見知らぬ少女は監禁したいそうです

ホノスズメ

序章 

第一話 子供だもの、仕方ないよね

 ——生きる希望はなかった。

 折れそうになる心を奮い立たせて十年あまり、ついに八瀬葵はちせあおいの見苦しい抵抗は終わった。

 美味しいものとはなに、友と語らう楽しみとはなに、親兄弟の愛情とはなに。

 信じて、信じて、信じられなくなっていって、それでも無理だ無理だと嘆く己を殺して人に期待し——葵は諦めた。

 家賃四万の二階建てボロアパート、勤め先のスーパーで人を貶すことに生きがいをかけるような同僚の大学生、親元から離れて再起しようとした矢先に仕送りの催促。

 巡り合わせが悪かったといえばそれに尽きるが、物の味もわからなくなっていた葵には止めだった。

 十五日、布団から起き上がれなくなり、二月でアパートを追い出される運びとなった。

 去る時、大家さんは葵の辛気臭い顔が嫌いだっただと吐き捨てた。同意見だと自嘲した。


「はあ、百円……」


 聖夜に浮き足だった街並みの真ん中で、葵は厚い手のひらに残った持ち金へとため息をついた。

 家賃および滞納の利子というお詫びの印に、大家さんはふんと鼻を鳴らしていた。仕送るぐらいならその方が良かった。大型スーパーの店員服も返却した。社員持ち上がりの話もあがっていたと呼び止められたが、聞く気はなかった。

 目が霞んで数字もはっきり見えない。

 こすっても凝らしても治らず、諦めてベンチを立つ。

 耳をかすめるクリスマスソング、飾り付けられた大きなもみの木を通り過ぎ、笑顔で手を繋ぐ親子とすれ違う。すべてが輝かしい唯一の夜は肩身は狭くて、葵は肩をすくめた。

 けれども、その光景は胸の内を暖かく、どこかこそばゆいのだ。空腹に腹が鳴っても気にならない。そうしていると、ぼうっと街路を歩いて場末まで来てしまっていた。

 日が暮れて数時間、沿道にはちらほら人がいるものの、閑静な住宅街の家々には灯りがともっている。またしばらく歩いて行きつけのコンビニに入った。これといった理由はなく、そうすべき、そんな気がした。


「そういえばお腹空いてるんだった」


 視界に入って気がつく。その足で菓子パンコーナーに向かった。

 百円で買えて、最大限腹を満たせるものといえば、割引のパンだとふと直感する。

 『コッペパン(二割引き)』

 税込で九十九円。ほかの選択肢はなかった。


「ありがとうございましたー」


 気だるげな店員に見送られて外に出ると、いっそう冷え込んでいる。


「くしゅん」


 さすがにほこりかぶったスーツ一枚は辛い。他のものは質に入れたし、寒さを凌ぐ手段はないので我慢する。どこで食べようかと悩んでいると、唾液がじわりと舌を濡らしてはじめて喉が乾いていることを悟った。

 水……公園しかないな。

 こんな住宅街だ。水飲み場のある公園のひとつふたつあるはず。半ば確信しながら葵はポリ袋を下げて歩き出した。

 ————かじかんだ手先がひび割れてくるころ、こじんまりして遊具の少ない公園に行きついた。一本街灯の下でベンチに腰を下ろすと、背筋が震える。

 っ冷たい!

 そうして前かがみになって数分か、白い息をはいて背もたれに預けた。頭を急に上げたせいかくらりとくる。


「っとと、落とすとこだった」


 膝からすり落ちそうになる袋をとっさにつかみ、その勢いで腹がなった。

 きょろきょろと周りを見回し、誰もいないことに胸をなでおろして袋とじに手をかける。どの道、沈む闇にかすんだ視界では、数十メートル先もはっきり見えないのだから意味はほとんどなかった。


「っぐう~」


 今度は葵の腹の虫ではない。おそるおそる首を回せば————白い、だれかがいた。

 輪郭がぼやけてよく見えないけれど、全身真っ白の服で双眸は丸いウサギのようなあか、背丈は低く目測で百五十もない。

 子供だと思って、次になぜこんな夜中にこんなわびしいところにいるのか疑念が駆け巡る。間々あって葵は口を開いた。考えがまとまるまえにその子が目を見張っているように見受けられ、つい開いてしまった。


「……だれだ」

「ろ、六之条雪です」


 幼い声音、そして聞きなれない名字だ。


「そう、六之条というの。さっきの腹の虫は……ああそうだね、無粋だったよ」

「別にいいですが……くちゅん」

「そこは冷える、こっちへ来ては?」


 手招きすると、北風に髪をなびかせる少女は黙考しているようだったが「失礼します」と固くなる葵の隣に腰を下ろした。

 存外素直で拍子抜けする。この年頃の娘は警戒心が強いのに……自信があるのだろうか。葵がおよび知らぬ、絶対的な強さがあるのかと想像した。


「家に帰らないのかい?」

「心配されるわけでもないもの、信頼されててますから」


 確信の余裕を帯びた言葉がのどに引っかかる。


「信頼……ねえ」


 ただ信頼されている。している。それは盲目的でひどく罪深いものであると葵は唾棄する。

 その声調は地面に沈んでいくよう少女には感ぜられ、同時に葵の姿に興味がわいた。クリスマスの夜に一人公園のベンチでうなだれる一般男性、スーツ姿なのも相まってどこか哀愁すらある。


「そういうあなたは」

「私?まあ散歩だよ。ちょっと考え事しててね。あ、これ食べる?」

「いただきます!」


 マフラーの尾を跳ねさせた少女は葵の手から袋ごとぶんどると、中身を見てしけた面をした。葵にはぼんやりして顔色ははっきりうかがえない。それでも残念そうな間を痛感して苦笑する。


「足りなかったかい?」

「い、いえ。そんなことはありませんが」


 質素すぎやしないか。気落ちする葵にはそう続けているように思えた。

 成長期の子はときに胃が別世界につながっているのではないかと思わされるほど食べる。

 微笑ましくなって、申し訳なくなって下手な笑みを浮かべた。

 もぐもぐと味気ないパンをむ少女は今更ながら恥ずかしくなってうつむいた。


「————あまり遅くなっていけないよ。ごみはもらうから早く帰りなさい」


 さ、早く帰んな。言外に唱える葵は指先どころか表情も動かなくなっている自分に気付き、急いで少女を立たせようと手を伸ばすが、関節がギギギと抵抗が大きくて力が出ない。中途半端に空で手が止まった。

 少女が、どんな顔をしているか見えない。沈黙する彼女に眉をひそめる。


「……嫌です」


 そっぽ向いて頑固を決める少女に、ひどく気の抜けた葵は手を下ろしため息をついた。

 見やりつつ投げやりにさとす。

 心底あきれていた。


「夜中だよ、しかもこんな見ず知らずの男と一緒にいて安全だと、どうして言い切れる」

「だって……あなたは目が悪そうですし。それに……」


 元気なさそうだから。ぽつりと少女はこぼす。

 なぜだかその言葉に心揺さぶられ、気炎をはいて帰そうとする勢いがしぼんでいった。

 葵はひび割れた口を開いて閉めるを繰り返し、そらすように目を伏せた。

 当てられた程度でこの動揺、弱ったものだと内しん自嘲する。しかし見とがめないわけにはいかないのだ。それが大人である葵の務めであるから。


「けど、だ。君は未成年で私は大人。大人が子供の安全を見守り、時に注意するのも当たり前のことなんだよ。君が私を気遣ってくれるなら、私の憂いを増やさないでぬくぬくした家へ帰りなさい」

「……そう、ですね。」


 ベンチを立ち、少女は遠ざかっていく。

 話し相手がいなくなるのは寂しいものがあるが、ひとまず安堵できた。少女も身の安全、警戒くらいはできるだろう。

 見送っていると白い後ろ姿が途中で止まる。銀光がさらりと揺れた。あれは髪の毛だと直感して感嘆にため息をつく。


「あの、明日もここにいますか?」

「……どうだろう、君はいてほしいかい」


 葵は自らの失言を悟るも、表情には出せない。凍てついて動かなかった。

 少女は顔をこわばらせるが、声は平静を保ったおかげで葵には淡々としているように聞こえた。


「はい。よければお礼を」

「鶴の恩返しはいらないよ。身に余る」


 白い少女は息を詰まらせ、葵の言葉に返答することはなかった。

 若いなあ。背を丸めて腹をすかせる葵は、空腹にあえぎながらもそれを受け入れて目を閉じた。

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