第28話 与謝野アキコと源氏物語(下)
※※※※
「ところで」
とマサコは言った。「いまアキコ先輩ってどんな仕事してるんスか」
2人は小さな料理屋で飲み交わしながら会話をしていたという。
「ん? まあ色々あるけど――」
アキコはそう言って自分のあごを撫でた。「『源氏物語』の講義をやってるよ、最近はな」
「えっ、あの源氏物語――?」
そう。
令和のインターネットでは与謝野アキコといえば、不倫略奪婚だの、バナナをアソコに突っ込んだことがあるだのないだの、あるいは力道山と戦わなかっただのばかり話題になる。
だが彼女の本質は、生粋の『源氏物語』オタクだったというのが真相なのだ。
1904年の時点で一度、紫式部について講義を開いていた彼女は、1907年~1909年から本格的に『源氏物語』を研究し始め、その内容を発表していた。場所は出版社や文学会に招かれることもあったが、最終的には自宅に学生を招いていたらしい。
たとえば、彼女が唱えた説には以下のようなものがあると言われている。
「最初の『桐壺』は紫式部が最初に書いた章じゃない。文体からして『帚木』から書かれ始めて、『桐壺』はストーリーの肉づけのためにあとからつくられたんだ」
「筆使いのテイストの違いからして、『若菜』以降の作品は紫式部先生が書いたものじゃない。その娘の大弐三位が書いたんだと思う」
どれも画期的な解釈であった。
特に斬新だったのは、『源氏物語』の長い物語をどこで分けるか、という問題である。これまでは、
「主人公の光源氏が生きて死ぬまでを第一部、死んでからを第二部」
とするのがメインの解釈だったのだが、アキコは突拍子もないことを言い出したのだ。
「作者の紫式部先生の気分がアガっているところが前半で、サガっているところが後半だ」
などと言い出した。
これは、『源氏物語』解釈に衝撃を与えた。後世の池田キカンという文学研究者はアキコの発見を高く評価したと記録に残っている。
そのため現代では、従来の説とアキコ説を組み合わせて『源氏物語』を「全部で三部作」と考えるのが主流になっているようだ。この解釈によって、紫式部の文体研究はめちゃくちゃスピードアップしていったという。
「はえー、すっごいっスねえ」
マサコはそう言った。「アキコ先輩、ただの詩人じゃなくてもう評論家先生じゃないスか」
「えあ? いいよ別に評論家なんか。理屈をこねくり回すのは趣味じゃねえんだ」
とアキコは答えた。「アタシはただ、魂の恩師、紫式部先生について喋りたくなっただけなんだよ。
なにしろ12歳のころから読んでたんだぜ?
自分の詩歌にだってきっと影響与えてんだ、それを語らないほうが不義理ってやつじゃねえかよ」
「ふうん、そういうもんスかねえ?」
なお、与謝野アキコが『源氏物語』について詠んだ歌には次のようなものがある。
「源氏をば十二三にて読みしのち思はれじとぞ見つれ男を」
(訳:源氏物語を12~13のころに読んでから、オトコのセックスライフってぜんぜん信用できなくなっちまったな!)
まあヤリチンクソ野郎の物語ですもんね。
そんなわけでアキコは、手もとに江戸時代出版の『絵入源氏物語』を抱えながら街を歩き、マサコと別れて家に帰った。
そんなときのことだった。
家の前に、1人の男が立っていた。
そしてそれは、九州の旅から帰ってきた夫・与謝野テッカンであった。
「テッカン先生!」
「ただいま、アキコくん」
テッカンが微笑むと、アキコは駆け出した。本当はずっと寂しかった、それを言えなかった、会いたかったという気持ちが押し寄せてくる。
「テッカン! 帰る日付ぐらい手紙で寄越せよ!」
「あはは、ごめん、忙しくて」
笑って謝るテッカンの胸に、アキコは顔をうずめた。すー、はー、すー、はー、と息を吸う。
「あ、アキコくん――?」
戸惑うテッカンを無視して、アキコは呼吸を続けた。それから、
「うん、テッカン先生のニオイだ。テッカン先生だけのニオイだなあ」
と呟いた。「ずっと寂しかったんだからよお、今夜はアタシに優しくしろ」
それに対して、
「もちろん。僕もずっと寂しかった」
とテッカンは答えた。
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