第2話 朝焼けの決意

新たな始まりを告げる風が吹く春の朝、校門の前で少年は静かに立ち止まった。


真新しい制服に身を包み、肩には少し大きめのリュックが掛かっている。


少年はゆっくりと一歩を踏み出し、校庭の中へと足を進める。


「サイバー犯罪訓練校『NEXUS』……か」


その言葉を口にしたのは、【陽希 明翔(ひづき あきと)】という少年だった。


2年前の出来事がふと頭をよぎり、彼は少しだけ視線を落とす。


自分がここにいるのは、あの「崩壊の日」の出来事がきっかけだった。


どこか現実感がなく、あの日の出来事さえ夢だったように感じる。忘れたくても忘れられない、悪夢のような1日だった。


あの記憶が、今も彼の心に暗く影を落としている。


ふと我に返り、不安が頭をよぎる。


「はぁ…運動も必要になるんだろうな、対策官になるには……」


苦笑いを浮かべる。


明翔は勉強が得意だが、運動に関してはかなりの不安を感じていた。


サイバー犯罪の対策官であれば運動能力も必要になるとわかってはいるものの、体を動かすことは苦手。


一抹の不安が、胸の中にわずかに残る。


先を歩く新入生たちに続くように、玲音は体育館の方へと向かう。


ここに来た理由も、まだ自分でもどこか他人事のように思えてならなかったが、あの時、あの悪夢のような場で感じた「助けたい」という思いだけは確かに胸の中に残っている。


体育館の中には、同じように少し緊張した面持ちの新入生たちが並んでいた。


明翔もその列に並び、まもなく始まる入学式を静かに待つ。


壇上には、凛とした雰囲気を纏う女性が立っていた。


彼女は3年生で生徒会長。


知性を感じさせる鋭い眼差しに、赤い眼鏡がよく似合っている。


彼女が挨拶を始めると、その堂々とした声と落ち着きに、場の空気が引き締まるのを感じた。


「ここ『NEXUS』での学びが、皆さんにとって大きな一歩となりますように」


明翔もその言葉にどこか勇気づけられ、これからの生活に少しだけ希望を見出すような気がした。


式も終わり、新入生たちが会場を後にしていく。


明翔も流れに従い、静かに体育館を出ようとしたそのとき、不意に背後から大きな声が響いた。


「おい、そこの新入生、ボケっと突っ立ってちゃダメだぞ!」


突然の声に、明翔は肩をびくっと震わせてしまう。


驚きで心臓が跳ね上がり、思わず後ろを振り返った。


懐かしい顔を目にした瞬間、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


声の主は、2年前に出会った恩人だった。


「久礼さん…!」


明翔が思わずそう呼びかけると、相手はニヤリと笑って小さく首を振った。


「こら、久礼先生だろ。」


「あ、すみません…!久礼先生!」


玲音は慌てて呼び直し、頭をかきながら照れくさそうに笑った。久礼先生はそんな明翔の様子を見て、少し感慨深げに目を細めた。


「お前がここに入る日を、ずっと待ってたんだよ。こうしてまた会えて、本当に嬉しいぞ。……その制服、ちゃんと似合ってるじゃないか」


久礼先生の言葉には、再会の喜びがにじみ出ていた。明翔も、思わず頬を赤らめながら、その温かい視線を受け止める。


「はい、久礼さ…先生が勧めてくれたから……でも、まだ実感が湧かなくて」


明翔は一瞬「久礼さん」と呼びかけそうになり、あわてて「久礼先生」と言い直す。


再び頭をかきながら、照れたように微笑む玲音に、久礼先生も穏やかにうなずいた。


「お前ならきっとやれる。あの日、お前が見せてくれた“能力(チカラ)”……俺は忘れてないからな」


久礼先生の言葉には、信頼と期待がこもっていた。


その声を聞くうちに、明翔の中で不安が少しずつ消えていくのを感じた。


恩人の眼差しに応えたい——その思いが、明翔の心に新たな力を与えていた。


「ありがとうございます、先生。……僕、頑張ります!」


明翔は胸を張って言葉にすると、久礼先生もまた満足そうにうなずいた。


「その意気だ。NEXUSでの生活は厳しいが、頼れる仲間もできる。俺も教官としているから、何かあればいつでも相談してこい」


そう言って久礼先生は明翔の肩に優しく手を置き、まるで再会を祝うかのように軽く叩いた。


明翔は、懐かしいその手の温もりを感じながら、この新しい環境で頑張ろうと心に誓うのだった。



入学式が終わり、明翔は他の新入生たちとともに教室へと向かった。


初めての教室、そして新しい環境。


少し緊張した面持ちの生徒たちが静かに席につき、次の指示を待っていた。


しばらくすると、教室のドアが静かに開き、入ってきたのは先ほど会ったばかりの久礼先生だった。


教壇に立った彼は、少しの沈黙の後、教室全体をゆっくりと見渡す。


その存在感が放つ空気に、生徒たちは思わず息を飲んだ。


「改めて、ようこそNEXUSへ。お前たちの担任教官を務めることになった、久礼 巧(くれい たくみ)だ」


その名が告げられると、教室がざわつき始めた。


小声でささやき合う生徒たちが口々に


「本当にあの久礼 巧!?」

「天才対策官が担任だって…!」


と驚きと興奮を隠せない様子だ。


伝説の対策官として数々の難事件を解決してきた久礼先生は、若い世代の憧れであり、その名を知る者も多い。


「静かに!」


久礼先生が一言、そう言っただけで、教室は再び静寂に包まれた。


鋭い眼差しが生徒一人ひとりを見つめ、自然と背筋が伸びる。


「俺のことはすでに知ってるやつもいるかもしれないが、ここでは一人の教官として接する。容赦なく鍛えるつもりだ」


彼の目が鋭く光り、教室に張り詰めた空気が一層増した。


明翔もその視線に自然と気が引き締まる思いだった。


「NEXUSでは、これからお前たちに必要な知識と技術を徹底的に叩き込む。講義も実技も厳しいが、ここで得たものは必ず力になる。覚悟を持って臨むように」


久礼先生の言葉には、一切の妥協がない。


明翔も含め、生徒たちは真剣な表情で耳を傾けていた。


一通り学校の説明と今後の授業内容について話が終わると、久礼先生はデスクの引き出しから小さな箱を取り出し、それぞれの机に配り始めた。


「これはお前たちの情報端末『PALMEX(パルメックス)』だ。身分証明や校内のシステムへのアクセスも、この端末一つでできるようになっている」


明翔も目の前に置かれた小さな箱を手に取り、慎重にふたを開けた。


中には、リストバンド型の端末PALMEXが収められている。


シンプルながらも洗練されたデザインで、手のひら側に小型のマイクロ映写機が組み込まれていた。


「PALMEXは、リストバンド型の情報端末だ。身分証としても使えるから、普段は手首につけたままで構わないが、必要な時には手のひらにホログラムディスプレイを展開できる。授業の資料、個人の成績、日々のスケジュールがすべてここに登録されている」


久礼先生が端末のホログラムを立ち上げると、透明な青白い光が手のひらに浮かび上がり、画面が空中に投影された。


メニューやアイコンが並び、触れるとまるで実体があるかのように反応する。


生徒たちはその未来的なデザインに目を輝かせ、すぐに手首につけて端末を操作し始めた。


「さらに、お前たちの訓練やミッションにおけるデータもここに記録される。訓練の成果や成績は自動で蓄積され、常に最新の状態が保持される。しっかり使いこなすことが重要だ」


玲音もさっそくPALMEXを手首に装着し、手のひらにホログラムを映し出してみた。


その操作感は滑らかで、まるで目の前に新しい世界が広がっているようだった。


他の生徒も同様に端末を手首につけ、興味深げにホログラム画面を立ち上げている。


「この端末には高度なセキュリティも備わっているが、管理には十分気をつけろ。もし紛失や盗難があれば、直ちに報告すること」


生徒たちは真剣な表情でうなずきながら、手元のPALMEXに視線を落としていた。玲音もその一人で、NEXUSの一員として本格的なスタートを切るのだと実感していた。


入学式が終わったのは、夕方近くになってからだった。


NEXUSでは入学早々、厳格な決まり事や各システムの使い方について、長時間みっちりと説明が行われた。


学園生活でのルールから、PALMEXの操作に至るまで、NEXUSの一員として必要な心得が何度も強調された一日だった。


夕暮れが校舎を柔らかく染め、ようやく解放された明翔は、荷物をまとめて教室を出ると、静かな廊下を歩きながら校門へと向かう。


「明翔!」


背後から聞き慣れた声が響き、振り返ると、そこには幼なじみの倉木 栞が立っていた。


彼女は軽く手を振りながら明翔の元へ駆け寄ってくる。


栞は、明翔が育った孤児院の施設長の娘で、二人が出会ったのは7歳の頃だった。


それ以来、なんやかんやと腐れ縁で、小学校、中学校、そしてNEXUSまでずっと一緒にいる関係だ。


知り合った当初から息が合い、自然と仲良くなった二人は、何かにつけてお互いを支え合ってきた。


「今日、一日中説明ばかりで疲れたね。なんか緊張してずっと座ってるだけでも体力奪われた感じ…」


栞の言葉に、明翔も少し苦笑しながらうなずいた。


「うん、確かに。でも…まだ全然実感が湧かないんだ。ちゃんとやっていけるのかっていう不安も、まだ大きくてさ」


栞は明翔をじっと見つめ、励ますように優しく微笑んだ。


「大丈夫だよ、明翔。この2年間、あんなに頑張ってきたんだから!明翔ならきっとできる」


その言葉に明翔は少し照れながらも、胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。


あの日の壮絶な体験と、栞がそばにいてくれた心強さが、今も支えとなっている。


「ありがとう、栞」


明翔は声を絞り出すように言った。


心の中では、栞の言葉が彼の不安を静かに溶かしていくのを感じていたが、それをすべて言葉にすることはできなかった。


栞も軽くうなずきながら、ふっと笑みを浮かべている。


「私も、ここまで来たからにはやるしかないし、お互い支え合って頑張ろう!」


明翔も頷き、栞と肩を並べて歩き出す。


彼女と励まし合うこの瞬間が、明日からの力になってくれる——そんな思いを胸に、二人は夕焼けの中、静かに帰路についた。


NEXUSでの一日目がようやく終わり、明翔は寮室に戻っていた。


NEXUSでは、扱う情報が極めて機密性が高く、その情報漏洩を防ぐために生徒たちは全員、寮での共同生活が義務付けられている。


明翔の部屋もその一環で割り当てられたものだった。


ベッドに腰掛け今日までの努力と苦労を噛みしめた。


『やっと、ここまで来たんだ…』


明翔は首にかかる小さな十字架のペンダントをそっと握りしめた。


それは彼の決意の象徴だった。


そっと瞼を閉じ、思い返す。


『崩壊の日』を、


忘れたくても忘れられない。


いや、決して忘れてはならない記憶。


ペンダントを握りしめる明翔。


その瞳はゆっくりと深淵の記憶へ落ちていく。


浮かび上がる過去。


『漆黒の空』

『崩壊する世界』

『託されるペンダント』

『泣き叫ぶ栞』

『久礼先生』


『いつか…必ずあなたの真実にたどり着く日がくるわ…』


あの日の出来事がフラッシュバックの様に蘇る。


胸が締め付けるような苦しみに目を開けた。


乱れた息を整える。


「はぁ…はぁ…マザー」


ふと窓の外を見る。


窓の外には脳裏に焼き付く悪夢とは裏腹に絵画のような温かい朝焼けが差していた。


「朝か…」


窓の外を眺める明翔の顔は、絶望を思い出しながらも確かな決意を表していた。

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