白湯に人生を左右された女たち

天谷なや

白湯に人生を左右された女たちの話

 夜明け前の静けさを破るように、部屋の中でお湯がわずかに波打つ音が響いた。

 麻美は、目の前の湯気立つ白湯を見つめながら、今日もまた「人生の一杯」が始まったことを静かに受け入れた。


「私に、乾杯」


 すべては一年前、疲れ切った彼女が偶然訪れたカフェで「白湯の女」として知られる年配の女性と出会ったのがきっかけだった。

 その女性は驚くほど淡々とした口調で──


「白湯を飲むとね、心が整うのよ」


 ──と言い放ち、麻美に湯気が漂う白湯を一杯差し出したのだった。

 その一口は、麻美にとって予想外の体験だった。


「なに、これ……」


 温かくて、シンプルで、それでいて、ただのお湯。

 しかし、そのシンプルさこそが麻美の心をほぐし、彼女の中で密かに眠っていた想いを目覚めさせたのだった。


 それ以来、麻美は白湯に導かれるように日々の生活を見つめ直すようになり、やがて「白湯の女たち」の集いに足を踏み入れることになった。


「いらっしゃい。ようこそ、白湯の女たちの会へ」


 そこで出会った彼女たちは、皆、白湯に人生を変えられた女たち。

 年齢も職業もバラバラで、趣味や出身も違う。

 唯一、共通していたのは「白湯を通じて自分を見つめ直したい」という想いだった。


 会場は個人のサロンを借りた小さなスペース。

 入り口には、さりげなく「白湯で心を温める集い」と書かれた看板が立てかけられていた。

 その看板を見つめながら、麻美は驚きを隠せなかった。


「こんな場所があるなんて……」


 その時、一人の女性が麻美の元へ、湯呑を持ってやってくる。

 彼女の名は、優子。

 集いの主催者で、麻美より少し年上の穏やかな女性だ。


「どうぞ」


 彼女が差し出す湯呑の中には、もちろん白湯が注がれている。

 優子の言葉に導かれ、麻美は一口、ゆっくりと白湯を飲んだ。


「ようこそ。ここではみんな、白湯を通じて自分を見つめ直した人たちばかりよ」


 隣に座っていた女性が笑顔で話しかけてきた。

 彼女の名前は恵美子。

 会社員として働きながら、ずっと心の中に秘めていた夢があるという。

 彼女は、忙しさに追われる日々の中で、自分の本当にやりたいことを忘れかけていた時、友人から勧められた白湯に出会ったのだという。


「白湯を飲むとね、なんだかね……心が静かになるのよ。それで、私はパン職人になろうって決めたの」


 その言葉に、麻美は思わず驚いた。


「え、パン職人? 今まで普通にOLをしていたのに?」

「ええ。白湯を飲んでいると、自分が本当に求めているものが見えてきたの。だから、今は仕事を辞めて、パン作りの勉強をしているわ」


 恵美子は頷きながら笑顔を浮かべた。

 また別の席にいた女性、春子は元アスリートだという。

 彼女は、厳しい競技生活に疲れ果てていた時に、たまたま立ち寄った温泉旅館で出された白湯が心を癒したそうだ。


「白湯って不思議なの。何の栄養もないのに、ただの温かいお湯なのに、あの日の一杯は身体の奥に染み渡って……それから私は、誰かを癒す仕事をしたいと思うようになったの」


 こうして話している間も、皆はゆっくりと白湯を啜る。

 会話は柔らかく、穏やかに進んでいった。

 麻美はその場で感じる温かさと、心地よい一体感に包まれながら、自分もいつかこの白湯が示してくれる新しい道を見つけられるのだろうかと、ふと考えていた。


 それからというもの、麻美は毎週「白湯の女たち」の集いに参加するようになっていた。

 会話を交わすたび、彼女は自分でも知らなかった想いに気付き始める。

 ある夜、いつものように集いに参加していると、優子が彼女にそっと語りかけてきた。


「麻美さん、ここに来てもう半年ね。何か心の中で変わったこと、あるかしら?」


 その問いに、麻美は少し考え込む。

 白湯を飲むことで心が穏やかになったのは確かだった。

 しかし、彼女は今でも毎日会社に通い、日々の業務に追われている。

 特に大きな変化はない……はずだった。


「うーん、大きなことは何も。でも……確かに、仕事に対する気持ちは少し変わってきたかも」

「そうなの?」


 麻美は、その場の静けさと優子の眼差しに背中を押され、ぽつぽつと話し始めた。


「実は、昔から小さなカフェを開くのが夢だったんです。でも、いつの間にかそれを忘れて、今の仕事をただ淡々とこなしている自分がいて……」


 その時、恵美子が手を叩いた。


「それこそ、白湯が呼び起こしてくれた本当の自分よ! 今はまだ仕事が忙しくても、少しずつ、準備を始めたらどうかしら!」

「準備……」


 麻美は、思いもしなかった彼女の言葉にやや驚く。


「でも、お金もないし、何から始めればいいかもわからないし……」

「じゃあ、まずは好きな場所に出向くことから始めてみたらどう?」


 春子も、彼女に優しくアドバイスをする。


「私も白湯を飲むたびに自分の夢に向き合って、少しずつ行動を変えていったのよ」


 その言葉に背中を押され、麻美は次の休日、街中で目に留まった小さなカフェに入ってみることにした。

 そのカフェは、温かい光が差し込む落ち着いた空間で、壁には訪れる人々の写真やメッセージが飾られていた。

 麻美は席につき、白湯を頼んでカフェの雰囲気を味わいながら、いつか自分もこんな場所を作りたいと強く思った。


「私も、いつかは……」


 その後も、麻美は少しずつ「白湯で心を整える」ことを意識し、仕事に対する気持ちも変化し始めた。

 白湯を一杯飲むたびに自分の夢を思い出し、白湯の集いで得たアドバイスを胸に、少しずつ、歩みを進めた。


 やがて数年が経ち、麻美はついに小さなカフェをオープンした。

 白湯をメインにした「心温まる場所」というコンセプトで、開店の日には「白湯の女たち」も全員駆けつけてくれた。


「おめでとう、麻美さん。よく頑張ったわね」

「優子さん……」

「でもこれからが本番よ。気を引き締めてね」

「恵美子さん……」

「困ったことがあれば相談してね。いつでも力になるから」

「春子さん……」


 恵美子さんは、パン作りの勉強を続け、今では人気ベーカリーのパン職人になっていた。

 春子さんも、アスリートを引退し、誰かを癒すためのカウンセラーとして活躍している。


「麻美さんのお店、ほんとに落ち着くわ」


 優子さんが白湯を一口飲みながら言った。


「この白湯の香り、やっぱり特別ね」

「白湯の持つ力ってすごいわ」

「白湯を飲むと心が静かになるの」


 麻美は彼女たちの言葉に、胸の中がじんわりと温かくなるのを感じた。


「このお店を持てたのは、皆さんのおかげです。白湯で繋がったからこそ、私もここに立てている気がして……本当に感謝しています」


 その夜、麻美はカフェが閉店した後、一人で白湯を静かに飲んだ。


「白湯って、こんなに温かかったんだ……」


 彼女は、今日もまた「人生の一杯」が始まったことを静かに受け入れた。


「私たちに、乾杯」

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