第3話 お倫、お光に親しみを抱く

 程無く、善右衛門夫婦が徹底して隠し通そうとする理由が判った。お倫の婚約が既に整っていたのである。相手は隣の宿場で手広く商いをしている太物問屋の次男であった。今年の暮には、その次男を福元屋の婿に迎えることになっていると言う。この出来事が先方の耳に入れば、お倫の縁談は破談になるし、理由が世間に知れ渡れば、お倫は外へも出られなくなる。

「お倫、此方がお前を川で見つけて、助けて下すった菅谷先生だよ」

数日経った或る日、母親の美禰が見舞いに来ていた部屋へ十内とお光を招じ入れて、改めて、二人をお倫に引き合わせた。障子を開けた部屋の夜具の上に、お倫は寝巻きに羽織という姿で座っていた。

お倫は慌てて眼を伏せた。たとえ相手が老客であっても、手篭めにされた後に、半裸で川に浮いていたに違いない自分の姿を、気を失った無防備な様で見られたことは、若い娘にとっては耐えられないほどの羞恥であるのは当然のことであった。

 然し、お倫は間も無く、お光に親しげな態度を示すようになった。何故かお光と居ると心が和むようであった。それは女同士、最も恥ずかしい姿を見られて羞恥の限界を晒したことによる解き放たれた心情のようであった。

「お光さん、一寸一緒にその辺の里を歩いてくれませんか?」

起き上がるようになって五日ほどが経った頃、お倫がお光を誘った。

「外へ出る気になったんですか、お倫ちゃん」

それには答えずにお倫はさっさと草履を履いた。

十内も、少しは気晴らしになるだろうと、遠くへ行かないことを条件に、お倫の外出を許した。


 外へ出ると初秋を思わせる陽気であった。

庵を出て少し歩くと、辺りはもう田畑と山の連なりで、空の青と木々の紅葉の対比の絶妙さに二人は見惚れた。

お倫は小高い峠に連なる細い山道を登り始めた。街道とは違って人の往来は全く無かった。四半刻ほど歩くと道は峠の中腹に出た。西北の眺望は山に囲まれて視界を遮られていたが、東南は下の方に宿場が見え、帯状に光る大川の流れも見て取れた。お倫とお光は枯れ草で覆われた斜面に腰を下ろした。木々の梢は風に揺れていたが、二人が腰を下ろした斜面には風は殆ど無かった。

「わたし、お光さんと一緒に居ると何だか心が休まるんです。安心して傍に居られるんです」

「・・・・・」

「わたしってもう、普通に暮らしている人とは一緒には居られないような気がするんです。負い目を感じてしまって・・・」

「お倫ちゃん、済んだことは忘れることよ。いえ、忘れなきゃいけないわ」

「お父っつぁん達は、このまま予定通り祝言を挙げさせる心算でいるようですけど、わたしはとてもそんな気持にはなれないんです。相手を騙すことになるし、夫婦になれば騙し切れるものではありません。汚れている自分を隠す毎日なんて、苦しくて気が狂ってしまいます」

「お倫ちゃんは汚れてなんかいないわよ。あなたが汚れているとしたら、わたしなんぞはこうして傍に居ることも出来やしないわ。私なんぞの生き方は、まるで溝鼠だったんだから。良い思いなんて何一つ有りゃしなかった。過去から逃れたくて毎日ほっつき歩いているようなものだった、先生に拾われるまではね」

「お光さんは先生の娘さんではないのですか?」

問われたお光は、一瞬、寂しそうな眼差しをお倫に向けた。

「わたしが先生の娘だなんて、夢のまた夢の話だわよ。わたしは貧しい水呑み百姓の娘だったの。先生に救われてこの庵へ来てからは、先生の身の回りのお世話や毎日の暮らしのお手伝いをしているの」

お光は、この傷ついた娘に何とか立ち直って貰いたいと、これまで十内以外には誰にも話さなかった自分の来し方を初めて話して聞かせた。


 お光の村は助郷のために破壊した村のひとつだった。嘗ては、戸数が百数十軒あって本高八百石、新高二百石、計千石の上がりと決められていたが、助郷のために家数が次第に減って、お光が十七、八歳になった頃には僅か七十軒、三百人そこそこになってしまっていたし、耕す田圃も二十数町歩しか無くなって、あとは荒地と化していた。従って、年貢さえもなかなか納められず、まして助郷など及びもつかない仕儀であった。七十戸から五十人の働き盛りの男を助郷役に取られては、五百石はおろか三百石も収穫出来はしない。助郷に出なければ、一人につき七百文、馬一匹につき一貫文という法外な金を問屋場へ支払わなければならない。一年に延べれば千両にも及んだのである。問屋場は先ず、その金の三分の一以上を差し引いた上で、雲助を安く雇い、余剰金は宿役人の得分とした。

 村では助郷のために、爺婆は首を括ったり山へ捨てられたりしたし、娘は皆、売られていく羽目となった。五十人の男が毎日、宿場人足として務めさせられ、街道の掃除を初め丁場や路普請に使役させられたので、田畑を耕すのは老幼や女子の手に委ねられて、作物の豊作など望むべくも無かった。 

 とうとう村では、莚旗を押し立てて問屋場を襲う算段が持ち上がった。が、その算段は実際に一揆を起す前に露見して叩き潰されてしまった。愈々明日蜂起という前日に代官が指揮した役人隊に踏み込まれて、集まっていた全員が斬り殺された。仲間内に誰か密告者が居たのである。

 その頃、お光には吾作という将来を言い交わした幼なじみが居た。同じ村で子供の頃から一緒に遊んで育ち、互いに気心の知れた間柄だった。だが、こともあろうにその吾作が代官の口車に乗せられて仲間を売ったのだった。

「一揆の不穏な動きを事前に知らせれば、士分に取り立ててやるぞ」

お光との先行きが今のままではどうにもならず、何とかしたいと焦っていた吾作は、愚かにもその言葉に乗ったのである。

「吾作の分別ある殊勝な申し立てにより・・・」という代官所役人の言葉を聴いて、自分の言い交わした相手が村の百姓達を裏切ったのだと知ったお光は、痴呆のように自失し、涙も無くただ呆然と立ち尽くした。お光は何も信じられなくなって、絶望の淵に沈んだ。そして、宿場女郎に売られるよりは、いっそ、男に化けて渡世人になってやれ、と自棄の気持ちで村を出奔した。

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