「考える葦」になるために V.1.3

@MasatoHiraguri

第1話 自分の頭で考えない大学生

  1979年(昭和54年)、社会調査(社会心理学)というゼミ(4年生必須)で、私はこんなことを行いました。

○ 自分でテーマを考え

○ その主張(仮説)を裏付けするための質問(A4・10ページ)を作成し

○ 100名の学生にアンケートを行い

○ 自分の考えと現実の調査結果とを論考する

私たち社会心理専攻の学生には卒論がなかったのですが、この一連の考究がそれに相当するかもしれません。

私の考えた仮説とは;

「(1979年時点での我が校の)大学生は、自分の頭で物事を考えず、人の考えや・意見や情報をそのまま受け入れ、自分の意見としている。」というものです。

週刊誌の記事をそのまま自分の考えとして人に話す・意見とする。

本を読まない。月刊誌の論説も深すぎて重すぎて億劫だ。

新聞の記事だけでは、ある時、ある人々や一部の社会しか見ていない。皮相的で、明日には違っているかもしれない。

そこへいくと、週刊誌で取り上げる記事や論説とは、自分の意見にするにちょうど良い。

「諸学の基礎は哲学にあり」という、我が校開祖の言葉とは裏腹に、出来合いの惣菜を買うようにして、人の考えや意見・論考を(週刊誌で)購入し、さも自分で作ったおかずのようにして友人・知人に開陳しているのではないか。

かなり乱暴な仮説と十数ページ程度の質問票、そして、わずか100名というサンプルからの論考でしたが、あらかた「鵜飼いの鵜のように、人の意見や情報をそのまま飲み込んで吐き出す」という一般的な心理的傾向は、この調査によって写し得たのではないかと思います。

早い話が、人の意見や考えを「カンニング」して自分の答えにする。

まあ、当時の我が校生徒に限らず、誰にでもあることでしょうが、2024年の現在では、もはや週刊誌さえも読む気力が失せ・根気をなくし、SNS・ブログといった、つぶやき程度の情報や、文章の読解がまだうまくない子供(幼児)が、絵によって物事を理解するための絵本と同じである写真や動画に頼って社会を知り、この世に生きているという実感に浸っている?


  しかし、そんなコミュニケーションによる自分の存在とは、はたして現実といえるのか(虚構ではないのか)。

現実にぶん殴る大学日本拳法をやってきた私には、何もかも・どいつもこいつも、本気で思いっきりぶん殴って生きているのではなく、いい加減な社会・世の中に慣れ合いで流され、「専門家」という看板だけの(いい加減な)意見をそのまま受け入れてなんとなく生きている。 「なにもかもが「寸止め」にしか見えない、今日この頃なのです。

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