第2話 ミステリアス先輩

チリンチリン、と涼やかな音が聞こえてくる。


これは鈴の音だろうか。


何かに呼ばれているようにも感じる。


――タマキ、タマキ。


やっぱり呼ばれている。


たまき


はっとまぶたを持ち上げると、左隣の席に座っている水沢紗良みずさわさらが、小さい身振りながらも「右側を見ろ」と必死に合図を送っている。


なんだろう、と右側を見ると、日本史の竹内たけうち先生がすぐ横に立っていた。


戸越とごえ、寝不足か?」


ハハ、と環は笑ってごまかした。


運のいいことに、その後すぐに授業終了のチャイムが鳴ったので、環はそれ以上先生に追及されることなく昼休みに突入した。


まず最初に紗良と連れ立ってジュースを買いに購買へ向かう。昼休みのお決まりだ。


他の生徒たちが駆け足で購買に急ぐ中、環と紗良はいつもゆっくりしたペースで移動する。


環は何かにつけてのんびりしがちだからだが、紗良は「かえって非効率的」という理由であえて歩くという選択をしているらしい。


「さっきは起こしてくれてありがと」


環は歩きながら紗良に礼を言った。


「起こせてなかったけどね。でもタケぽんの授業だったから、しつこくネチネチ言われなくて良かったね」


「うー、でも内申に響いたらどうしよう」


「テストで挽回すべし」


「もっと無理~」


「なんでよ。塾、通ってるじゃん」


「塾に通ったからといって、学校の成績が上がるわけじゃないんだよ~」


「だからなんでよ」


塾に通わずとも環よりはるかに成績優秀な紗良はあきれた顔をしていたが、急に足を止めて窓に顔を近づけた。


「どしたの?」


「ミステリアス先輩に告白してる強者がいる」


紗良はかけてる眼鏡のレンズを窓ガラスに押しつけるようにして、下をのぞき込んでいた。


「ミステリアス先輩?」


「知らない? 二年生の」


環も窓に顔を寄せると、中庭の植木の木陰に立っている男女二人の頭頂部が目に映った。


黄色く色づいたイチョウの葉っぱが視界を所々さえぎるせいで見づらかったが、女子生徒のほうは遠目にも立ち姿がすらりと印象的で、腰まで届く長い黒髪には環も見覚えがあった。


「あー、あのきれいな先輩か」


「そ。きれいすぎて誰もおいそれとは声をかけられないという。噂では三年の先輩と付き合ってるらしいけど」


紗良は気が済んだのか、窓から離れて再び歩き出した。


環も地上から視線を上げると、向かいの校舎の屋上のフェンスに、一羽のカラスが止まっているのが見えた。


数十メートル離れているはずだが、環はカラスと目が合った気がした。


理由はない。


けれど先を行く紗良のほうが気になって、環は特に気に留めることなく窓から離れた。






環が立ち去った後、カラスは屋上のフェンスから飛び立った。


そのままゆっくりと空を飛翔していく。


ありふれた、都会の日常の風景。


もしそのカラスの足が、三肢でなかったならば――。






学校が終わって塾に行った環は、帰りに無性にチョコレートが食べたくなり、ちょっと遠回りをしてコンビニに寄った。


定番商品にするか季節限定の味にするか、たっぷり十分近く迷った挙句、まったく別のスナック菓子を買って店を出た。


バス通りに面した角を曲がり、緩やかな坂道を上っていくと、短いトンネルがある。


その先の住宅街に環の家はあった。


夜は危ないからトンネルを歩かないように、と心配性のお父さんには言われているけれど、コンビニからだとそちらのルートのほうが近い。


中には蛍光灯もついているし、入り口からは向こう側の出口が見えている距離なのだ。


なので環は夜でもたまにそのトンネルを通って家に帰っていた。お父さんには内緒だが。


今日も近道するつもりで坂道を歩いていると、どこからか「チリン」と音がした。


はっとして環は立ち止まった。


(まただ)


また、昼間の鈴の音が聞こえてきた。


けれど周囲を見回しても音の出所はわからず、しかも今度は一度きりで鳴りやんでしまった。


なんとなく心に引っかかりを感じながら再び歩き出すと、トンネルの入り口手前で、いきなり「カァ」とカラスが鳴いた。


暗くて気づかなかったが、どうやらすぐ脇のガードレールに止まっていたらしい。


心臓が飛び出すんじゃないかと思うほど驚きながら、環はトンネルの中に入った。


「びっくりしたぁ」


そんな独り言をつぶやき、片手で心臓をトントンしながら歩いていると、トンネルの出口からふわっと風が吹いてきた。


微風に乗って、植物の綿毛のようなものが流れてくる。


タンポポだろうか。


環はふわふわと宙を漂う綿毛を避けながら、「あれ、でもタンポポって春だっけ。今は秋だしな」と平和なことを考えていた。


そのままトンネルを通り抜けて、出口の外に足を一歩踏み出した瞬間。


チリンチリン、と激しい鈴の音がした。


「何、これ……」


環はそうつぶやいたきり、目の前の光景に絶句した。


トンネルを抜けた先にあるはずの道路はなく、見たこともない空間が広がっていた。


熱帯地方のジャングルでもお目にかかれないであろう巨大な植物が四方八方につるを伸ばし、むちのようにうねっている。


元来た道に戻ろうとして後ろを振り返ると、なぜかトンネルが消えてなくなっていた。


環は腰が抜けて、その場でへなへなと座り込んでしまった。


これは夢なんじゃないだろうか。


そんな気がして、もう一度だけ確かめてみようと顔を上げると、つるをかわして跳躍中の人物と目が合った。


あれは確か……。


「ミステリアス先輩……?」


ミステリアス先輩も空中から環を見下ろし、目を見開いた様子だった。


「どうして」


そう驚きながら、素晴らしい反射神経で巨大植物の攻撃をかわしている。


手には日本刀らしきものを握っていた。


「ちょっとあなた。ボーっとしてないで立ち上がって!」


先輩は飛び跳ねながら、環を一喝した。


「は、はいっ……!」


声につられて反射的に立ち上がると、それまで先輩ばかりを狙っていた巨大植物が、極太の茎を環のほうへねじった。


環の存在にようやく気づいた、とでも言いたげなその仕草に、環の腰が再び抜けそうになる。


逃げなきゃ、と思うのに、足が震えて動けない。


巨大植物は刀で斬りつける先輩に応戦しながら、つるを一本だけ環に差し向けてきた。


ものすごい速さでつるが伸びてくる。


先輩の「しまった」という声が聞こえたのと同時に、環は足がもつれて尻もちをついてしまった。


串刺しにされる、と本気で思いながら、ぎゅっと目をつぶったが、予想した痛みや衝撃はなかなか訪れなかった。


恐る恐る目を開けると、つるの鋭い先端が、環の眉間すれすれの所で停止していた。


怖かったが、そのうちつるは環の顔の輪郭をなぞるように、静かに動き始めた。


昆虫が触角を使って目の前の物体を調べている。


そんな感じの動きだった。


尻もちをついたまま微動だにせずにいると、急につるの動きがぴたりと止まり、光の粒のように砕け散った。


ミステリアス先輩がいつの間にか目の前に立っている。


先輩が握っていた刀を軽く振るうと、先ほどのつると同じように光りながら消えた。


環はあんぐりと口を開けた。言葉が出てこない。


先輩は片膝をつくと「ケガはない?」と尋ねた。


こんな時に考えることではなかったが、間近で見ると、先輩はますます美人だ。


環はこくこくとうなずいた。


「良かった。じゃあ今のことは忘れて」


先輩がパチンと指を鳴らした。


環の意識がふっと遠のき、視界が真っ黒になっていった。






こてんと眠った闖入者の体をガードレールにそっともたれかけさせると、黒ズボンに黒いTシャツを着た男が夜の闇に紛れて現れた。


インカムまでつけて、見た目は完全に不審者だ。


「遅い!」


一喝すると、男は「悪い悪い」とたいして悪くもなさそうに謝りながら、ガードレールのほうに目を向けた。


「どうしたんだ、その子?」


「境界線を越えて入ってきたみたい」


舞鶴まづるの張った境界線を?」


男は眉を跳ね上げた。信じられない、という顔をしている。


舞鶴だって同じ気持ちだ。


「とにかくこの子、家まで送らなきゃ。うちの学校の生徒みたいだし。ワニ、住所調べられる?」


「ちょい待ち」


男は手元に小型のデバイスを取り出し、片手で素早く調べ始めた。


「あった。これか?」


差し出された画面をのぞき込むと、ボブヘアの顔写真の下に、氏名とクラス、住所などのプロフィールが記載されている。


舞鶴は氏名欄のフリガナを読み上げた。


「とごえ、たまき」


闖入者の顔を見下ろすと、いい夢でも見ているのか、すやすやと心地よさそうに眠っていた。

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