第35話 ライバル、平塚ライチョウ(下)
※※※※
平塚ハルと森田ソウヘイの2人は警察から救助されるとバラバラの病室に連れていかれた。ハルは父親からの命令で丁重に保護され、ソウヘイのほうは何度もボコボコにされていたらしい。
凍傷の手当てを受けながら、ハルは「ソウヘイさまと死にそびれてしまった」とだけ思っていた。
病室に最初に入ってきたのは、父親だった。彼は落ち込んだ表情を隠さないまま、こう訊いたという。
「なぜ、こんなバカげたことをした?」
それに対して、ハルは目線を落としたまま答えた。
「今の国では、わたくしは心から笑えないからです」
「お前には心底失望した。愚かな生きかたをしたいなら好きにしろ。独り暮らしの手配ならしてやる。そうすればもう会うこともない」
「はい――」
「――ハル」
と父親は言った。「世の中にはいくらでも理不尽なことはある。男も女もそれを呑み込んで生きている。大人になれ」
「わたくしには、この時代で、なにが大人かなんて分かりません。分かりたくもありませんわ」
その後、父親は出ていった。
平塚ハルと森田ソウヘイによる心中未遂事件は、文学界の大スキャンダルとなっていた。特に、ソウヘイが日本最強の小説家・夏目ソウセキの弟子というのが世間の興味をひいていた。
《あの夏目ソウセキの弟子が女学生をたぶらかして心中未遂!?》
そんな感じで当時は話題沸騰、そしてバッシングに晒されたのである。その影響を受けてかどうかは知らないが、当時、日本女子大学は平塚ハルの名前を学生名簿そのものから抹消している。
次に病室に入ってきたのは文学講座の評論家・生田チョウコウだった。
「凍傷の具合はどうだ?」
「ええ、おかげさまです」
「ではもうペンは持てるのだな」
チョウコウの突拍子もない言葉に、ハルは思わず顔を上げた。
「え、え――?」
「悔しくはないのか。ぼくの友人ソウヘイと結ばれ損なって世間から叩かれて、誰もきみ自身の意見など聞こうとはしない。きみが女性だからだ。きみが虐げられているのを当たり前だと思うような世間だからだ。
違うか? ハルさん」
そこまで言うと、チョウコウは近づいてきてハルの肩に手を置いた。
「今の気持ちを、文学にしろ。文字のなかでは、全てが自由だ。世の中にはきみのような女の子がたくさんいる」
「わたくしが――?」
「女だけの執筆者と編集者を集めて、女のための文芸雑誌をつくれ。きっといつかそれが時代を変える力になるだろう」
チョウコウはそこまで言うと、少し体を離す。「それとも、ソウヘイともういちど会いたいか?」
それは世間から禁じられていることだった。
だが、ハルにはひとつだけ思い出すことがあった。あの雪山で警察に見つかったとき、ソウヘイはほんの一瞬だけ、
――助かった、と、ホッとしたような表情を浮かべてしまっていたのである。死ぬのは誰だって怖い、彼を責めることはできないだろう。
しかしソウヘイの表情を見たハルは、
――パキン、
と、西洋ガラスの割れるような音を聞いた。失恋の音はいつも乾いていて、切ないものだという。
――ソウヘイさまは、わたくしほどには覚悟をしてくださらなかったのですね。
そう思った。雪のなかの苦い記憶だ。
女が男に失望する瞬間など、この程度で充分である。
「いいえ、もう会わないほうがよいでしょう」
とハルは言った。「女のための雑誌、わたくしがつくろうと思います。そう生きたいです。そして全ての女を輝かせたいと思いますの」
その答えを聞いて、チョウコウは、ふうと息を吐いた。
――実は彼は友人である森田ソウヘイから、「彼女に会えなくなったぼくの代わりに、彼女の進路の面倒を頼んだ」と言われていたのである。
「その返事を聞いて安心したよ、ハルさん。さっそくメンバーを集めるとしようか」
彼はそう言ったのだが、
「いいえ」
とハルは答えた。
窓の外では、一羽の鳥が木の枝にとまっていたという。空を飛び回る、人間の男女より遥かに自由な生きもの。
「わたくしの名は、ライチョウ」
彼女は強い目つきでそう言った。「平塚ライチョウと名乗らせていただきます」
これが、与謝野アキコにとって最大のライバルが誕生した瞬間である。
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