第8話 与一郎の祝言とお倫の旅立ち

 お倫が庵にやって来て三度目の春を迎えた弥生三月、うららかに晴れて桜が満開を迎えた頃に、与一郎の祝言が執り行われた。相手は藩の重職を勤める高家の次女で、名を美鈴と言った。娘はそれまでに幾度か与一郎に伴われて庵を訪れて居たので、お倫も顔見知りであった。長く引かれた眉の下にきらきらと輝く切れ長の眼があり、才色を備えた色白の面長の貌、腰高の百合の花を思わせる美形であった。

 目出度く祝福する心持ちとは裏腹に、お倫は思いもよらず胸が塞がれた。全く予期せぬことであった。胸の中にぽっかりと大きな穴が開いて其処から隙間風が胸の中を覆うようであった。虚ろな思いがお倫の心を充たした。まさか自分が若先生を思慕しているなんて夢にも思っていなかった。ごろん棒浪人二人に手篭めにされた自分が若先生を恋慕するなんて、そんな大それたことを思う筈も無かった。二年半に及んだ剣の全知全能を傾注した稽古を通じて知らず知らずにお慕いしていたのか、お倫は己の心持に慄いたし、そんな大それたことを、と驚愕もした。が、頭の芯では解かっているとは言え、お倫の哀しみは日を追って深まるばかりであった。お倫は自らの身の置き所に思案した。


 暫くして、お倫は旅に出ることを十内に願い出た。

十内はじい~っとお倫の顔を窺っていたが、やがて

「そうか、愈々行くか」と言った。

「じゃが、なあ、お倫。其の方、生業はどうする心算じゃ?食い扶持に逸れた浪人共はやくざの用心棒になっているかも知れんし、盗賊の仲間に堕ちているかも知れん。表街道だけでなく裏街道にも踏み込まにゃ、仇は討てんかも知れんぞ」

お倫ははっとして顔を挙げ「先生、わたくしは」と言いかけた。

十内は「よい、よい、何も言わずとも良い」と、一、二度頷いて柔和に微笑んだ。

お倫は、先生は全てお見通しだったのだ、と心の中で詫びた。

「先生、わたくしは元より覚悟の上でございます。幸い、わたくしには幼い頃より習い覚えた三味線と謡と踊りがございます。芸は身を助く、と申します。人様の御門前で門付けをして合力を頂き乍ら仇を探そうと存じます」

「そうか、解かった。ならばお倫、後十二、三日待ちなさい、良いな」

 

 それから十日目の朝、十内自らがお倫に稽古をつけた。それは、この老客の身体の何処にこれ程の凄まじい力が潜んでいるのかと思われるほどの、猛烈な申し合いであった。

半刻に及んだ烈しい稽古が終わった後、お倫は床板に両手をついて平伏し肩を振るわせた。その肩を優しく叩いて、十内が言った。

「お倫、これを持って行きなさい」

手渡されたのは一丁の三味線だった。が、それは唯の三味線ではなかった。竿の中に細身の刀身が仕込まれていた。女のお倫が片手で振り回すに手頃な重さと長さであった。撥も象牙で出来た強固なものだった。十分に防具として使い得るものであった。

 その夜、十内を初めお光や与一郎夫妻が集まってお倫を送る小宴が催された。

十内の釣り上げた魚にお光と美鈴の心尽くしの手料理が添えられ、美味で和やかな宴となった。

十内が訊ねた。

「お倫、其の方、福元屋の両親には何とするな?」

「はい、先生。福元屋は既に妹夫婦が継いでおります。それに、わたくしから縁を切った家でございます。今更顔を覗かせて要らぬ厄介にしたくはありません。何かありましたらどうぞ良しなにお執り成し頂けますれば有難く存じ上げます」

「そうか、相い解かった」

それから、宴も終わりになった頃、十内が座を正してお倫に言った。

「お倫。刀というものはどう理屈を付けてみても、所詮は人を斬る道具じゃ。従って、抜かないに越したことは無い。活人剣だ、殺人剣だと言ったところで、それは理屈に過ぎん。抜かなければ我が身の生命が危うい、生命を護るに止むに止まれぬ時以外は矢鱈と振り回さぬことじゃ、な、お倫」

「はい、先生。肝に銘じましてございます」

お倫は深く頭を下げた。

「お倫ちゃん、辛くなったら何時でも戻って来て良いのよ。先生も若先生も奥様も、みんな貴女の無事を祈っているからね。何時でも帰っておいでよ、ね」

お光がそう言ってお倫の肩を抱き寄せた。

お倫はもう顔を上げられなかった。俯いたお倫の眼から大粒の涙が溢れ出て、それが正座したお倫の膝の上にぽたぽたと零れ落ちた。

翌朝早く、お倫は皆に見送られて庵を後にした。

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