五色の魔女

シュピール

1.満開の魔女

「こんな辺鄙な場所で、花見ですか?」


 山奥の雑木林の切れ目。ちょっとした丘の中央に、僕の背丈くらいの小さな桜が一本だけ咲いている、僕だけが知っている秘密の場所。ひらひらと落ちてくる花びらを浴びながら、桜の木陰に仰向けで寝転ぶ僕は、突然に聞こえてきた声に視線と返答だけを向けた。


「……まぁ、そんなところ」


 そこにいたのは、白い長髪を春風に靡かせる少女だった。瞳も、肌も、そしてなぜか着ている着物まで真っ白。新芽と新葉の新緑と、蒼天と、桜の薄桃色に彩られた景色の中で、まるでその少女だけが色を失ってしまったかのようだった。


「毎年、花が咲く頃に来てくれていますよね。ここまで来なくても、麓のほうにはもっと綺麗な桜が、たくさん咲いているでしょう? どうして、ここなんです?」


「落ち着くんだ。誰も居ないし、景色も綺麗だし、そして何より……」


 僕はゆるりと身を起こして、小さな桜を、指先で撫でる。


「……この桜があるから」


「不思議な人ですね。背も、花の美しさも、他の桜には遠く及ばないというのに」


 いつの間にか隣に立っていた少女は、そう言って僕の隣に座った。近くで見れば見るほど、その白さは一つの穢れもなく純粋で。可愛いというよりかは美しいと感じてしまうような、感情ではなく理性に訴えかける美貌だった。


 僕はこの少女が誰なのかを、たぶん知っている。


「大きさも美しさも、僕はそんなに気にしない。桜は桜だし、何よりここが一番、寝転びながら花びらを近くで見れる」


「変な理由ですね」


「なんでもいいだろ理由なんて。何かを選ぶときにいちいち合理的な理由を考えてたら、きっとどこかで生きるのがつまんなくなる」


 僕の返答に、確かにそうですね、と言って少女は視線を空に向けた。僕もそれに続いて、なんとなく桜と、その向こうの空を眺める時間に戻る。春の温かいそよ風と、心地良い太陽の光に、次第に瞼が落ちてくるのを自分でも感じる。


 このまま、眠ってしまおうか。眠気に任せて、目を閉じる。隣の少女は、僕の予想が正しければ、たぶん気にする必要はないだろう。会えたんだ。も、後で伝えればいい。


 瞼を閉じれば、聞こえてくるのは葉擦れの音だけになった。隣にあるはずの気配は、やっぱり感じなかった。


✢✢✢


 目が覚める。相変わらず真っ白の少女は隣に座っていた。変わったことと言えば、太陽が少しだけ傾いたことと、少女が本を読んでいること。


 見覚えのある本だった。


「あ、起きた」


 本に目を落としたまま、少女はそう呟く。


「ずっといたんだ」


「……えぇ、他にすることもないですから」


「確かに。君は、ここから離れられないだろうからね」


 僕が起きてからもずっと本を読んでいた少女が、こちらに視線だけを向けてくる。驚きというより、へぇ、とでも言いたげに、一瞬だけ。またすぐ本に戻っていった。


「気づいてたんですね、私が普通じゃないって」


「気づいてたって言うよりかは、知ってたんだ。君に会うずっと前から、君っていう存在を。……その本を君に託した人のことを、僕も、よく知ってる」


 今度こそ、少女の瞳に驚きの色が灯った。


「……あの子を?」


「君の想像してる人で間違いないと思う。元気で、明るくて、優しくて。君と同じ、綺麗な白い髪の」


「あの子は今、どうして……?」


 半信半疑で、藁にも縋るような気配。そりゃそうだ。もうずっと、彼女はここには来ていない。正確に言うならば。


「……死んだ」


 その瞬間の少女の表情は、曖昧なものだった。悲しんでいるようにも、何も感じていないようにも、納得しているようにも見える、静かで穏やかな目をしていた。けれど続く声は、確かな震えを伴っていたように思う。桜の花びらが、風に散った。


「……そう、ですか。一体、いつ……いや、分かってる。分かってた。あの日。私にこの本を預けた、あの日だけは、あの子は……ッ」


 悲痛に顔を歪めて。


「三月三十日」


 僕はその日を知っている。少女が本を託された日であり、


「僕があの人から、君のことを託された日だ」


「……っ」


「世界で一番の友達だって言ってた。君には、自分の綺麗なところだけを知っていて欲しいって、ずっと話してたよ」


 少女はじっと、僕からの言葉を聞いて。

 そしてどこまでも白い瞳から、透明が滲んだ。


「それを伝えたくて、毎年、桜が咲くと……いや、君といちばん長く話ができるってあの人が言ってた時期になると、ここに来てたんだ」


「……ごめんなさい、私、あなたのこと、警戒しちゃってて」


 ここに来るようになって、というか彼女が居なくなってからもう何年だろうか。五年以上前なことは確かだ。ここに毎年訪れるのが日常になるほどに、痛みは何処かへ流れていったっけ。


「いいよ、正直僕は君から見て、相当変な人間だっただろう? 一言も発さずに花見なんてさ」


「……ふふっ。確かに、そうですね」


 涙を滲ませながらも、彼女の友達だった白い少女は笑ってくれた。


「それじゃ、会えて良かったよ。またね」


 目的は果たしたが、ここで花を見るのは僕にとってもう癖のようなものだ。毎年ここで桜を眺めては、新しい生活の始まりを感じた。新学期だったり、新しい学校だったり、はたまた仕事始めだったり。ここに来ないと、落ち着かないから。


「……待って!」


 立ち去ろうとした僕の背中に、少女の声が突き刺さる。


「待って、ください。私はまだ、あなたに聞きたいことが」


「……もう、あの人と君に関することは全部話したと思うけどな。何せ僕は君について、あの人の最高の友達だったってことくらいしか知らないわけだけど」


「あなた自身の話です。あなたにとってあの子は、何だったんですか? あなたには私に聴いておきたいこととか、ないんですか……?」


「聞きたいことは、ないかな。あの人は君に、僕の話なんてしなかったと思うし」


 話してないという確信があったし、何より話していたならば、少女のほうから僕に話しかけてくるのが、こんなに遅いわけがない。


「けど、そうだな。僕があの人の何だったか、か」


 ずっと考えていたことだ。あの日の僕には分からなかった。僕は彼女にとって何だったのか。僕にとって、彼女は何だったのか。


「あの人にとって僕は、現実の吐き出し口だったんだと思う。そして僕は、その理解者のつもりだった」


 誰に言えるものでもないから、ずっと心の奥底に留めておいた思考。それが溢れだしてくるのを自分でも感じる。


「あの人は、演じることを強いられてたんだ。しっかり者で、凄くて、誰にでも認められる優等生であることを強いられてた」


 これを少女に伝えることを、きっと彼女は望んでいないのかもしれない。けど、知って欲しかった。彼女が、目の前の少女に、小さな桜に込めていた、余りにも大きな想いを。


「僕も泣いてるあの人を見るまでは、それが強いられてるものだと分からなかった。それくらい、あの人は完璧に演じ切っていた。その裏で、どうしようもなく心を擦り減らしながら。それを知っちゃったのは僕だけだったみたいで、それから僕は、あの人の心の悲鳴を、ほとんど毎日聞くようになった」


 全くもって、苦痛ではなかった。彼女の悲鳴は、本音は、どれも彼女が強く在ろうとするからこそ、逃げずに立ち向かおうとするからこそ、優しいからこそのもので。寄り添いたい、支えたいと願ってしまうような、そんなものだったから。


「……私には、そんな姿、ひとつも」


「君には、見せたくないって言ってた。君にだけは、完璧な自分でも、悲鳴を上げる自分でもなく、ただありのままの自分だけを知っていて欲しいって。世界で唯一、私が私で居られる相手なんだって」


 少女の思い出には、きっと笑顔で、明るい彼女の姿があるだろう。完璧に押し殺されていただけで、彼女の奥底は、ただ笑うことが好きなだけの女の子だった。少女の前でだけは、全てを忘れてそれを出せるのだと、掠れた声で言っていた。


 僕は目の前の少女のことを、彼女の最高の友達だったってことくらいしか知らない。

 本当に、最高の友達であったことくらいしか。


「……それが、あの子が、私に会いに来ていた意味」


「そう。……その本の内容も、ずっとあの人から聞いてた。何にも縛られない旅に出る話。完璧の仮面を脱ぎ捨てて、遠くに居る、大切な人に会いに行く話だって」


「――ッ」


 傷つけないように優しく、けれど溢れた想いに突き動かされるように、少女は本を胸に抱いた。くぐもった嗚咽が、聞こえてくる。


 彼女が居なくなった時、僕はあんな風に泣けなかった。彼女から零れた悲鳴と本音の記憶だけが心の水底にこびりついて、離れなくて、だから死んだと言われても実感が湧かなかった。あの日の僕の心の中で、まだ、彼女は泣いていた。時間が経っても、彼女の救いにはなれなかった自分への後悔ばかりが浮いてくるだけで、上手く悲しめなかった。


 だからきっと、


「私は、あなたが羨ましい」

 僕は、君が羨ましかった


「あの子の本音に最期までずっと寄り添って」

 彼女が最期まで本音を見せたくないと願うほど


「全てを知っているあなたが」

 彼女の救いで、一番だった君が


「けど、あなたがいたから、あの子は私の前で、笑えていたんでしょうね」

 でも、君がいなかったら、彼女は笑えないまま死んでしまっていただろう


 僕も少女も、魅せられてしまったんだ。


 悲鳴と本音と、ありのままの美しさに。

 全てを話される喜びに、大切にしたいという想いに。


 一瞬の満開で、ひとりと一本を虜にして。

 そして桜よりも儚く散っていった、彼女は魔女だった。

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