獄落転=ゴクラクテン=
深川我無
第一層
ピルグリム
「おいあんちゃん……おめえさんは何してここに堕とされたんだ?」
聞き慣れない男の声で目が醒めた。
起き抜けに感じたのは酷い悪臭だった。
果実と血と臓物を混ぜ合わせ、それらが腐ったような嗅いだことのない悪臭だった。
長らく眠っていたのか目が開かない。
なんとか体を起き上がらせ、声のしたほうに向き直ると、男は何がおかしいのかククク……と喉を鳴らした。
酷く喉が渇いていた。
その場所の空気はじっとりまとわりつくように陰気なくせに汗が吹き出るほど暑い。
「ココハ……ドコダ……?」
掠れた声が出た。
やっと開きかけた目であたりを見渡すと、ぼやけた視界の中、ぬめった赤紫の壁が脈打っているのが分かった。
「うっ……」
思わず尻込みしたのが気に入ったのか、男は先程よりも大きな笑いを噛み殺しながら肩を震わせている。
「ここは何処だ?」
今度はまともな声が出た。
ボロ切れを腰に巻き付けただけの痩せこけた男が、目をギラつかせてこちらを一瞥するなり、にやりと嗤った。
「天国じゃないのは確かだわな……いずれわかるさ……お前、名前は? 何をやらかした? 聞かせてくれよ?」
その言葉で体が強張った。
名前……?
俺は誰だ……?
思い出そうにも名前はおろか、以前の記憶一切を思い出すことができない。
「わからない……記憶がない……」
それを聞いた男は目を見開くと、今度は口を開けて天を仰ぎハハハと声を上げた。
嫌な感じの男だ……
気がつくと男を睨んでいた。
男はそれに気づいたようで、手をひらひらとさせながら、もう片方の手で口を押さえて笑いを飲み込んだ。
「すまねえ。すまねえ。てことはお前さんはジョン・ドゥか、アラン・スミシーか、いやもっといいのがあるぞ……!
「なんだと? どういう意味だ?」
「名無しの名前だよ。ようこそ哀れなピルグリムよ! 俺は親切な新米案内人だが、ウェルギリウスのように導いてはやれない。牧神パンが関の山よ!」
男はそう言って立ち上がると雄叫びを上げながら下品に腰を振り、自身の尻を何度も叩いた。
パン……パチン……
パン……パン……
肉を平手で打つ音が、肉の壁に木霊する。
やがてその音に誘われるように、無数の男たちがぞろぞろと集まってきた。
どの男もボロ切れを腰に巻いただけで、生気のない淀んだ目をギラつかせながら、ニタニタと薄笑みを口元に浮かべている。
ぞくりと、本能が警告を発した時には遅かった。
いつの間にか背後に回っていた男に羽交い締めにされ、あえなく地面に組み伏せられる。
怒鳴り声をあげて暴れても、無数の手足に体を押さえつけられて、口に汚いボロ切れを押し込まれてしまう。
「ピルグリムよ。俺達は腹ペコだ。お前さんにここでの立ち振舞いを教えてやる。その代わり、ちぃとばかしお前さんの肉を食わしてくれ。なぁに、心配いらねえ。ここにはあらゆる苦痛が揃ってるが、逃げ道だけはどこにもねえのよ……!」
恐怖と恐慌で男の言葉の意味が飲み込めない。
ただわかるのは、これからこの男たちに食い物にされるということだけだった。
「ん゙ん゙ぅん゙んんんんんん……!」
「意味がわからなくておっかないって面だな? ククク……お楽しみの答えは、自分で見つけるのがここ流のやりかたよ。まずは一つ勉強になってよかったな」
ぐっ……ちっ……
太ももの肉が噛み切られる音に次ぎ、焼けるような痛みが神経を駆け抜ける。
「ん゙ん゙ん゙ぅううううううう……!」
「うんまああああああい……! 最高の味だぜ……! ピルグリム……!」
代わる代わる男たちの顔が、剥き出しの体に近づいてくる。
男たちの涎のクサイ臭い、そして自分の血の臭いがする。
おぞましいことに、男たちは流れる涙と鼻水さえも音を立てて啜った。
じゅるじゅると男たちの口が自身の顔を這い回る感触に総毛立つ。
ブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチ
ブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチ
ブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチブチ
体中を食いちぎられて、骨に残る肉片までもこそぎ落とされ、痛みだけが自分の全てになった時、異変に気づいた。
死なない……
骨だけに成り果てても死なない。
死ねない……!
「お気づきなすったかピルグリム? ようこそ地獄へ! ここにはあらゆる苦痛が用意されている! 死以外のすべての苦痛が揃ってる! これでお前さんも仲間だ。飯代の代わりに死よりも恐ろしい悪夢から身を守る術を教えてしんぜよう!」
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