第二話 外見は霞である
「葵さん、馬鹿にしてる?」
「ん、私は客観的事実を述べたまででしょ。あなたはその人の恥ずかしい写真を撮らせ、それをネタにお金を巻き上げている。その人はまんまとまんまとあなたに騙された。悪意を見抜けなかった代償だよ」
葵には空気などないに等しく、だからこそ場の処断という意味ではこの上なく公正で容赦のない声を浴びせることができる。
ゆえに場が悪かったのだ。
昼休みの教室で、堂々と女生徒に『茜ぇ、金貸してよ』などと声をかける男子生徒。経験上葵は自分に空気を読むの機微はなく、ゆえに友情や恋愛とは縁のない人生に甘んじていたが、あまりに見ていられなかった。
それは失う立場がなく、欠片も恐れを感じない葵だからこそ指摘できたことだった。
クラスメイトの多くは目を逸らし、葵に相対する垢抜けた男は青筋を立てている。女生徒の隣席である葵は度々その会話を聞いてきた。
再度告げよう、我慢の限界だ。
「はあ⁉︎おまえ、俺がそんなことすると思ってるの?すべてはこいつの善意だろ」
「私、この前あなた達二人がホテルに入って行くの目撃してるんだよ。それにその子、この前も同じ話して泣きそうになってたし。明らかに親しい間柄に見えないでしょ」
常識に則って傍観できるラインを超えてる。
淡々と付け足すと、男はしたり笑みでうつむいた女生徒の肩に手を回す。
クラスメイトはだれも彼も黙って成り行きを見守っている。葵はその様を嘲笑しつつ理解に努めた。
彼の行いを肯定するには疑惑がほぼ黒だと分かっている。しかし私の肩を持とうにも、もしもの時の報復が怖い。ゆえに空気に徹すると……このサイレントマジョリティ共が。
普段は騒音被害もいとわない彼彼女らを横目に男へと視線を戻す。正確には彼に肩を抱かれて震える女生徒に。
「なあ葵さん。おまえ目が悪いだろ。なんで俺たちがホテルなんぞに入ったって分かるんだよ」
頬杖をついて机に深い吐息をつく。
「私はね、目が悪い代わりに人一倍耳や鼻がきくんだよ。それにあなたが街中で私とすれ違っても気が付かない。今日より三週まえの日曜日、
「ばっ!」
「言い逃れは無用だ。証拠なんてほら、あなたの携帯の写真欄にでもあるでしょ。その子を直接的に脅す方法としては、持ち歩くスマホの方が誰かの目につきやすいからね———」
どうやら嗜虐嗜好の彼は露見するリスクよりスリルを選択していたらしい。……つまらないことに気づいちゃった。
結果として、男は逮捕された。教師にもほかのクラスメイトには良い顔はされなかったし、件の女生徒も『大事にする必要なんてなかった』と葵を非難した。
下手に手を抜くより、徹底した方が反抗の気を折りやすく、なおかつ再犯の危険性を鑑みての処置はどうやら理解されなかったようだ。
内心『あなたがなよなよしてるから他にも飛び火しそうな気がした』と弁明するが、女生徒に言うほどデリカシーのない真似はしなかった。
賑やかな昼休みの窓際で、対照的に葵の気分は最悪だ。
「得られたものはなく、むしろマイナスだよ」
それが葵の日常であり、不満はあってもまだ耐えられた日々だった。
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「お兄さん、風邪ひきますよ」
肩を揺さぶられ、顔を上げると頭に青い帽子を被った人がおり、周囲は明るかった。
朝か……。
目頭の奥で鈍痛をうったえる感覚に耐えつつ、葵は身震いする。
「お巡りさんですか。申し訳ないのですが、時間をお聞きしても」
明るさや周囲の音でおおよその時刻を図ることはできるが、鈍考な葵はそれより直接的な手段に出た。
警官は肩をすくめながらも『八時五十分です』と答えてくれる。
情けないと思いつつも、ベンチから立つ意思はない。
「ありがとうございます。しかし、私は人と約束していてここから離れられないんですよ」
「それは、時間とか示し合せしていなかったのですか?」
「ええ、残念ながら一方的なものでしたから」
困ったものですと笑おうとして、凍り付いた表情筋に阻害される。ほとほと困っているようにしか見えなかっただろう。
しばし黙り込み、まあそれもよしと自分を納得させる。
若い警官は、できれば唇や手先を青くして具合の悪そうな葵に疾く帰ってもらいたかったが、のどをうならせて判断に迷った。葵が同じくらいの年頃なのもあるが、手作業でささくれ立った両手や、灰がかってよく見えていないであろう瞳に、ある種の憐れみを覚えていたのかもしれない。
「もし通報されたなら大人しく退きます。そうでないのなら、見逃してはくれないでしょうか」
「……小官はパトロール中に見かけただけなので強制はしません。ですが、早めに帰宅したほうがいいですよ」
「心遣い感謝します」
失礼します。背筋を伸ばして見事な敬礼を最後に、警官は去っていった。
職務に忠実、実に好感の持てる方だったと偲ぶ笑みを浮かべて、葵は再び目を閉じた。
起きているのも億劫で、抗い難い睡魔の誘いはずっと葵をさいなんでいた。
ようやく、できるならばもう一度も、目を覚ますことのないよう。
我知らずそんなことを願いながら葵は眠りにつくのだった。
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胸を高鳴らせて肩口で切り揃えた銀光沢を靡かせる雪は、ホームルームを終えるや否やバックを肩に早足で教室を出た。
「おい、あの人六之条さんだよね」
「そういやおまえあの人が好きだったんだよな。話しかけてくれば?」
「ばっか言うなよ。絶対零度の『
「ガラスのハートってか……くく」
「んな嗤われると腹立つんだけど」
およそ人間に向ける眼光ではない。血染の、あるいは巫女服の緋の双眸が耳障りと言わんばかりに、昇降口で駄弁る少年二人を射抜き、忙しなく通り過ぎていく。
彼らは生唾を飲んで沈黙していた。
「……聞こえてたのかな」
「でなきゃあんな睨まれんだろ」
「美人の無表情って怖ええ」
「次からはその下心満載の顔をやめろよ、俺まで同類と思われる」
ノイズが雪の耳を掠めるが気にしていられない。早くあの目の悪い青年の顔を見たかった。
その心は心配が八割、興味の二割で決して明るいものではなかった。
「約束したのに……」
道ゆく人々の好奇の視線の下で、雪は焦燥に駆られている。
っまさか朝からストーカーに絡まれて自動車通学になるなんて!
傍迷惑な無象によって大きく予定を外され、あの青年がいなくなってしまえば元も子もない。
検のある凄まじい形相に呑まれて、声をかけようとした男は呆気にとられる。その横を小柄な雪が大股に歩き去る。男など眼中になかった。
「ああいなくなってないよね。いやそもそも死んでないよね」
腹が空いて思考が鈍っていたとは言え、あんなところで敗北者のような空気をまとっていたのだ、雪の思う以上に深刻な状況に陥っていてもおかしくはない。
……弱っていたのは自分も同じなのだけど。
公園までもう少しというところでお詫びの品くらい持っていかなければ失礼だろうという天啓に打たれ、近くのコンビニでカイロとお茶、おにぎりを二つ買った。
袋の中の貼らないカイロを見下ろして考える。
なんとなしに買ってしまったが、それは一晩中あそこで青年が待っていると考えているようではないか。それはいくらなんでも自意識過剰過ぎる。驕る自身を軽蔑しつつ、期待はあった。
罪悪感を覚えて足取りが重くなっていくが、行って確かめる義務がある。
お叱りを覚悟していざ公園に入ってみると、変わらぬ青年の姿を目に入れ、小さくほっと安堵の息をつく。
肩の荷が降りたようで、足取りは穏やかに枯れ葉を踏み締めていった。
「お兄さん」
最初、なんと声をかけたら良いか分からず、名も知らぬ青年をどう呼ぶかも逡巡して、最終的に媚びた言い方になってしまった。
雪には恥じらいを禁じ得ないもので、困ったように眉が八の字で下がる。
薄目に正面を見つめ、組んだ両手のピクリとも動かない様子に雪の頭は冷水を浴びせられた。雪が悶々と呼び方など考えている最中、青年は静止したままだったのだ。
「お兄さん?っ大丈夫ですか⁉︎」
駆け寄って膝をつき、そのこけたほおを両手で包むが、ひどく冷え切っていて反応はない。
息はしている。しかしそれだけだ。
救急車を呼ぶべきか……いや先に体を温めないと冗談ではなく死ぬ!
白の毛艶なマフラーとダッフルコートを羽織らせ、人目も気にせず抱きすくめる。実のところ、周囲は幽庵、クリスマス二日目のイベントが繁華街のほうで開催されているため、近隣住民は出払っていた。
制服越しに抱いた頭から匂うほこりとすえた病人のそれに、焦燥はいっそう腹の底をざわつかせる。
「お兄さん、起きてください。お兄さん!」
しばらく呼び掛けていると、まぶたがかすかに震えた。
まだ希望はある。
息をのみ、頼りない糸をつかむ思いで必死に呼びけた。
「ん……君は」
「お兄さん……よかった」
冬至の近い日、もうすっかり暮れて、青年の声はかすれて顔が死にそうだ。
土気色を帯び、俗に死相と呼ばれるであろうそれを雪ははじめて目にした。かすれた声で眠そうに目をこすっているのが不思議に思える。
青年はようやくといった様子で、己の現状に気がつき、キョロキョロと周囲を見回す。
「ん?私どれくらい寝てたんだ。えっと、夜だよね。あー頭痛い。えー六之条さんだよね」
「それより、なんでこんなところで寝てたんですか!」
「んう、近い近い。近いって六之条さん」
ぎこちない動きで精一杯顔を背ける青年は、決して恥じらっているわけではないようで、鼻をひくつかせて強烈な雪の甘香に顔をしかめた。
その拍子に首にこすれるマフラー、ついで上着の存在に唖然とする。
雪は構わず青年と額を合わせ、頭を掴んで濁った目を睨みつけた。
「聞いてください!あなた死にそうだったんですよ!もっとわたしの声に耳を傾けてよ!」
「え?」
豊かな白のブラウスへと頭が埋められる。さすがに青年も硬直し、時間が止まった。
すべてがぐちゃぐちゃで、少女は黙りこむ。
体を触れさせることに抵抗がないわけではない。しかし心配がそれを上回り、肉体的に弱りきった青年が雪よりはるかに脆弱であると直感した。
「もう少し力を込めたら意識を落とせます。たがら動かないでください……」
首裏に回した腕を身じろぎさせれば、動揺を押さえ込んだ青年はこれ以上なく不服そうに眉を寄せ、見ないように目を閉じた。
代わりといったように雪のほおへ伸びる手、撫で去ってそれは彼女の頭頂を温めるように労わった。
こそばゆく、同時にやはり青年にとって子どもということに不服が芽生える。
だが、いい。今はそれでもいいの。
篤実な青年を拒む理由はなかった。
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初話投稿、うっ区切りしづらい
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