第4話 三年前、若い渡世人が一人、茶店で憩うて居た
一年後の春、未だ桜が蕾の寒い季節に、若い渡世人が一人、宿外れの茶店で憩うて居た。三度笠に合羽を着込み、手甲脚絆をつけて一端の無職の格好を気取っているようであった。笠の下の顔は未だ二十歳に満たぬ眼元の涼しい優しい造作だった。頬や口元には子供の幼さが残っていた。
と、その時、遠く馬の蹄の音が起こったと思う間も無く、その音は茶店の方へ近づいて来た。渡世人が、至急の知らせでもする使い番かと首を伸ばして見やると、陣笠に野袴の馬責めの侍だった。
丁度折悪しく、茶店の前を、荷車を引いた老爺が通りかかっていた。
老爺は、疾駆してきた騎馬を避けようとした弾みに、慌てふためいて、路傍の野仏の供物石に車輪を引っ掛け、積荷を引っ繰り返してしまった。地面に散乱したのは収穫したばかりの芋や稗や大根や菜っ葉の類であった。百姓にとってはこれからの飢えを凌ぐ貴重な食料だった。
馬を飛ばして来た侍は、地面に散らばった積荷を蹄で踏み潰したばかりか、駆け抜けざまに、「邪魔者めが!」と一喝すると同時に、老爺にぴしゃりと一鞭くれて走り去った。
「畜生!何てことをしやがる!」
叫んで飛び出したのは、店の端の床几で甘酒を飲んでいた旅姿のあの渡世人であった。
渡世人は直ぐに老爺を茶店の中へ運び入れ、振分け荷物の中から傷薬を取り出して手当をした。老爺の額から唇までの鞭痕は酷いもので片目は既に潰れていた。それから、渡世人はせっせと路上の積荷を拾い集めて荷車へ乗せていった。積荷を拾い終えた渡世人は茶店の婆さんに尋ねた。
「あの気狂い野朗は何処のどいつだ?」
怒気を含んだきつい表情であったが、その声音は幼かった。
「あれは代官所の次席役人で、名を高田軍之丞と言い、手のつけられぬ暴れ者で、地下の者は皆、どんな酷い目に合わされても泣き寝入りするより他は無えんだ」
頭を振って老婆が答えた。
「くそ!畜生!代官所の役人が、なんでぇ、外道め!」
渡世人は憤怒に燃えた眼差しを街道へ送って、叫んだ。
「戻って来やがったら、どうするか見てやがれ!」
やがて、再び馬蹄の音が聞こえると、渡世人はぱっと往還へ飛び出した。
「代官所の役人が怖くて渡世人になれるけぇ!」
そう叫びつつ、黒三の帯をぐいと押し下げて、左手で長脇差の鯉口を切った。
見る間に、騎馬は半町の向こうへ戻って来ており、渡世人は「来やがれ!」と長脇差を抜き放った。
駆け戻って来た高田軍之丞は、行く手を塞いだばかりか長脇差を抜いて、真っ向う、刃向かって来ようとする博徒の姿をみとめると、此方も何か怒号して、ぎらっと宙に白刃を閃かせた。
渡世人と騎馬の距離は、あっという間に縮まった。
が、高田軍之丞の白刃が三度笠めがけて振り下ろされようとした刹那、茶店の中から甘酒茶碗が飛んで来て、軍之丞の額に当った。軍之丞は上半身を仰け反らし、そのまま逆落としに五体を地面へ叩きつけられた。軍之丞は昏倒して、それ切りびくとも動かなかった。主を落とした馬は、渡世人がめくら滅法に振り回した長脇差で馬体の何処かに薄傷を負ったのか、一旦棹立ちになってから、狂ったように駆け去って行った。
渡世人は息を弾ませながら、
「ざまぁ見やがれ!この糞ったれ野朗!」
倒れている軍之丞の顔へ唾を吐きかけた。
その時、茶店の中からゆっくりと往還へ姿を現したのは五十歳半ばの老剣客、菅谷十内であった。
渡世人の傍へ歩み寄った十内が声を掛けた。
「娘だてらに博徒の身形をして、あのような無謀な振る舞いに及ぶとは、呆れ果てた奴じゃな」
言われた渡世人は、へん、と言わんばかりの貌を十内に向けた。
「渡世人は侍と喧嘩をしてはならぬと言う渡世の掟があるのを知らぬのか?お前だけではなく継場の親分衆にも迷惑が掛かるのだぞ。ましてや、相手が代官所の役人とあらば尚更詮議は厳しくなる。暫く、わしの処で身を隠しなさい」
十内はそう言って宿場外れの自分の庵へ渡世人を連れ帰った。
「お前の名は何と申す?」
「へい、光次と申しやす」
「馬鹿者、いつまで気取って居るのじゃ。真実の女名だよ、お前の」
「えっ?・・・はい、百姓の娘で、みつ、と云うだ」
「そうか、光、お光か」
それから十内は、お光を洗い髪の娘姿に還えさせた。おかしなもので、そうなると自然に物腰もしおらしくなり、言葉遣いも改まったものになった。
お光は十内に言葉遣いだけでなく、挨拶や礼儀作法、それに読み書きをも教え込まれ、そのまま庵に居着いて、十内の暮らしの手伝いや身の回りの世話をするようになった。
既に三年の歳月が流れている。
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