどしたら空きますので、ちゃんと手配してあります」

「・・・・・」

「あんたはんは身柄一つで行って貰うたら、荷物も何もかも儂が運ばせて貰います」

「あの人がそう言ったのですね?」

「此処のところは、まあ、社長の辛い立場も解ってあげて欲しいんですわ。社長も、どんなことをしても、あんたはんと別れとうないさかい、あれこれ、苦労してはる訳です」

「解かったわ」

優香はきっぱりと答えた。

「えっ?ほな・・・出てくれはるんですな?」

「色々とお世話になりました」

「承知して呉れはるんですな?」

「そうしないと、専務さんが困るんでしょう?・・・あの人も・・・」

「へぇ、まあ・・・おおきに。ほな、約束しましたで」

秋田専務はそそくさと帰って行った。

「お邪魔しましたな、ほな、さいなら」

 優香は暫く部屋の中を見回していたが、いきなり、クローゼットから小さなボストンバッグを持ち出すと、その中へ下着類と日用品を詰め込んだ。それから、着ている和服をちょっと触って微かに笑い、部屋のドアを開けて外へ出て行った。物陰から現れた秋田が不審そうに優香の後姿を見送った。

 

 三日後、秋田が優香の部屋へ入ると、鍵束がきちんとテーブルの上に置いて在った。書置きは何もなった。が、彼女はこの部屋を出る時、一通のメールを高之に送っていた。

「お別れします。色々とお世話になりました・・・優香」

秋田は呆れたように辺りを見回した。

「三面鏡にテーブル、ベッド・・・高そうな絵も在るがな。みんな置いて行ったんかいなぁ」

彼が洋服ダンスを開くと、色とりどりの衣装がズラリと架かっていた。

「仰山、買って貰うて・・・未練無いのかいなぁ・・・今時の若い者はあっさりしたもんやなぁ・・・」

それは、秋田にとって、むしろ爽やかであり、小気味良くさえあった。

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